2列王記 23:31-24:7

「そこで主は、カルデア人の略奪隊、アラムの略奪隊、モアブの略奪隊、アンモン人の略奪隊を遣わしてエホヤキムを攻められた。ユダを攻めて滅ぼすために彼らを遣わされたのである。主がそのしもべである預言者たちによって告げられたことばのとおりであった。」(24:2)

「そのしもべである預言者たち」の一人は、預言者ハバククです。

彼は神にユダの国に起こっていた暴虐を訴えていました。

すると、神がカルデア人を用いてユダの国を罰することが告げられます。

それを聞いたハバククは戸惑います。

神はハバククにこう告げます。

「見よ、高慢な者を。その心は正しくない。しかし、正しき人はその信仰によって生きる。」(ハバクク2:4聖書協会共同訳)

神がどうして試練を与えられるか、私たちの限られた頭脳では理解することはできません。

ただ、神が私たちに求められていることは信仰です。

神を信頼することです。私たちは信仰によって生きることが求められています。

2列王記 23:21-30

「こうして、彼は祭司ヒルキヤが主の宮で見つけた書物に記されている律法のことばを実行した。」(23:24)

ヨシヤ王が宗教改革を始めた4年後、預言者エレミヤは、神様からの召命を受けて悔い改めのメッセージを語り始めます。

エレミヤとヨシヤ王は、ほぼ、同い年でした。

祭司ヒルキヤが「律法の書」を見つけたと書いてありますが、エレミヤの父の名も、ヒルキヤでした。

同一人物だった可能性はあります。

ヨシヤ王とエレミヤの宗教改革は、長くは続きませんでした。

13年間でした。

結局、南ユダ王国も滅ぼされ、バビロンに捕囚されていきます。

しかし、ユージーン・ピーターソンは、ヨシヤ王とエレミヤの宗教改革が「神の民」を形成し、この後の滅亡、捕囚と言う過酷な状況にあったユダヤ人たちが生き残り、繁栄していく要因となったと言います。

聖書の御言葉を土台とした宗教改革が、神の民を礼拝の民、愛の民とし、この後500年という年月を耐え抜く力を与えたと指摘します

2列王記 23:10-20

「ヨシヤが振り向くと、山の中に墓があるのが見えた。そこで彼は人を遣わしてその墓から骨を取り出し、それを祭壇の上で焼き、祭壇を汚れたものとした。かつて、神の人がこのことを預言して叫んだ主のことばのとおりであった。」(23:16)

ヨシヤ王の時代は紀元前600年代。

この箇所に出てくる神の人の預言はヤロブアム王の時代で紀元前900年代。

要するに300年前の話です。

ヤロブアム王は金の子牛を神々として作り、人々に拝ませました。

彼は自分勝手に祭壇を作り、一般の民の中から祭司を任命しました。

神の人はその祭壇に向かって言いました。

「祭壇よ、祭壇よ、主はこう言われる。『見よ、一人の男の子がダビデの家に生まれる。その名はヨシヤ。彼は、おまえの上で香をたく高き所の祭司たちを、いけにえとしておまえの上に献げ、人の骨がおまえの上で焼かれる。』」(1列王記13:2)

神の御言葉は成し遂げられます。

2列王記 23:1-9

「王は、ユダのすべての人々、エルサレムのすべての住民、祭司と預言者、および下の者から上の者まで、すべての民とともに主の宮に上り、主の宮で見つかった契約の書のことばをすべて彼らに読み聞かせた。」(23:2)

ヨシヤ王による国家的宗教改革は、ほこりを払い、神の御言葉を読み始めた時に、起こりました。

ユージーン・ピーターソンは言います。

「改革は、政治家であれ、預言者であれ、人々に激しい非難や道徳的な命令を投げかけることから始まったのではない。それは、啓示から始まったのである。」

聖書を読み始める時、何かが始まります。

「ですから、信仰は聞くことから始まります。聞くことは、キリストについてのことばを通して実現するのです。」(ローマ10:17)

ヨシヤ王がまず行ったことが、聖書をすべて「彼らに読み聞かせた」ことだったことは注目に値します。

2列王記 22:12-20

「行って、この見つかった書物のことばについて、私のため、民のため、ユダ全体のために、主を求めよ。私たちの先祖たちがこの書物のことばに聞き従わず、すべて私たちについて記されているとおりに行わなかったために、私たちに向かって燃え上がった主の憤りが激しいからだ。」(22:13)

ヨシヤ王は道徳的にも政治的にも混乱していた時期に即位しました。

彼の祖父であるマナセ王は、南ユダ王国、最悪の王でした。

「罪にまみれたマナセ王のその他の業績」(21:17LB)とあるように、主の目に悪であることを行い続けた王でした。

マナセ王の時代はアッシリヤ帝国の全盛期で、彼はアッシリヤ帝国に憧れ、アッシリヤのものを輸入し、南ユダ王国をアッシリヤの偶像で満たしました。

しかし、ヨシヤ王は主を求めました。

「彼の治世の第八年、まだ若いころに、彼は父祖ダビデの神を求めることを始め」(2歴代誌34:3)。

主を求めることから始まります。

2列王記 22:1-11

「王は律法の書のことばを聞いたとき、自分の衣を引き裂いた。」(22:11)

主の宮で律法の書を見つけました」(8節)と報告されたということは、聖書を読むことも、教えられることもなかったということです。

ヨシヤ王の時代まで、南王国が混乱していた理由の一つは、このように神の御言葉が隠されていたからです。

神の御言葉が隠されてしまう時、悪に対する認識は薄れ、混乱が起こります。

私たちは、サタンの策略の一つが、人を神の御言葉から引き離すことであることを知っています。

聖書を読まなくなるならば、信仰も生活も死んでいきます。

毎日、聖書を読み始めるだけでも、信仰も生活もいのちがよみがえります。

ユージーン・ピーターソンは言います。

「もし、あなたの人生のどこか―霊的生活、友情、結婚、情熱―が死んでいるなら、神の御言葉を個人的に発見することが助けになります。」

今日は主の日。共に主なる神に礼拝を捧げましょう!

2列王記 21:10-26

「マナセは、ユダに罪を犯させて、主の目に悪であることを行わせた罪だけでなく、咎のない者の血まで多量に流したが、それはエルサレムの隅々に満ちるほどであった。」(21:16)

預言者イザヤは、ヒゼキヤ王の息子、マナセ王によって殺害されたと言われます。

ヘブル書11:37の「のこぎりで引かれ」たのは、預言者イザヤのことだと考えられています。

実際、歴代誌にはこのように記録されています。

「主はマナセとその民に語られたが、彼らは耳を傾けなかった。」(2歴33:10)

預言者の声に耳を傾けなかったマナセ王は痛い思いをして学ぶこととなります。

アッシリア軍がマナセ王をバビロンへ引いていくのです。

「しかし、彼は苦しみの中で彼の神、主に嘆願し、父祖の神の前に大いにへりくだり、神に祈ったので、神は彼の願いを聞き入れ、その切なる求めを聞いて、彼をエルサレムの彼の王国に戻された。こうしてマナセは、主こそ神であることを知った。」(2歴33:12,13)

2列王記 21:1-9

「こうして彼は、主がかつて「エルサレムにわたしの名を置く」と言われた主の宮に、いくつもの祭壇を築いた。」(21:4)

マナセ王の時代のユダ王国は、周辺諸国との交易が盛んで経済的に発展した時代でした。

しかし、経済的な豊かさが霊的堕落を生み出しました。

本来、主なる神のみを礼拝するために建てられた神殿に、様々な神々の祭壇が置かれたのです。

残念ながら、歴史は繰り返します。

主なる神のみを礼拝する場所であるべきキリスト教会で、キリスト以外の救いが宣べ伝えられているならば、聖書以外の教えが語られているならば、同じ轍を踏んでいると言えます。

キリスト教会はたとえ排他的と言われても、キリスト以外に救いはないことを宣言していく必要があります。(使徒4:12)

「イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。」(ヨハネ14:6)

2列王記 20:12-21

「ヒゼキヤはイザヤに言った。「あなたが告げてくれた主のことばはありがたい。」彼は、自分が生きている間は平和と安定があるのではないか、と思ったのである。」(20:19)

南ユダ王国はバビロン帝国によって滅ぼされます。

この時、バビロンの使者たちに、ヒゼキヤ王がすべてのものを見せたのは、彼が傲慢になっていたからだということが歴代誌に解説されています。

「ヒゼキヤ王が奇跡的に治ったことを知ろうとバビロンから使節が遣わされて来た時、神は彼のするままにしておきました。彼がどのように振る舞うかを試すためでした。」(2歴32:31LB)

歴代誌にはさらにこのように記録されています。

「そこで、王とエルサレムの住民は高慢の罪を悔い改め謙遜になったので、主の憤りは去り、ヒゼキヤの在世中、二度と主の怒りは臨みませんでした。」(26節)

ヒゼキヤ王の発言は、謙遜に神の御言葉を受け入れたということです。

神はへりくだる者に恵みを与えられます。

2列王記 20:1-11

「「ああ、主よ、どうか思い出してください。私が真実と全き心をもって、あなたの御前に歩み、あなたの御目にかなうことを行ってきたことを。」ヒゼキヤは大声で泣いた。」(20:3)

ヒゼキヤ王は「死の備えをせよ」と言われた時に、大声で泣いて祈ったと言います。

これは死への恐怖というよりも、アッシリア軍がユダに侵攻していた頃だったからだと指摘する学者がいます。

後継者のマナセがまだ若かったので、ヒゼキヤ王はもう少し自分が生きて、統治する必要があると考えたというのです。

いずれにせよ、神は彼の涙の祈りを聞かれました。

イエス様もこの地上で涙の祈りをされたと聖書は教えます。

「キリストは、肉体をもって生きている間、自分を死から救い出すことができる方に向かって、大きな叫び声と涙をもって祈りと願いをささげ、その敬虔のゆえに聞き入れられました。」(ヘブル5:7)

感情的な内容ですが、神は私たちの心も気にかけておられます。