黙示録 19:11-21

「その衣と、もものところには、「王の王、主の主」という名が記されていた。」(19:16)

イエス・キリストは今から約2千年前、イスラエルのベツレヘムの馬小屋でお生まれになられました。

これを、キリストの「初臨」と呼んでいます。

今日の箇所は、天が開かれ、キリストがこの地に戻ってこられることが記されています。

これをキリストの「再臨」と呼んでいます。

聖書は私たちに、やがて再臨されるキリストのイメージは「王の王、主の主」だと言います。

ヘンデルのメサイヤのハレルヤ・コーラスで歌う通りです。

このキリストのイメージを感じることができるならば、かつて、その演奏を聞いた王様が立ち上がったように、王なるキリストの前に、立ち上がり、襟を正し、敬意を表さずにいられないことでしょう。

キリストを自分の人生の王として、認め、歓迎しているでしょうか。

キリストは、素晴らしい王です。

王の王、主の主、イエス・キリストです。

黙示録 19:1-10

「その後、私は、大群衆の大きな声のようなものが、天でこう言うのを聞いた。「ハレルヤ。救いと栄光と力は私たちの神のもの。」(19:1)

今日の箇所に4つのハレルヤが出てきていますが、それぞれに、私たちが「ハレルヤ」と神を賛美する理由が記されています。

まず、神が正しい裁きをされたがゆえに「ハレルヤ」と賛美しています。(1,2節)

次に、神の救いの御業が完成されたがゆえに「ハレルヤ」と賛美しています。(3節)

それから、神の命令のゆえに「ハレルヤ」と賛美をしています。(4,5節)

私たちは創造主なる神を賛美するために造られました。

そして、キリストと教会の婚礼のゆえに、「ハレルヤ」と賛美しています。(6-9節)

キリストと教会の結婚の一番のポイントは「ずっと、一緒」ということです。

イエス・キリストと、永遠に一緒、これほど素晴らしいことはありません。

私たちの本当の必要に、唯一、答えることができるのは、イエス・キリストだけだからです。

黙示録 18:9-24

「天よ、この都のことで喜べ。聖徒たちも使徒たちも預言者たちも喜べ。神があなたがたのために、この都をさばかれたのだから。」(18:20)

商業都市バビロンが一瞬の内に滅びてしまうことが預言されています。

終わりの日に、神の裁きとして、築いてきた富が一瞬の内に消えてしまうような出来事が起こるというのです。

問題はこれです。

「私たちは何のために生きているのか。」

商品を買うためでしょうか。(12,13節参照)

主は言われます。

「おまえの心が欲しがる果物は、おまえから遠ざかり、ぜいたくな物や華やかな物は、すべておまえから消え失せて、もはや決して見出すことはできない。」(14節)

極端になる必要はありません。

商品を買うことが悪いわけではありません。

問題はいつも、神を無視することからはじまります。

神よりも商品を求めることが問題です。

「まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。」(マタイ6:33)

黙示録 18:1-8

「それから私は、天からもう一つの声がこう言うのを聞いた。「わたしの民は、この女の罪に関わらないように、その災害に巻き込まれないように、彼女のところから出て行きなさい。」(18:4)

聖書は商業都市バビロンから離れなさいと言います。

これは、今の時代に生きる私たちにとってどういう意味でしょうか。

ローマ12:2がとても明確だと思います。

「この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。」

私たちは、この世の移ろいやすい価値観に流されてはいけないということです。

聖書がいうこの世の価値観は、Ⅰコリント15:32に要約されます。

「あすは死ぬのだ。さあ、飲み食いしようではないか。」

決して揺るぐことがない神のみことば、聖書の考え方に、自分の考え方を刷新させていく必要があるということです。

黙示録 17:7-18

「彼らは子羊に戦いを挑みますが、子羊は彼らに打ち勝ちます。子羊は主の主、王の王だからです。子羊とともにいる者たちは、召されて選ばれた忠実な者たちです。」(17:14)

「子羊」はイエス・キリストのことです。

申命記10:17に

「あなたがたの神、主は神の神、主の主、偉大で力があり、恐ろしい神。」

とあります。

このイスラエルの神のアイデンティティは、今やイエス・キリストを表わすものとなりました。

イエス・キリストとともにいる者は、神様に召された者、選ばれた者だと言います。

召されているか、選ばれているかは、その人の忠実さに表されると言います。

主は言われます。

「死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与える。」(2:10)

忠実さと信仰は同じ語源の言葉です。

パウロはこのように言います。

「私は勇敢に戦い抜き、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。」(2テモテ4:7)

黙示録 17:1-6

「私は、この女が聖徒たちの血とイエスの証人たちの血に酔っているのを見た。私はこの女を見て、非常に驚いた。」(17:6)

私たちが脅威を抱く「宗教」とは、「バベルの塔」のように、創造主なる神とはかけ離れた、政治的に利用された「人の教え」の組織です。

こういうことです。

ある宗教家の教えが絶対だと教えられます。

そして、その宗教家が言うことは、何でも行うように努力します。

最初は、いいことばかり言われることでしょう。

そして、自分の中に、この人の言うことさえ守っていれば大丈夫とインプットされます。

すると、その宗教家がおかしなことを命じてても、分からなくなってしまうのです。

そこで権力者たちが宗教家を利用し、悲劇が起きます。

指導をする宗教家には大きな責任がありますが、私たちの側も気をつける必要があります。

人間に盲従してはいけません。

聖書に照らしてチェックすることが大事です。(1ヨハネ4:1参照)

黙示録 16:1-21

「見よ、わたしは盗人のように来る。裸で歩き回って、恥ずかしい姿を人々に見られることのないように、目を覚まして衣を着ている者は幸いである」(16:15)

ヨハネの黙示録は、これから起こることのインフォメーションを与えるためだけに記されたわけではありません。

大地震を含むすべての災いは、その後に登場するイエス・キリストの序章です。

「キリストが再び来られる」ということを伝えるために、これらの災いは存在しています。

ここに、メッセージがあります。

「世界が揺れ動いた時こそ、わたしが現れる時です」ということです。

大患難時代、キリストは裁くためにやってきます。

しかし今、私たちが生きている恵みの時代では、キリストを信じる者のために来られます。

問題のただ中において、キリストを体験することを「臨在」と呼びます。

キリストはまずクリスマスに、この世に誕生されました。

今日は主の日。アドベント3週目。

共に主なる神に感謝と礼拝を捧げましょう!

黙示録 15:1-8

「私は、火が混じった、ガラスの海のようなものを見た。獣とその像とその名を示す数字に打ち勝った人々が、神の竪琴を手にしてガラスの海のほとりに立っていた。」(15:2)

「ガラスの海」とは、英語では「クリスタル」の海と訳していますように、「輝き」を意味しています。

つまり、栄光に輝く、神の臨在を指しています。

「立琴」は、ここでは賛美を意味しています。

つまり、そこでは不平不満はなく、感謝と賛美に満たされるということです。

その日、私たちの「どうして?」は消え去り、ただ、神を賛美するだけになると言います。

私たちの人生には、いろいろな「どうして?」があります。

その質問の答えを一生懸命考えても、そんなに助けにならないかもしれません。

しかし、その時、神の栄光の臨在の前に、ただ立琴を持って立っている自分に気がつくというのです。

「ですからあなたがたは、現に行っているとおり、互いに励まし合い、互いを高め合いなさい。」(1テサ5:11)

黙示録 14:14-20

「また私は見た。すると見よ。白い雲が起こり、その雲の上に人の子のような方が座っておられた。その頭には金の冠、手には鋭い鎌があった。」(14:14)

この箇所は、地上における最後の審判として行われる大戦争、俗に言う「ハルマゲドン」の戦いを指すものと考えられています。

ハルマゲドンの戦いは地の全面に戦禍が及ぶ大戦争であること、そして、この戦争による死傷者の多さを黙示録は預言しています。

人間の歴史は、残念ながら戦争の歴史でもあります。

沢村五郎師はこんなことを言っています。

「神を離れた人類はただ自分のためにのみ生きようとします。自らが生き、得、栄えるために、自分と対立する相手を倒そうとして戦争と闘争を繰り返してきました。人類の歴史は争いの歴史です。地上の最後の歴史は戦争をもって終わるのです。」

心に留めるべき内容だと思います。

黙示録 14:1-13

「また私は見た。すると見よ、子羊がシオンの山の上に立っていた。また、子羊とともに十四万四千人の人たちがいて、その額には子羊の名と、子羊の父の名が記されていた。」(14:1)

子羊はイエス・キリストを指しています。

この世界が、反キリストと偽預言者に完全に支配されたかのように見えた中、キリストとともに、14万4千人のクリスチャンが登場します。

彼らは三つの特徴があります。

第一番目に、彼らの額には子羊であるキリストのしるしがつけられていました。

その人たちの内にしるしのように、イエス・キリストが聖霊なる神として住んでくださるということです。

第二番目に彼らは、「新しい歌を歌った」とあります。

聖書は「新しい歌」を大事にしています。

なぜなら、イエス様は生ける神なので、その関係は日々、新しい、新鮮なものだからです。

第三番目に、彼らの特徴は「傷のない者」だと言います。

イエス様はそのために十字架にかかって死んでくださったのです。