2列王記 19:29-37

「わたしはこの都を守って、これを救う。わたしのために、わたしのしもべダビデのために。」(19:34)

ヒゼキヤ王の祈りの答えは奇跡であるだけではなく歴史です。

「こんな奇跡が起こることなどありえない」と多くの人々は考えていました。

しかし1830年、英国人のテイラー大佐がプリズムを入手し、その記述を解読することによって、それが歴史的事実であったことが判明しました。

「センナケリブの角柱」とも呼ばれるテイラープリズムにはこう記録されていました。

「ユダヤ人ヒゼキヤに関して言えば(中略)彼自身は、私が王都エルサレムにかごの中の鳥のように閉じ込めた。私は彼を見張り所で取り囲み、誰も彼の町に出入りができないようにした。」

この記録は考古学者に注目されています。

セナケリブ王はエルサレムを包囲し、誰も出入りが出来ないようにしたにも関わらず、それ以上のことは記録されていません。

これは彼がエルサレム攻略に失敗したことを意味します。

2列王記 19:14-28

「ヒゼキヤは、使者の手からその手紙を受け取って読み、主の宮に上って行き、それを主の前に広げた。」(19:14)

アッシリヤ帝国のセナケリブ王からの脅しの手紙を受け取ったヒゼキヤ王は、主の宮に、その手紙をもって上って行きました。

彼は問題を認識しつつ、その問題を神のもとに持って行ったのです。

これは聖書が私たちに勧めていることです。

Ⅰペテロ5:7に、こう書いてあります。

「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。」

神は私たち一人一人を愛しておられ、私たち一人一人のことを心にかけておられるお方です。

ですから、ヒゼキヤ王がその問題の手紙をもって主の宮に入っていったように、私たちが問題をもって主の御前に出て祈る、神に委ねる、神にお任せすることを、神は願われています。

思いがけない問題が降りかかって来る時こそ、問題を祈りに変える時です。

祈りを聞かれる主は生きておられます。

2列王記 19:1-13

「あなたは、まだいる残りの者のために祈りの声をあげてください。」(19:4)

紀元前701年、破竹の勢いで進撃するアッシリヤ軍に包囲されたヒゼキヤ王。

その時、彼が求めたことは祈ることでした。

彼らは預言者イザヤに言いました。

「子どもが生まれようとしているのに、それを産み出す力がないからです。」

カンタベリー大主教だったウィリアム・テンプルは言いました。

「私が祈るとき、偶然が起こる。祈らないと、起こらない」

祈らなければ開かれない世界があります。

聖書学者ゴードン・フィーはこのように言います。

「神は祈りに答えなければならないわけではないが、答えられる。」

神は私たちの祈りを用いて、神の栄光を表わし、神が今生きて働かれていることを、この世に知らしめます。

四方八方塞がれたとしても、天は開かれています。

日本の教会のため、牧師たちのため、信徒たちのため、祈りの声をあげましょう。

今日は主の日。共に主なる神に礼拝を捧げましょう!

2列王記 18:26-37

「民は黙って、彼に一言も答えなかった。「彼に答えるな」というのが、王の命令だったからである。」(18:36)

「身を慎み、目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、吼えたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。堅く信仰に立って、この悪魔に対抗しなさい。ご存じのように、世界中で、あなたがたの兄弟たちが同じ苦難を通ってきているのです。」(1ペテロ5:8,9)

悪魔の手口はラブ・シャケの言葉と似ています。

悪魔は、神の民の信仰をあざ笑い、信仰を揺るがそうとします。

神の力を否定する言葉の背後には悪魔がいます。

悪魔に対抗するには、エバのように悪魔の誘いに乗らないことです。

堅く信仰に立って対抗する方法は祈りです。

聖書は言います。

「あらゆる祈りと願いによって、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのために、目を覚ましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くして祈りなさい。」(エペソ6:18)

2列王記 18:13-25

「アッシリアの王は、タルタン、ラブ・サリス、およびラブ・シャケを、大軍とともにラキシュからエルサレムのヒゼキヤ王のところへ送った。」(18:17)

大英博物館にはアッシリア軍がラキシュを攻略した壁画が展示されています。

ラキシュはエルサレムの前の最後の砦であったことが、そこから大軍を送ったというこの一文から分かります。

アッシリアの王は言いました。

「いったい、おまえは何に拠り頼んでいるのか。」(19節)

この後、ヒゼキヤ王は、主なる神により頼み、祈りに導かれます。

そして、神は祈りに応えられ、アッシリア軍はエルサレムを攻略することに失敗します。

大英博物館にエルサレムでなく、ラキシュの壁画が展示されている理由は、神が祈りに答えられた歴史的証拠です。

神は私たちの祈りを用いられ、御業を行われます。

主なる神に拠り頼んでいるならば、私たちは祈りに導かれるはずです。

そして、祈りを聞かれる主なる神を私たちは体験します。

2列王記 18:1-12

「彼はイスラエルの神、主に信頼していた。彼の後にも前にも、ユダの王たちの中で、彼ほどの者はだれもいなかった。」(18:5)

ヒゼキヤ王の特徴として聖書が評価しているのは、彼が

「主に信頼していた」

ことです。

聖書は言います。

「信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神がご自分を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」(ヘブル11:6)

神は私たちに信仰を求められます。

アブラハムは、

「望み得ない時に望みを抱いて信じ」(ローマ4:18)

ました。

使徒パウロもこう言っています。

「私たちは見えるものによらず、信仰によって歩んでいます。」(2コリント5:7)

神は私たちに信仰によって生きることを求められています。

2列王記 17:34-41

「大きな力と、伸ばされた腕をもって、あなたがたをエジプトの地から連れ上った主だけを恐れ、主を礼拝し、主にいけにえを献げなければならない。」(17:36)

イスラエルの民が今も大切に毎日唱えている祈りに「シェマ」と呼ばれる祈りがあります。

「聞け、イスラエルよ。主は私たちの神。主は唯一である。あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」(申命6:4,5)

この祈りは、福音書でイエス様も引用しています。

ですから、キリスト者は唯一の神を信じています。

父、子、聖霊の三位一体なる唯一の神を信じています。

そして、この三位一体なる神だけを恐れ、礼拝するということを大切にしています。

これは、信仰の本質的な部分です。

しかし残念ながら、現在、宗教多元主義の思想によって翻弄されている部分でもあります。

北イスラエル王国に何があったかを学ぶならば、私たちは恐れをもって気をつけるべきです。

2列王記 17:24-33

「彼らは主を礼拝したが、自分たちの中から高き所の祭司たちを自分たちで任命し、この祭司たちが彼らのために高き所の宮で祭儀を行った。」(17:32)

アッシリア帝国の政策は、占領した地域にいろいろな民族を移住させることによって、民族意識を低下させ、反乱の気運を下げるというものでした。

新約聖書でサマリアの人々が見下された理由は、このようにして生粋のユダヤ民族ではなくなったということでした。

もっとも、この箇所で問題になっているのは、民族主義ではなく、宗教多元主義です。

すべての神々を同じと見なすことに対する問題です。

すべての宗教が目指すものは同じという発想は、物事を単純化しすぎています。

だからといって、暴力に訴えることは間違いです。

それよりも、違いを認めて、どのように共存していくかを考える方が大切です。

自分たちで決めていくのではなく、神のみこころを求めることが大切です。

2列王記 17:13-23

「主はすべての預言者とすべての先見者を通して、イスラエルとユダに次のように警告された。「あなたがたは悪の道から立ち返れ。わたしがあなたがたの先祖たちに命じ、また、わたしのしもべである預言者たちを通してあなたがたに伝えた律法全体にしたがって、わたしの命令と掟を守れ。」」(17:13)

預言者たちはただ単に指導者たちを批判していたわけではありません。

自分たちの正義感から他者を裁いていたという話でもありません。

彼らは神との契約違反を指摘したのです。

それで、神の御言葉に立ち返るように訴えたのです。

使徒パウロは、私たちが他人を裁くことに警告を与えています。

「ですから、すべて他人をさばく者よ、あなたに弁解の余地はありません。あなたは他人をさばくことで、自分自身にさばきを下しています。さばくあなたが同じことを行っているからです。」(ローマ2:1)

私たちは皆、謙遜になって、神に立ち返る必要があります。

2列王記 17:1-12

「主がイスラエルの子らの前から追い払われた異邦の民の風習、イスラエルの王たちが取り入れた風習にしたがって歩んだからである。」(17:8)

十七章は北イスラエル王国が滅びた神学的解説が収められています。

ここで滅びた原因としてとりあげられているのは、「異邦の民の風習」を取り入れたことでした。

これは、レビ記18:3で警告されていたことでした。

「あなたがたは、自分たちが住んでいたエジプトの地の風習をまねてはならない。また、わたしがあなたがたを導き入れようとしているカナンの地の風習をまねてはならない。彼らの掟に従って歩んではならない。」

聖書は言います。

「この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。」(ロマ12:2)

今日は主の日。共に主なる神に礼拝を捧げましょう!

本日の栄シャロームの主日礼拝は、大和カルバリーチャペルの副牧師、坪井永城先生のメッセージです。