pastoreiji の紹介

キリスト教会の牧師をさせていただいています。アメリカのバイブル・カレッジを卒業。アメリカではカルバリーチャペルというグループの教会で同時通訳の奉仕をさせていただいていました。教会の牧師として14年目の時、サバティカルとして立教大学大学院、キリスト教学研究科で博士課程前期課程をさせていただきました。新約学(パウロ研究)をライフワークとして取り組んでいます。

ヨハネ 21:1-14

「それで、イエスが愛されたあの弟子が、ペテロに「主だ」と言った。シモン・ペテロは「主だ」と聞くと、裸に近かったので上着をまとい、湖に飛び込んだ。」(21:7)

トンプソンという学者が、こんなことを言っています。

「人々がイエスを認識し、イエスを信じて従うことを可能にするのは、他の人々の証しである。」

イエス様との出会いの証を誰かが話しているのを聞いて、イエス様を認識するというのがほとんどだと思います。

誰かが、ヨハネのように「主だ」と証することによって、認識することができるということです。

ですから、私たちはイエス様のことを証し続ける必要があります。

ペテロは、ヨハネの証を聞いて、行動を起こしました。

イエス様のそばに行きたいと飛び込んだのです。

私たちができることは、ヨハネのように「主だ」と証するところまでです。

あとは、その人が、イエス様を認識し、イエス様の方へ飛び込むかどうかということです。

ヨハネ 20:24-31

「トマスはイエスに答えた。「私の主、私の神よ。」」(20:28)

トマスの信仰告白の言葉は、明確に、イエス・キリストを「神」として描写しています。

イエス様は三位一体なる神の第二位格です。

トマスは、確信を持って宣言しました

「あなたは私の主であり、私の神です。」

ヨハネの福音書を読んだ初代教会のクリスチャンたちにとって、この響きは、現代の私たちと違った響きだったと思います。

なぜなら、ローマ皇帝(ドミティアヌス)が、自分自身を「主であり、神」と呼ぶことを求めていたからです。(スエトニウス、Dom.13)

皇帝崇拝を強要される中で、皇帝ではなく、イエス・キリストこそが、

「あなたは私の主であり、私の神です。」

と告白するトマスの姿に、初代教会のクリスチャンたちは励まされたのだと思います。

ヨハネ 20:11-23

「こう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。」(20:22)

「息を吹きかけて」と言う単語は、新約聖書ではここでしか使われていません。

しかし、七十人訳では6回使われています。

その一つは、創世記2:7です。

「神である主は、その大地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。それで人は生きるものとなった。」

まさに、この場面が、イエス・キリストがなされたことでした。

イエス・キリストは、新しい世界をもう一度創造されただけでなく、もう一度人にいのちの息を吹き込まれ、新しい命に生きる者とされたということです。

ロイドジョンズ博士は、イエス様が「聖霊を受けなさい」と語られた時に、弟子たちは実際に聖霊を受けたんだと主張します。

「全能者の息の吹きかけが人間にいのちを与え、古い世界を始められたように、大能の救い主の息の吹きかけが、その宣教にいのちを与え、新しい世界を始められた。」(M.H.)

ヨハネ 20:1-10

「さて、週の初めの日、朝早くまだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓にやって来て、墓から石が取りのけられているのを見た。」(20:1)

「週の初めの日」とは、日曜日のことで、キリスト教会が日曜日に礼拝する理由が、ここにあります。

つまり、イエス・キリストが復活された日を「主の日」として覚え、私たちは日曜日に礼拝しているのです。

イエス・キリストが復活されたのが歴史的事実であるがゆえに、今も世界中で、日曜日に礼拝が捧げられています。

イエス・キリストは、死の力を打ち破り、よみがえられ、今も生きておられます。

イエス・キリストは、

「二人か三人がわたしの名において集まっているところには、わたしもその中にいるのです。」(マタイ18:20)

と約束されました。

ですから、よみがえられたイエス・キリストは、私たちのただ中におられます。

たとえ、私たちの肉眼では見えなくても、「ここにおられる」というイエス様の臨在を、私たちは感じることができます。

ヨハネ 19:31-42

「その後で、イエスの弟子であったが、ユダヤ人を恐れてそれを隠していたアリマタヤのヨセフが、イエスのからだを取り降ろすことをピラトに願い出た。ピラトは許可を与えた。そこで彼はやって来て、イエスのからだを取り降ろした。」(19:38)

イエス様が死んだ後、アリマタヤのヨセフが登場します。

彼は今までイエス様の弟子であることを、ユダヤ人を恐れて、隠していました。

彼は「秘密の弟子」(a secret disciple)(TPT)でした。

彼がその後どうなったかは分かりません。

ある伝説では、ユダヤ人たちが彼を捕えて、窓のない家の中に拘置したけれども、復活されたイエス様がそこから奇跡的に救い出したと言います。

聖書に書いてありませんし、歴史的事実ではないと思います。

ただ、「秘密の弟子」が、信仰の一歩を踏み出したことによって、歴史を超えて、どれだけ多くの人たちが、そのことによってインスピレーションが与えられてきたかを見ることができます。

かなりつらい

終戦後の荒廃した日本に積極的に植えられた大量の杉の木。

その花粉はいま春の風に乗って飛来し、わたしたちを悩ませています。

個人的には2週間ほど前から急に症状がひどくなってきたと感じていますが皆さまはいかがでしょうか。

昨晩は耳の中や口の中が痒くて痒くてなかなか眠れませんでした。

杉の種は成熟した杉の木が地面に落とす「球果」と呼ばれる実の中に含まれていてそれが地面に落ちて芽を出し、新たな杉の木が生まれるのだそうです。

さらに杉は日本の固有種だと今回初めて知りました。

学名は「クリストメリアヤポニカ」、{隠された日本の財産}という意味なのだそうです。

ヒマラヤスギ、レバノンスギなど「スギ」の名前がつくものはありますがそれらはいずれも「マツ科」。

日本の杉は「ヒノキ科」なのだそうです。

厄介者に感じますが二酸化炭素の吸収率が高い、根を深く張るので土砂崩れを防ぐ、シロアリなどの繁殖を防ぐ、天然の調湿作用があるなどなどメリットも多く生活の中でわたしたちはその恩恵も受けているとのこと。

ネガティブな中にも恵みはたくさんあることを体験できる1週間でありますように。

神様の恵みは宝のようにあちこちに隠れていますから。

(小山晶子牧師夫人)

ヨハネ 19:23-30

「イエスは酸いぶどう酒を受けると、「完了した」と言われた。そして、頭を垂れて霊をお渡しになった。」(19:30)

イエス様は十字架の上で言われました。

「完了した」(19:30)

28節に、

「イエスはすべてのことが完了したのを知ると」

とありますが、聖書が私たちに教えていることは、イエス・キリストは十字架によって人間の罪の問題を解決済みにされたということです。

神はただ人を愛しているからと言って、人間の罪の問題を無かったことにすることはできませんでした。

神は神ですから、正しい裁きをゆがめることはできません。

ですからイエス・キリストは、十字架の上で、私たちの身代わりとなって正しい裁きを受けてくださる必要がありました。

多くの新興宗教は、イエス様の十字架の御業を過小評価します。

イエス様は失敗したから新興宗教の教祖が必要だと主張するのです。

しかし、イエス様の十字架の御業は完全でした。

今日は主の日、共に主なる神に礼拝を捧げましょう!

ヨハネ 19:14-22

「ピラトは罪状書きも書いて、十字架の上に掲げた。それには「ユダヤ人の王、ナザレ人イエス」と書かれていた。」(19:19)

新約聖書の中には、福音書が4つ収録されています。

この4つの福音書に共通して記述されている出来事があります。

それは、イエス・キリストの十字架と復活です。

つまり、イエス・キリストの十字架と復活を語ることなしに、福音を語ったことにはならないということです。

ですから、宗教改革の指導者、ルターが言ったように、「十字架のみがわれわれの神学である」ということです。

そして、このイエス・キリストの十字架と復活の共通点の一つは、十字架の上に掲げられた罪状書きです。

そこには、「ユダヤ人の王」と書いてありました。

「福音」と訳されたギリシア語の単語は、「王の即位を知らせる」と言う意味がありました。

つまり、イエス・キリストは、あの十字架の上で、ユダヤ人の王として即位されたと言うことを示しているのです。

ヨハネ 19:1-13

「イエスは、茨の冠と紫色の衣を着けて、出て来られた。ピラトは彼らに言った。「見よ、この人だ。」」(19:5)

ピラトがどういう思いでこの言葉を発したのかは、想像の域を超えませんが、明らかに、ピラトが知っている以上のことを彼は言ったと思います。

「この人を見よ」をラテン語では、「エッケ・ホモ」(Ecce Homo)と言います。

ドメニコ・フェッティという画家が、この題で書いた有名な絵があります。

ある時、1人の青年が旅先で、美術館に立ち寄りました。

彼はその美術館に展示されていたこの絵の前で身動きが取れなくなりました。

彼の両眼からは涙があふれていました。

この絵は、いばらの冠をかぶったイエス様の絵です。

この絵の下に、ラテン語でこのように書かれていました。

「わたしは、あなたのために、これをした。あなたは、わたしのために、何をするか」

彼こそは若かりし頃のツィンツェンドルフ伯爵。

彼が導くモラビア兄弟団は世界中に宣教師を派遣する団体となります。

ヨハネ 18:28-40

「すると、彼らは再び大声をあげて、「その人ではなく、バラバを」と言った。バラバは強盗であった。」(18:40)

「強盗」と訳された単語は政治的なテロリストという意味があります。

要するに、バラバはユダ・マカバイのような「反乱首謀者」だったのです。

ですから、メッセージ訳では

『バラバはユダヤ人の解放運動戦士だった』

と訳しています。

イエス様の罪状は、十字架に掲げられた罪状書きに「ユダヤ人の王」と記されたように、王と名乗り、民を扇動した反乱首謀者です。

バラバの名前が挙がったのは、彼が反乱首謀者だったからです。

バラバは、軍事的な抵抗運動、暴力的反乱によって、解放を信じる人の希望です。

イエス様は人から踏みにじられるままにしなさいと言った訳ではありません。

ただ、マカバイ抵抗運動のように、軍事的な抵抗運動、暴力的反乱に加わってはいけないと言われたのです。

いつの時代も、バラバかイエス様か人々は選択することになります。