pastoreiji の紹介

キリスト教会の牧師をさせていただいています。アメリカのバイブル・カレッジを卒業。アメリカではカルバリーチャペルというグループの教会で同時通訳の奉仕をさせていただいていました。教会の牧師として14年目の時、サバティカルとして立教大学大学院、キリスト教学研究科で博士課程前期課程をさせていただきました。新約学(パウロ研究)をライフワークとして取り組んでいます。

感謝

私はちょうど30年前の1995年に栄シャローム福音教会の副牧師になりました。

その次の年に前任の与那嶺先生ご家族がアルゼンチンに帰国されたので、それから毎週、主日説教をするようになりました。

牧師としての悩みの一つは、どうしたら、信徒の皆様が聖書に親しむことができるだろうかということでした。

なぜなら、聖書を通して神は語られるからです。

信仰生活を何年も経過しても、聖書全体を読んだこともないということは寂しいことです。

それで、今から25年ほど前、聖書全体を教会全体で読むことをチャレンジしました。

一日一章、その週の説教はその中からすることにしました。

それで、このデイリーデボーションが、一日一章を読む助けとして始められました。

この25年の間に、4度、創世記から黙示録まで一日一章を繰り返しました。(ここ最近はリビングライフに沿って、デイリーデボーションを行っていました。)

使徒パウロは、エペソの教会の長老たちにこのように言いました。

「私は神のご計画のすべてを、余すところなくあなたがたに知らせたからです。」(使徒20:27)

25年ほど続けたデイリーデボーションを終えることに寂しさを覚えます。

しかし、これからも聖書に親しんでいただきたいと願います。

5分聖書を読み、5分その箇所を黙想し、5分祈る。

使徒パウロはこのように言っています。

「今私は、あなたがたを神とその恵みのみことばにゆだねます。みことばは、あなたがたを成長させ、聖なるものとされたすべての人々とともに、あなたがたに御国を受け継がせることができるのです。」(20:32)

感謝しつつ、
在主
小山英児

民数記 7:10-89

「モーセは、主と語るために会見の天幕に入ると、あかしの箱の上にある「宥めの蓋」の上から、すなわち二つのケルビムの間から、彼に語られる御声を聞いた。主は彼に語られた。」(7:89)

「宥めの蓋」は「恵みの座」(Mercy Seat)とも呼ばれますが、契約の箱の蓋のことです。

ローマ書にこのように記されています。

「神はこのイエスを、真実による、またその血による贖いの座とされました。」(3:25聖書協会共同訳)

つまり、イエス様こそ、この「宥めの蓋」だと言います。

父なる神は、今、御子イエス・キリストによって私たちに語られます(ヘブル1:2参照)。

モーセが会見の天幕に入り、「宥めの蓋」の上から神の御声を聞いたように、私たちもイエス・キリストの御名によって祈り、聖書の御言葉を開くならば、神は語られます。

イエス・キリストの十字架の血潮は隔ての壁を打ち壊しました。

今、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づくことができます。(ヘブル4:16)

締めは文旦

身体のメンテナンスが必要なお年頃になり、先日もリラのメンバーとそんな話で盛り上がっていました。

今まで通りの生活では体重が増える一方で少々悩んでいるのですが、プロの格闘家を夫にもつメンバーが試合前の減量に「文旦」がとてもいいという情報を教えてくれました。

食物繊維が豊富で糖分が低いそうです。

減量=ダイエットではないか!

その話にすぐに食いついたわたしはメルカリで早速「訳あり文旦」なるものを購入しさっき一つ食べてみました。

グレープフルーツより酸味はまろやかでジューシーなのに、パリパリしています。

血中コレステロールを低下させる働きもあるそうですよ。

神様から与えられているこの身体を、出来るだけ健やかに保つことができるようにお互い気をつけていきたいものです。

さて、とうとう今回で最後の回となってしまいました。

拙い文章を毎回読んでくださり本当にありがとうございました。

これまでのデイリーデボーションを何らかの形でまとめることができたらと願ってはいますが、ひとまずこれでお別れです。

締めは文旦、身体とともに霊的な御言葉の栄養をこれからも取り入れて信仰生活を歩んでいきましょう。

それではこれにてひとまず、さよなら、さよなら、さよなら。

(小山晶子牧師夫人)

民数記 7:1-9

「すると主はモーセに告げられた。 「会見の天幕の奉仕に使うために彼らからこれらを受け取り、レビ人にそれぞれの奉仕に応じて渡せ。」」(7:4,5)

幕屋を設営し、油注ぎをして、聖別した時、族長たちはささげ物を進んで持って来ました。

それは、覆いのある台車六台と、雄牛12頭だったと言います。

すると主はモーセに、

「そのささげ物を受け取りなさい。荷車も幕屋の仕事に必要だから、レビ人に渡しなさい(5節LB)

と言いました。

このように、教会もまた、神に進んで捧げられる捧げ物を受け取り、用いて、キリストのからだを建てあげるために用いていきます。

聖書は言います。

「一人ひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は、喜んで与える人を愛してくださるのです。」(9:7)

今日は主の日、共に主なる神に礼拝を捧げましょう!

民数記 6:13-27

「アロンとその子らが、わたしの名をイスラエルの子らの上に置くなら、わたしが彼らを祝福する。」(6:27)

1980年エルサレムで、2枚の銀の薄板に24-26節の祝福の言葉が刻まれている護符が発見されました。

人々が肌身離さず、神の御名を身に着けていたと考えられます。

それは、神との契約の中にあるならば、神に属しているならば、神が祝福されるという信仰の現れだと思われます。

24-26節はこのように訳せます。

「父なる神はあなたを祝福します。あなたは守られます。

子なる神キリストは、あなたに現してくださいます。あなたは恵まれます。

聖霊なる神はあなたに好意を向けられます。神のシャロームは実現します。」

この神の祝福宣言は、「アーメン」と受け止めることが第一ですが、そこで終わりません。

イエス・キリストを信じる者は、皆、今王の祭司(1ぺテロ2:9)だからです。

私たちも、祝福を宣言していかなければなりません。(1ペテロ3:9参照)

民数記 6:1-12

「イスラエルの子らに告げよ。男または女が、主のものとして身を聖別するため特別な誓いをして、ナジル人の誓願を立てる場合、その人は、ぶどう酒や強い酒を断たなければならない。ぶどう酒の酢や強い酒の酢を飲んではならない。また、ぶどう汁をいっさい飲んではならない。ぶどうの実の生のものも、干したものも食べてはならない。」(6:2,3)

「ナジル」の語根は「区別する」です。

祭司や預言者は、神が選ばれることで、自分で選ぶことはできませんでした。

しかし、男でも女でも、ナジル人の誓願を立てて、神に対する献身を表すことができました。

ハンナはこのナジル人の誓願を立てて祈りました。(1サムエル1:11)

サムソンの場合は特殊なケースで、胎内にいる時から神へのナジル人でした。(士師記13章)

いずれにせよ、特別の願いのために、一定期間、聖別して過ごすことは、レントの期間のように、今も実践されています。

要するに、神は祈りを聴かれるということです。

民数記 5:11-31

「祭司は、その女を進み出させ、主の前に立たせる。」(5:16)

不貞の嫌疑をかけられた妻に対する扱いが記されています。

根底にあるのは、結婚は神への誓いと神の祝福を伴う神聖なものであるということです。

これは新約聖書でも明確です。

聖書は言います。

「結婚がすべての人の間で尊ばれ、寝床が汚されることのないようにしなさい。神は、淫行を行う者と姦淫を行う者をさばかれるからです。」(ヘブル13:4)

性的な罪は、配偶者だけでなく、神に対する不誠実な罪であり、神は必ず裁かれると言います。

キリストと教会の関係がこの結婚関係の文脈で語られていることを心に留める必要があります。

「それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となるのである。」この奥義は偉大です。私は、キリストと教会を指して言っているのです。(エペソ5:31,32)

民数記 5:1-10

「イスラエルの子らに告げよ。男にせよ、女にせよ、他人に何か一つでも罪となることを行って主の信頼を裏切り、後になって、その人自身がその責めを覚えたときは、」(5:6)

すべての罪は神に対する罪です。

ですから、与えた損害を賠償する相手が死んでしまった場合、その賠償を受け取る親類がいなければ、神のものとなり、祭司のものとなると言います。

要するに、賠償することは、自分が行った罪を告白して償う本人のためでもあるということです。

罪はどんな罪でも私たちの心を蝕むからです。

罪を放置することは危険です。

誰も見ていない、知らないと思っても、神はご存じです。

ですから聖書は言います。

「もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。」(1ヨハネ1:9)

民数記 4:34-49

「彼らは主の命により、モーセを通して任じられ、それぞれその奉仕とその運ぶ物を受け持った。主がモーセに命じた、主によって登録された者たちである。」(4:49)

「モーセを通して」、「主がモーセに命じた」とあります。

神はモーセを通して民に語られました。

モーセに語られたことを集めたのが「モーセ五書」と呼ばれる、創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記です。

要するに、神は聖書を通して語られるということです。

私たちは謙遜に、そのことを受け入れる必要があります。

聖書66巻、モーセのように神の霊感によるものです。

私たちは自分の感覚ではなく、聖書を通して、神が何を命じているかを知ることができます。

聖霊さまは聖書を通して、指示を与えてくださいます。

ですから、日々、聖書を読むことは重要です。

民数記 4:21-33

「ゲルション族のすべての奉仕、すなわち、彼らが運ぶすべての物と彼らのすべての仕事は、アロンとその子らの命令によらなければならない。あなたがたは彼らに、任務として、彼らが運ぶ物をすべて割り当てなければならない。」(4:27)

会見の天幕の任務のため、神が与えた霊的権威と秩序によって、役割を担うように命じられます。

主の教会も、神が与えられた霊的権威と秩序によって、建てあげられていきます。

「こうして、キリストご自身が、ある人たちを使徒、ある人たちを預言者、ある人たちを伝道者、ある人たちを牧師また教師としてお立てになりました。それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためです。 私たちはみな、神の御子に対する信仰と知識において一つとなり、一人の成熟した大人となって、キリストの満ち満ちた身丈にまで達するのです。」(エペソ4:11-13)