Creation Science クリエーションサイエンス

創造科学 − 科学と、科学のたどり着けない領域
金子 龍太 博士

目次

  1. 序 − 神と科学
  2. 生命の起源
  3. 宇宙の起源
  4. 創造主は人間を愛しているのか
  5. おわりに


1 序—神と科学

神は存在するのでしょうか。人類の歴史から神の概念が消えたことはありません。 それでは人類以前はどうだったのでしょうか。動物や植物が神の概念を持っている とは考えられませんが、では神とは人が考え出した「概念」なのでしょうか。それ とも人が存在する以前から存在する「実存」なのでしょうか。

ここでは「神」の存在について、科学的な側面から、果たして神は存在するのかと いう問題を考えてみたいと思います。歴史的には、神の存在を証明するような科学 的事実が証明されたこともなく、科学の発展にともなってむしろ、以前は「神様が そうしたからそうなっているんだ」という風に説明されていた事柄が、科学的因果 関係をもって説明されてるようになってきました。そのため、現代人は神の存在に 対し疑問を持ち、神は科学に駆逐される運命にある非科学的な概念だ、という風潮 になってしまっているのは事実です。神の時代から科学の時代へ、という考え方で す。しかし実際にはそうではなくむしろ、ある時点で説明のできないものを、安易 に神と結び付けて説明してしまってきていた、ということ自体に誤りがあったので はないでしょうか。現在まで、科学者たちは純真に因果律の起源を追って、ある事 柄にはその原因があり、その原因にはそのまた原因があり、ついにはその第一原因 にまでさかのぼろうとしています。そして、「無からの創造」という壁に当たって しまったとも言えます。あるノンクリスチャンの科学者はこう書いています。「神 の存在などというものを本気で信じている人がいるとしたら、それは宗教家ではな くてむしろ、生物学者か宇宙物理学者ではないだろうか。」

そういう訳で今、科学が高度に発展し浸透してきた時代に、もう一度、科学の目で 「神の存在」という命題に取り組むことは大きな意味があると思います。ではまず 、科学は万能か、ということについて考えてみましょう。もし、科学を専門として いる人間が、「科学は万能だ」「将来、すべてが科学的に説明することができる」 と言ったら、その人間は科学者とは言えないでしょう。研究が進むにつれ、いくつ かの問題は永遠に解が得られないことが証明され、わからないことの多さと、遠い 将来になればわかるだろうかということへの絶望的な見通しを知ることになるから です。たとえば宇宙の果てまで人間がいくことはできません。タイムマシンは作れ ません。死んだ人を生き返らせることはできません。未来を予知することはできま せん。そして宇宙の起源、生命の起源についても、それがどうして誕生したのかー 何の力によって誕生したのかーということについて人間は永遠に知りえません。こ れらについては研究の見通しが立たない、という理由でではなく、できないという ことが科学的に証明されている、という意味です。世の中にはどういう訳か、「科 学を専門としている人間は科学万能主義者に違いない」という偏見があるように思 えますが、実際にはむしろ、科学が専門でない人達の方に、科学はすごい勢いで進 歩しておりそのうち何でもできるようになる時代がくる、と考えている人が多いよ うにも思われます。コンピューター、バイオ、宇宙工学、超伝導、有機化学合成、 衛星通信などなど、ひと昔前にはできなかったことができるようになり、わからな かったものがわかるようになり、病院へ行けば身体の輪切りがCTで見れ、髪の毛 一本からDNA鑑定でいつの時代の誰の物かまでわかってしまう、科学はもっとも っと進歩し続け、万能となるだろうと。しかし、そんなことはありません。永遠に 答えが得られないことが分かってしまった分野があるのです。科学では永遠にたど り着けないもの、そこにわたしたち人類は、「神」の存在を意識せざるを得ないの ではないでしょうか。

しかし、分からないからといって、科学では説明できないからといって、それを安 易に神の概念と直結するということは、現代人にとって説得力のある論証法ではあ りません。しかし、これから見ていきますように「『無からの創造』を直視すべき 地点」までは、科学がたどり着くことができています。その地点にあなた自身が立 って、果たしてこの世界は自然発生によったのか、意志をもったものによる創造だ ったのか、を考えて頂けたらと思います。ある人々は、無から自然に発生してしま ったのだ、と考えるかも知れません。ある人々は神による創造を公理として説明す るほうが自然だ、と考えるかも知れません。そして勇気ある人たちは問い始めるで しょう。誰が創造主なのかと。

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2 生命の起源

一つの典型的な、科学の永遠に辿り着けないもの、それは「生命」です。
生き物は、いったいどうやって生命をもった生命体であるのでしょう。この質問に は永遠に答えがでません。生きている生き物の、生きるための仕組みについては、 どんどんわかってくるでしょう。でも、なぜ生きているのだ、どうして生命はある のか、という問には将来にわたって答えは出せないのです。死んだ直後のものと、 生きているものと、一つ一つの分子に至るまで全く同じものです。しかし一方は活 動せず、もう一方は活動しています。「生命」が取り去られたものに、もう一度生 命を吹き込むことはできません。死んでいる生き物が子孫を生んでいくことはあり ません。自ら活動をすることのできる「生命」とは一体何であるのでしょう。
ここで例えば、自動車はなぜ動くのか、ということを考えてみましょう。エンジン を、最初に電池の力や手回しクランクなどで動かします。するとガソリンはシリン ダーの中で圧縮され、発火温度に達し、着火します。その爆発の勢いでシリンダー ピストンを動かし、バルブが動いて新たなガソリンが吸入され、前回の爆発の勢い で動いているシリンダーピストンを動かし、発電機を動かし電気火花が作られ、再 び着火します。こうしてこのサイクルを繰り返すことでエンジンは動き続けます。 つまり、初めに、スターターモーターを動かす電池の力や、クランクを回す人の力 が必要だったわけです。そのモーターや電池の配線をした人、またはクランクを回 す人には意志があったわけです。偶然なんかの加減でエンジンを回す力が降って湧 いたわけではありません。

この、一番初めにあった意志をともなった力、これが生命の本体ではないでしょう か。初めに何らかの「意志と力」によって生命が誕生し、あとはガソリンさえあれ ばエンジンが回転を続けるように、生命は綿々と続いてきたのでしょう。この初め にあった「意志と力」、これは人間が作りだすことができないのです。例えば、何 か生き物の最も単純な原体である受精卵かバクテリアを模倣して分子レベルで全く 同じものを作りだせる時代が将来来たとしましょう。それはあり得ます。しかし、 そこでいくら、「生きよ」、と言っても、決して動きだして成長していくことはあ りません。SF映画のようにいっぱい電極をつないでいくらバリバリやってみたと ころで決して生きて動きだすことはありません。科学者なら誰でも全員そう言うで しょう。これは科学専門でない方々にも、「未来永劫できまい。」と合意していた だけるのではないでしょうか。フランケンシュタインは小説や映画の中だけです。 30世紀になっても、100世紀になっても、現実にはなりません。アンドロイドやロボ ットはどうでしょうか。例えば生命体というものを自分で栄養をとって活動し、子 孫を残すもの、と広く定義をすれば可能性はあるでしょう。あるロボットに、それ と同じロボットを組み立てることができる能力をプログラムしておくのです。そし て自分で電気なり燃料なりのエネルギーを補給するようにプログラムしておきます 。するとロボットは自分で電気のコンセントを探して差し込んで充電し、部品を集 めてはどんどん自分と同じロボットを組み立て始める、というわけです。もちろん どこででもそのまま活動できるというわけではないでしょうし、感情も意識もない かも知れませんが植物やバクテリアでもそれは同じことです。そういうロボットや アンドロイドはきっと作れるでしょう。これも生命体であると言い張れば言えるの かも知れません。そしてその場合、はっきりしていることがあります。そのロボッ トは人間が「造った」のだということが。決して偶然にその生命活動を始めたので はないということです。意志とデザインを持った手があったからこそ、できたので す。

それでは実際の生命の起源について考えてみましょう。今の学会多数派や教科書な どの意見では、生命は35億年程前の原始の地球に、雷や噴火や紫外線の降り注ぐ 中でいろいろな元素がかき回され、偶然誕生したことになっています。どうでしょ う、例えばアメーバやバクテリアと同じ構造を持つものーたとえ生命でなくとも、 つまり生きていない単なる構造物であってもーかき回して何億年も待てば、いつか は偶然にできてくる、と考えられるでしょうか。論理的に科学的に考えてみましょ う。例えば、鉄屑置き場に嵐がやってきてかき回されて、それが何億年か続いたら ボーイング747型機がいつかは偶然に組み立ってできあがってしまう、と考えられる でしょうか。確かなことにアメーバやバクテリアはボーイング747型機よりもずっと ずっと複雑巧妙にできています。

では現代生物学が解明した、生命であるために必要な最低限の機能を持つ最も単純 な生命体を考えてみましょう。どういう構造と機能があればいいのでしょうか。ま ず、生命として子孫を作り存在し続けていくために、自己を複製する機能が必要で す。細胞分裂によってそれを行うとき、新しく子孫(自分と同じ生物コピー)を作 るために、コピーの鋳型・原版として働く分子が必要です。これにはRNAやDN Aのように、分子配列そのものが情報であって、かつ2分子以上が対合できる化学 構造を持つ分子が必要です。つまり親の情報分子と同じコピー分子が、親分子を鋳 型に対合されて合成されるためです。そしてそのコピーの分子を実際に合成できる ことが必要で、そのためにはかなりの正確さでコピーをしていく役割を持った酵素 が必要です。コピーするに当たってその原料を供給する、原料の合成機能も必要で す。それらの合成に必要なエネルギー、また、自分自身が生きていくための栄養と してのエネルギーを外界から取り入れる機能、それを消化・代謝していく機能も必 要で、そのためにはいくつもの酵素が必要となります。それらの系を閉じ込めて外 界と区別するための膜構造も当然必要で、その膜の構成分子を正しく供給する機能 、組み立てる機能も必要になります。一つ一つの機能を担当する酵素は、化学合成 を正確に行うため、複雑な構造を持った分子となり、それらがざっと見積っても少 なくとも百以上、おそらく数百種類は必要です。これらの酵素を作りだすための酵 素の合成システム、すなわち鋳型であるDNAやRNA分子の情報を翻訳して、そ れで酵素=蛋白質を合成するという機能を持たねばなりません。これらが全て備わ っていないかぎり、生命活動を続けていくことはできません。何万年もかけて少し ずつ集めていって、だんだんできればいいというものではありません。これらの数 百もの複雑な構造の分子が、偶然にこの組み合わせで全て揃って膜の中に入ってし まう、などということはありうるでしょうか。考えただけでも気の遠くなるような 偶然が、いったい本当に起こったと考えられるでしょうか。確率はゼロでしょう。 全て揃わないと生命活動が維持できないため、単なる化学分子の混合物で、拡散・ 分解してなにもなくなってしまうからです。ちょうど死んだ生き物の内容物がばら ばらに浮遊してなくなってしまうようなものです。また忘れてはならないことは、 この生命の最小単位は構成分子の話をしているだけであって、「生きている」とい う生命の本質については言っていません。生物の構成分子という部品を組み立てて 死体の再構成をするのと、それが生を受けて動き出すことは全く別の問題です。生 を受ける、ということについて現代生物学は現在も将来も何も答えてはくれません。

さらに、今述べた構成分子の一つであり、生命の原体だと言われているRNA分子 一つですら、元素をかき回し続けても合成されてくることはありません。ボーイン グは無理だけど自転車ならきっと組み立つ、と思えるでしょうか。酵素のような、 RNAよりも複雑な分子があって始めて整然としたRNAが合成されます。RNA がむりなら、酵素は同じように無理でしょう。進化論者は分子進化ということを唱 え、生命の起源についても分子進化の論法で、生命と無関係な単なる化学分子ー彼 らはRNAより単純で様々な構造の雑多な混合物を想定しているーが自然淘汰・適 応して(生命でもないのに!)分子が進化してきた、と考えています。そして、環 境に適した構造を持ったものが保存され、ついには外部から栄養(エネルギー)を とって自己複製・増殖をする生命を持つに至った。この論理には「ありそうな」と 思える根拠もなければ、そう考える理由もよく分からないと言えないでしょうか。 さらにくわえて、アメーバやバクテリアは生きています。ボーイング747型機がたと え何億年のうちに鉄屑置き場で嵐によって組み立ってしまったところで、まさかそ れがひとりでに自分で飛びはじめると考えられるでしょうか。自分で栄養をとって 自己複製・増殖をする様になりそうでしょうか。ボーイングやロボットをみたひと は、これは誰かが作ったと思うのではないでしょうか。

このように、少し考えればあきらかに変な論理であるのに、なぜこの生命の自然発 生というアイデアは世間で支配的になったのでしょう。おそらく人間は、自分達が 何者かによって造られた、と考えることが我慢できないからではないでしょうか。 従属物である、被造物である、自分達よりも上位の存在がいる、と考えることが耐 えられないからではないでしょうか。人は誰でも物や奴隷のように扱われることを 拒みます。したがって、人にとって、人間は何かから自然に生じて自分達の力でた くましく進化してきたのだ、と考えたいものなのではないでしょうか。言い方を変 えれば、自然発生論は科学ではなく、思想ではないでしょうか。しかし、そうは言 っても、自然発生論がおかしいからといって、神が造った創造論が正しい、という ことの証明にはなりません。しかし、現代生物学は、生命であるために必要な構造 の最小単位を知った段階にまでたどり着いています。その最小単位には、いくつか の正しい構造ー偶然にはできないほど高度に複雑な構造ーを持ったRNAや酵素、 膜成分なども含まれます。このことを科学として知ったうえで、生命の誕生とは、 自然発生によったのか、意志をもったものによる創造だったのか、を考えて頂けた らと思います。

自由な考えを妨げているものに、偏った教育やマスコミの影響などがあります。と くに最近ではNHKなどのコンピューターグラフィック映像などで、原始のRNA 分子があたかも意志をもって泳いで他の分子と融合して進化していく様子などを、 きれいな映像でみせてしまうものですから、視聴者はいかにもそうであっただろう というような錯覚で納得してしまいがちです。映画のジュラシックパークなどもそ うです。しかし、教科書に書いてあること、学校で教えていること、テレビの科学 番組・教育番組で言っていることが間違っていた例は今までいくらもあります。学 会の学説は、ものによっては去年と今年でもう違うこともたくさんありますし、正 反対になってしまうことすらよくあります。ですからそのような情報に束縛されて いる必要はありません。現代の科学は、今述べてきたように、生命の最小単位まで たどり着きました。ここから先は科学では無理です。私たちひとりひとりが同じ知 識の土俵に立っています。もっとうまく説明できる新手の発生論・進化論がでてく ることを科学に期待しますか? 興味深いことに、科学者は「永久に説明できない 」ということを認めることを拒む、という共通した反応をほとんど例外なく示しま す。その科学者達が、「こう考えたい」ということでおおよそ合意ができたら、そ れは科学界での見解となって、一般の人はそういうものかと思ってしまうかもしれ ません。しかし、状況証拠は生命の偶然発生を否定している、と言っていいのでは ないでしょうか。意志とデザインのない生命発生は不可能ではないでしょうか。そ の意志とデザインを持った見えざる手、それを「神」という言葉で呼んできたので はないでしょうか。

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3 宇宙の起源

宇宙物理学者達(天文学者、宇宙論学者、原子核物理学者、素粒子物理学者、高エ ネルギー物理学者など)はちょうど、生命の起源を考えずにはいられない生物学者 (分子生物学者、生化学者、遺伝学者、古生物学者、医学生理学者など)と同じよ うに、宿命的に、宇宙の始まりについて考え研究しています。そしてこの領域には 、人間が直接でてこないため、宇宙を造った創造主という考え方に至るような理論 でさえも、人間を造った創造主がいるという様な考え方よりもずっと人は受け入れ 易いように思われます。多くの物理学者たちが、無からの創造という考え方を受け 入れています。そういったノンクリスチャンの物理学者達はふつう、基本的にはそ の創造主についてはなんびともそれを知りえない、神なのか、何なのか、不可知で あるというスタンスをとっています。それはさておき、宇宙の起源について、現代 科学でどこまで分かってきたかを簡単に見ていきましょう。

宇宙はビッグバン(大きなドカーンという意味)でできたと考えられています。は るか昔、宇宙は一点にある小さな小さな火の玉から爆発して膨張してできたという ものです。初めての人には荒唐無稽なSFのように思われるかも知れませんが、こ れが現代科学のたどり着いた宇宙像です。では、なぜビッグバン理論にたどり着い たかを見ていきましょう。まず始めに気がついたのが、遠くの星や星団を望遠鏡で 観察していたら、それがすごいスピードで遠ざかっていることが発見されました。 遠ざかっていることはドップラー効果で確認されました。よく、救急車やパトカー のサイレンや、すれちがう電車の音が、近づいて来るときは高く、すれちがった瞬 間に音が低くなって遠ざかってゆくことを経験しことがあると思いますが、あれが 音のドップラー効果です。音波は、音源が近づきつつあるときには波長が縮まり、 離れていくときには波長が伸ばされるからです。同じことが光にも起こり、遠くの 星団からの光の波長が伸ばされ、長い波長側にシフトしていることがわかったので す。星団からの光のスペクトルが、特定の元素の吸収スペクトルを目印に見て、長 波長=赤い色側にシフトしていることから、赤方偏移と呼ばれます。こうして宇宙 の全ての星が地球から見てどんどん遠ざかっていることがわかりました。そして、 その遠ざかり方は、遠くの星ほど速いスピードで遠ざかっていて、星の遠さと遠ざ かるスピードは比例していることが分かりました。つまり、全ての星が爆発後の破 片のように、外へ、外へと飛び去って行っているのです。今、人のならんでいる部 屋が膨張して1秒間で2倍の広さになったと考えると、隣の1m離れたところの人 は2mの向こうに行きます。 つまり秒速1mです。しかし、8m離れていた人は 16mの向こうに行ってしまいます。これは秒速8mです。つまり、遠い人ほど、 遠ざかるスピードが速くなる、という訳です。これと同じことが宇宙の全ての星に 対して観測され(有名なハッブルの法則です)、すなわち宇宙は膨張している、と いう考えが生まれました。では、今以前、遠い昔はどうなっていたか、膨張する宇 宙を時間をさかのぼってそのもとの時点に戻ったら、どんどん時間を逆行して膨張 の始まりまで戻ったら ‥‥‥そう、宇宙は一つの点であった? その宇宙の全物質 が一点にあったとすると、物凄い高密度の超高温のものとなる。その物凄いエネル ギーのかたまりの火の玉が、そのエネルギーの大きさゆえに爆発してすっ飛び、こ の宇宙となった。そして爆発の勢いで今もどんどん膨張し、お互いに遠ざかってい る。そして決定的な証拠に、この大爆発の時のエネルギーの放射=爆発の閃光の名 残が、宇宙のあらゆる空間に満ちて地球にも降ってきていることが観測されました 。爆発後、宇宙は時間とともに温度が下がり、現在は絶対温度で3度Kになってい るはずで、まさにその温度に相当する輻射が発見され、3K輻射と呼ばれています 。これらの重要な発見に対して、何人ものノーベル賞受賞者が誕生しています。こ の、宇宙は一つの点から大爆発によって誕生し、広がりつつある、というのが現代 物理学のたどり着いたビッグバン宇宙論で、現在これに対抗する理論、またはこれ を否定する理論はありません。ビッグバンはしかも、素晴らしく的確な大きさとス ピードで起こりました。質量やエネルギーがこれよりも大きくても小さくても、爆 発して飛び散り、ただただ希薄になって星のできない無の宇宙となっていたか、爆 発後収縮してあっという間に潰れてぺしゃんこになる結末になったか、いずれかの 運命をたどっていたはずなのです。宇宙は素晴らしい完全な調和から生まれたと言 っていいでしょう。

では、その原始の火の玉、宇宙の全ての物質を含んだその小さな小さな玉、それは どこから生まれ、現れたのでしょう。現在の物理学では、その小さな玉がプランク サイズと呼ばれる、10-33 センチメートル(1センチを、1の次に0が33個つく 大きな数字で割った長さ)のサイズまで大きくなってから先が、科学的に記述可能 です。時間にすると、爆発最初から10-43 秒後から先です。しかしそれより以前は 量子力学のもたらすゆらぎという厄介な問題があって、科学的に記述できないこと が理論的にはっきりしてしまっているのです。それ以前、爆発の最初の一瞬あるい はその前の日には何があったのか、何が起こっていたのか、これについては科学は 答えを出すことができません。

科学というものは、ある事柄にはかならずその原因があり、それを支配している法 則がある、その法則を見いだそうというものです。そして原因に対し、科学法則を 当てはめると、その結果が予測記述できます。そしてひとつの原因にはその原因が あり、その原因にはそのまた原因があり、ついにはその第一原因にまでさかのぼる ことができるはずです。しかし、その第一原因には原因がない、つまりそれがどう して起こったかを科学的な法則で記述することができません。宇宙とその全物質の 無からの創造、という問題に直面する段階までたどり着いてしまったのです。そし てその宇宙とそこに存在する全ての物質は、明らかにある法則にしたがって動いて います。そして、その法則にしたがい、他の法則にはしたがわないのです。たとえ ば万有引力は、引き合う二つの物体の重さを掛け合わせた値に比例した大きさで働 き、それ以外の法則にはしたがわないのです。二つの物体の距離の二乗に反比例し た大きさで働き、それ以外の法則にはしたがわないのです。私たちの体を作ってい る全ての分子、原子もそれらの自然界の法則に完全にしたがっています。遠い銀河 の超新星の中で飛びかう素粒子も、脳細胞の中で動き回る原子も、もとは宇宙の誕 生のときに生まれた物質から作られ、全く同一の法則にしたがっています。万物は なぜその法則にだけしたがうのでしょう。科学というものは、ある事象にはそれを 支配している法則があると信じて、その法則を見いだそうというものだ、と述べま した。つまり、はからずも、科学はあらゆる事象を支配しているものの存在を前提 としているということです。あるいはそのようなキリスト教的思想があった中世ヨ ーロッパだったからこそ近代科学が芽生えたと言えるのかも知れません。

このあらゆる事象を支配しているもの、美しく完全な調和を持つもの、このような ことを考えるとき、その万物と、そのしたがうべき全ての自然法則とを造った、創 造主というものを考えざるを得ないのではないでしょうか。

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4 創造主は人間を愛しているのか

創造主はおそらく200億年ほど前、始めに宇宙を造りました。それ以前は何をし ていたか? 私たちには永遠に分かりません。そういう質問をする人間のために地 獄を作っていた、という話しもあります。実際、この宇宙以外に宇宙があるか、こ の宇宙以前に宇宙があったか、という問は想像の対象として、科学の対象ではなく 、考えられてきましたが、答えを知るすべもありません。話はそれましたが、まず この宇宙が造られました。そして地球が誕生し、生命そして人類が生まれました。 それは偶然だったのでしょうか、創造主の気まぐれだったのでしょうか、ある確率 で発生するように創造のシナリオに書かれていただけなのでしょうか。ここで少し 話しを変えて、果たして宇宙に地球以外に生命がいるのかということを考えてみま しょう。NASAの物理学者にしたがって仮想の計算をしてみます。宇宙には太陽 のような恒星がおよそ1022 個(1千億の1千億倍)あると考えられています。ちょ っと考えると莫大な多さで、宇宙人が居てもおかしくなさそうな数に思えます。し かし、その中で惑星を持つものがどれだけあるか、というように絞っていったらど うなるでしょう。その確率を仮に十分の一としましょう。これはかなり高めに見積 った確率ですが、そうすると惑星を持つ星は1021 個になります。次に、その太陽に 近すぎず遠すぎない惑星があり、生命を造るのに必要なありとあらゆる元素が全て 揃っていて、さらに大気があり、その大気の量が宇宙線・放射線を吸収してさえぎ るのに十分で、なおかつ可視光線を透過し、星全体がエネルギーを受けられるため に昼と夜を持つ自転の速さを持ち、水のような大きなエネルギー緩衝剤があり、適 当な重力を示す大きさで、というような条件を満たしていかなければならないので 、それらの確率をそれぞれ十分の一、条件の数を22個(これはかなり控えめな数 です)とすると、生命のある可能性のある星の数は1022x (1/10)22 =1個という 値がでてきます。そしてそのような星を私たちは一つ知っています。地球です。他 には、‥‥‥わかりません。つまり、この宇宙に生きているのは、もしかしたら私 たちだけかも知れないのです。神が造った生命は、私たちだけかも知れないのです 。アポロ宇宙船が月から地球を撮った写真があります。大気も水もない、無生命の 荒涼とした星の上空に、青い、水と雲に覆われ海と陸を持つ素晴らしく美しい星が 浮かんでいます。宇宙のほかの部分は、絶対零度に近い空間と原子炉のような恒星 、そして生命は、‥‥多分いないだろう。このような宇宙の中で、神が造った宇宙 の中で、我々は生命を与えられて生きている! 神は私たちを愛しているとしか思 えない!

科学はこの世界のさまを次第次第に解き明かしてきました。生命のこと、宇宙のこ と。かつて神話やSFで好きなように想像することが許されていた時代から、時代 は進歩を続け、とうとう創造主の存在を示唆するような極みにまでやって来ました 。神の存在は確信された、と言ってもいいのではないでしょうか。その創造をした 神は、今もいるのでしょうか、何をしているのでしょうか。創造だけを行い、その 後は何もしていないのでしょうか。それとも私たちを愛し続けているのでしょうか。

神が生命を、私たちを造ったのだとしたら、なぜ造ったのでしょうか。特に目的な どなかったのでしょうか。私たちにはその答えを知るすべもありません。このとて つもなく大きな宇宙を造り、全ての物質のしたがうべき法則を造った強大な力を持 った神の、その考えていることが、われわれ人間に分かるはずもないでしょう。し かし、ただ一つこれだけは言えることがあります。それは、この宇宙の中でわれわ れだけが、神の存在というものを意識することのできる存在だ、ということです。 神が自身の存在を認識するものを、神が意志を伝える相手を、造った、と考える「 根拠」と言えるものはありません。しかしそう考えることは不自然ではないのでは ないでしょうか。そしてもし、そうであるとすれば、神は間違いなく今もいて、私 たちを愛している、ことになるでしょう。そして、神の存在を、神が愛して見守っ ているということを、意識されることが創造の目的だったのかも知れません。もち ろんこれらのことは私の私見で、私は神学の専門家でもありませんが、この宇宙に 生を受けてきた者として、そう考えることが自然なことに感じられます。

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5 おわりに

科学と神とは、対立する種類のものではないことを述べてきました。この世界の法 則と起源を追及し探求する、という科学によって、この世界の始まりを正しくみつ めることができるようになりました。「無からの創造」は宗教ではなく、私たちが たどり着いてきた真理だったのです。神は私たちを愛するために、神と人とがたが いに認識しあうために、人を創造したのかも知れません。そうであれば、宇宙を創 造したほどの強大な神が、自ら創造した愛するものに対して、愛の手や救いの手を 差し伸べていない、ということは考えにくいことです。とすれば、どこかにその手 掛かりがあるのではないでしょうか。そのようなものを私たちは一つ知っています 。聖書です。「光りあれ」で始まる、ビッグバンを思わせるような創造の始めから 、神について記述されているおそらく唯一の書物です。他にはあるでしょうか。わ かりませんが、少なくとも歴史を耐え抜いてきたものはありません。ここから先は 、もう科学のような理屈で理解する領域ではないでしょう。私は聖書をよく調べて 真理かどうかを探してみたいと思っています。この大宇宙と生命を造られた神、し かも私たちを愛しているだろう神について、もっと知って、その強大な力で正しく ガイドされるなら、すさまじく心強く素晴らしいことではありませんか。

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著者略歴

1957年
  • 東京生まれ。
1980年
  • 東京大学工学部合成化学科卒業
  • 日本石油化学(株)入社。化学プラントの設計及びプロセス管理に従事。
1986年
  • 同社バイオ部門に転身。会社より派遣研究員として、東京大学農学部微生物学研究室 に2年半、アメリカ、コロラド大学細胞分子生物研究室に4年半留学。
  • 神経細胞の遺伝子制御に関する研究で博士号(農学)を取得。
  • 帰国後、日本石油中央技術研究所勤務。
現在
  • 生体調節研究所(株)にて抗ガン物質の研究に従事。