pastoreiji の紹介

キリスト教会の牧師をさせていただいています。アメリカのバイブル・カレッジを卒業。アメリカではカルバリーチャペルというグループの教会で同時通訳の奉仕をさせていただいていました。教会の牧師として14年目の時、サバティカルとして立教大学大学院、キリスト教学研究科で博士課程前期課程をさせていただきました。新約学(パウロ研究)をライフワークとして取り組んでいます。

民数記 4:1-20

「あなたがたは彼らに次のようにして、彼らが最も聖なるものに近づくときに、死なずに生きているようにせよ。アロンとその子らが入って行き、彼らにそれぞれの奉仕と、運ぶ物を指定しなければならない。」(4:19)

神は愛なる神であると同時に聖なる神です。

役割の違いは、神に対して健全な恐れの心を持たずに、軽々しく扱うならば危険であることを教えているのだと思われます。

ただし私たちの大祭司、イエス・キリストの十字架の御業のゆえに、キリスト者は今恵みの御座に近づくことができます。

「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯しませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように試みにあわれたのです。ですから私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、折にかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」(ヘブル4:15,16)

今日は主の日、共に主なる神に礼拝を捧げましょう!

民数記 3:40-51

「わたしは主である。あなたはイスラエルの子らのうちのすべての長子の代わりとしてレビ人を、またイスラエルの子らの家畜のうちのすべての初子の代わりとしてレビ人の家畜を取り、わたしのものにしなさい。」(3:41)

神はイスラエルの長子と家畜の初子を「わたしのものにしなさい」と言われました。

それぞれの家族から長子を捧げてしまうならば混乱します。

ですから、その代わりにレビ人たちを取り分けると言います。

長子の数がレビ人たちの数よりも多い場合は金銭によって贖われました。

もちろん、救いをお金で買うことができるという意味ではありません。

聖書は言います。

「ご存じのように、あなたがたが先祖伝来のむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、傷もなく汚れもない子羊のようなキリストの、尊い血によったのです。」(1ペテロ1:18,19)

民数記 3:14-39

「レビ族の名は次のとおりである。ゲルション、ケハテ、メラリ。」(3:17)

レビ族は大きく三つの氏族に分けられました。

ゲルション人諸氏族は幕屋の布などを管理しました。

ケハテ人諸氏族は契約の箱や燭台など、幕屋の中で使う祭具などを管理しました。

メラリ人諸氏族は幕屋の骨組みなどを管理しました。

要するに、チームで働いていたということです。

神の働きは決して一人でできるものではありません。

教会も同じです。

適切な役割分担をして、チームで建て上げていくものです。

38節をLBではこのように訳しています。

「モーセとアロンとその子らは、いつも幕屋の東側に天幕を張りました。彼らはイスラエルの人々に代わって、幕屋で仕事をするのです。」

他のレビ人とは違い、モーセとアロンと祭司たちには、聖所の任務がありました。

つまり、神はそれぞれに役割を与えられているということです。

民数記 3:1-13

「ナダブとアビフは、シナイの荒野で主の前に異なる火を献げたときに、主の前で死んだ。彼らには子がいなかった。それでエルアザルとイタマルが父アロンの生存中から祭司として仕えた。」(3:4)

祭司職はアロンの家系に限られました。

選ばれることは責任を伴います。

アロンの息子、ナダブとアビフは「主の前に異なる火を献げたときに、主の前で死んだ」と言います。

これはレビ記10章に出てくる内容です。

「異なる火」が何であったかは明確ではありませんが、この文脈でモーセはこのように言います。

「会見の天幕に入るときには、あなたも、あなたとともにいる息子たちも、ぶどう酒や強い酒を飲んではならない。あなたがたが死ぬことのないようにするためである。これはあなたがたが代々守るべき永遠の掟である。」(10:9)

聖なる神の働きを軽んじないように気をつける必要があります。

民数記 2:1-34

「ユダの宿営に属し、その軍団ごとに登録された者の総数は、十八万六千四百人。彼らが先頭を進まなければならない。」(2:9)

先頭を進むことは危険と隣合わせでもあり、誰もが避けたいものだと思います。

先頭を進むユダ族の最初の登録は74,600人でした。

しかし、最終的に76,500人となります。

ユダの宿営の旗のもとには、ユダ族以外にイッサカル族とゼブルン族もいました。

イッサカル族も54,400人から64,300人になります。

ゼブルン族も57,400人から60,500人になります。

リスクを冒してでも、神の命令に従って先頭を進むならば、神は必ず守り、支えてくださるということだと思います。

民数記 1:47-54

「幕屋が進むときはレビ人がそれを取り外し、幕屋が張られるときはレビ人がこれを組み立てなければならない。資格なしにこれに近づく者は殺されなければならない。」(1:51)

人口調査からレビ族は除外されました。

それは、幕屋で奉仕する働きに専心するためでした。

この原則は新約聖書の教会にも受け継がれます。

使徒たちは言いました。

「私たちは祈りと、みことばの奉仕に専念します。」(使徒6:4)

もちろん、キリスト者は皆、

「選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神のものとされた民」(1ペテロ2:9)

です。

神と人との間の仲介者は、

「人としてのキリスト・イエス」(1テモテ2:5)

だけです。

しかし、今も、教会の働きに専心する人が必要とされています。(1テモテ3章参照)

民数記 1:20-46

「登録された者の総数は、六十万三千五百五十人であった。」(1:46)

モーセとアロンは、

「イスラエルの全会衆を、氏族ごと、一族ごとに調べ、すべての男子を一人ひとり名を数えて、その頭数を調べよ。あなたとアロンは、イスラエルにおいて、二十歳以上で戦に出ることができる者をすべて、その軍団ごとに登録しなければならない。」(2,3節)

という神の命令に従い人口調査をしました。

ルベン族は46,500人、シメオン族は59,300人、ガド族は45,650人、ユダ族は74,600人、イッサカル族は54,400人、ゼブルン族は57,400人、エフライム族は40,500人、マナセ族は32,200人、ベニヤミン族は35,400人、ダン族は62,700人、アシェル族は41,500人、ナフタリ族は53,400人、

総数は603,550人。

26章で、約束の地に入る直前に再び行われた人口調査によって登録された総数は601,730人でした。

神は信実を尽くされるお方です。

どんな今日を迎えているかな

今日は金曜日。

みなさんがこの文章を読むのは明後日の日曜日だと思いますが、その頃には長男の結婚式が無事終わっていると期待して書いています。

お天気は大丈夫だったかな、参列してくださった方々に失礼はなかったかな、他にもいろいろ心配があり今の私はなんだか落ち着かないというか合格発表を待っているような気持ちでいます。

結婚式に参列してくださった方々の数名は今日の栄シャロームの礼拝にも参加してくださるとのこと。

それからニューワーシップチームが始動!

ということで新メンバーが賛美の奉仕に加わってくださる記念すべき日でもあります。

卒業式を迎え新たな旅立ちのシーズン。

仕事の都合で海外へと旅立つ人もいます。

わがたましいよ 主をほめたたえよ
主のよくしてくださったことを
なに一つ 忘れるな

親として皆さまにひとこと。
様々な困難の中で勇児の成長を共に見守り、祈り育んでくださった事を心から感謝します。勇児と唯のこれからの歩みの上にも皆さまの祈りと励ましを変わらず注いでいただければ幸いです。
これからもどうぞよろしくお願い致します。     (小山晶子牧師夫人)

民数記 1:1-19

「エジプトの地を出て二年目の第二の月の一日に、主は、シナイの荒野の会見の天幕でモーセに告げられた。」(1:1)

民数記はヘブライ語聖書では「荒野で」(ベミドバル)という書名となっています。

モーセは荒野で神の御言葉を聴きました。

私たちは荒野のような体験を通ることがあります。

しかし、その時こそ神の御声を聞くチャンスです。

モーセが神の御言葉を聴いたのは「会見の天幕」でした。

神の御言葉を聴く最高の場所は「会見の天幕」のような存在である「教会」です。

渇いた心のまま、教会に行き、牧師が語る聖書のメッセージに耳を傾ける中で、自分が必要としていたメッセージを聴いたという経験がある人は多いと思います。

神は今も語られています。

私たちが耳を傾けるなら、聖霊様は今も聖書の御言葉を通して語られます。

今日は主の日、共に主なる神に礼拝を捧げましょう!

ヨハネ 21:15-25

「イエスはペテロに言われた。「わたしが来るときまで彼が生きるように、わたしが望んだとしても、あなたに何の関わりがありますか。あなたは、わたしに従いなさい。」」(21:22)

「人生を導く5つの目的」の中で、リック・ウォーレン師がこんなことを述べています。

「神はあなたに、『なぜあなたはお兄さんやお父さんやお母さんのようにならなかったのですか。あなたは有名になりましたか。どれだけ多くの人に認めてもらいましたか。みんなの期待に応えることができましたか』とはお尋ねになりません。そうではなく、『あなたは自分の目的を全うしましたか』とお尋ねになるのです。」

イエス様は私たち一人ひとりにペテロと同じ言葉を語られています。

「あなたは、わたしに従いなさい。」

他の人と比較しても意味はありません。

神は私たち一人ひとりにそれぞれ目的を与えられているからです。