民数記 3:14-39

「レビ族の名は次のとおりである。ゲルション、ケハテ、メラリ。」(3:17)

レビ族は大きく三つの氏族に分けられました。

ゲルション人諸氏族は幕屋の布などを管理しました。

ケハテ人諸氏族は契約の箱や燭台など、幕屋の中で使う祭具などを管理しました。

メラリ人諸氏族は幕屋の骨組みなどを管理しました。

要するに、チームで働いていたということです。

神の働きは決して一人でできるものではありません。

教会も同じです。

適切な役割分担をして、チームで建て上げていくものです。

38節をLBではこのように訳しています。

「モーセとアロンとその子らは、いつも幕屋の東側に天幕を張りました。彼らはイスラエルの人々に代わって、幕屋で仕事をするのです。」

他のレビ人とは違い、モーセとアロンと祭司たちには、聖所の任務がありました。

つまり、神はそれぞれに役割を与えられているということです。

民数記 3:1-13

「ナダブとアビフは、シナイの荒野で主の前に異なる火を献げたときに、主の前で死んだ。彼らには子がいなかった。それでエルアザルとイタマルが父アロンの生存中から祭司として仕えた。」(3:4)

祭司職はアロンの家系に限られました。

選ばれることは責任を伴います。

アロンの息子、ナダブとアビフは「主の前に異なる火を献げたときに、主の前で死んだ」と言います。

これはレビ記10章に出てくる内容です。

「異なる火」が何であったかは明確ではありませんが、この文脈でモーセはこのように言います。

「会見の天幕に入るときには、あなたも、あなたとともにいる息子たちも、ぶどう酒や強い酒を飲んではならない。あなたがたが死ぬことのないようにするためである。これはあなたがたが代々守るべき永遠の掟である。」(10:9)

聖なる神の働きを軽んじないように気をつける必要があります。

民数記 2:1-34

「ユダの宿営に属し、その軍団ごとに登録された者の総数は、十八万六千四百人。彼らが先頭を進まなければならない。」(2:9)

先頭を進むことは危険と隣合わせでもあり、誰もが避けたいものだと思います。

先頭を進むユダ族の最初の登録は74,600人でした。

しかし、最終的に76,500人となります。

ユダの宿営の旗のもとには、ユダ族以外にイッサカル族とゼブルン族もいました。

イッサカル族も54,400人から64,300人になります。

ゼブルン族も57,400人から60,500人になります。

リスクを冒してでも、神の命令に従って先頭を進むならば、神は必ず守り、支えてくださるということだと思います。

民数記 1:47-54

「幕屋が進むときはレビ人がそれを取り外し、幕屋が張られるときはレビ人がこれを組み立てなければならない。資格なしにこれに近づく者は殺されなければならない。」(1:51)

人口調査からレビ族は除外されました。

それは、幕屋で奉仕する働きに専心するためでした。

この原則は新約聖書の教会にも受け継がれます。

使徒たちは言いました。

「私たちは祈りと、みことばの奉仕に専念します。」(使徒6:4)

もちろん、キリスト者は皆、

「選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神のものとされた民」(1ペテロ2:9)

です。

神と人との間の仲介者は、

「人としてのキリスト・イエス」(1テモテ2:5)

だけです。

しかし、今も、教会の働きに専心する人が必要とされています。(1テモテ3章参照)

民数記 1:20-46

「登録された者の総数は、六十万三千五百五十人であった。」(1:46)

モーセとアロンは、

「イスラエルの全会衆を、氏族ごと、一族ごとに調べ、すべての男子を一人ひとり名を数えて、その頭数を調べよ。あなたとアロンは、イスラエルにおいて、二十歳以上で戦に出ることができる者をすべて、その軍団ごとに登録しなければならない。」(2,3節)

という神の命令に従い人口調査をしました。

ルベン族は46,500人、シメオン族は59,300人、ガド族は45,650人、ユダ族は74,600人、イッサカル族は54,400人、ゼブルン族は57,400人、エフライム族は40,500人、マナセ族は32,200人、ベニヤミン族は35,400人、ダン族は62,700人、アシェル族は41,500人、ナフタリ族は53,400人、

総数は603,550人。

26章で、約束の地に入る直前に再び行われた人口調査によって登録された総数は601,730人でした。

神は信実を尽くされるお方です。

民数記 1:1-19

「エジプトの地を出て二年目の第二の月の一日に、主は、シナイの荒野の会見の天幕でモーセに告げられた。」(1:1)

民数記はヘブライ語聖書では「荒野で」(ベミドバル)という書名となっています。

モーセは荒野で神の御言葉を聴きました。

私たちは荒野のような体験を通ることがあります。

しかし、その時こそ神の御声を聞くチャンスです。

モーセが神の御言葉を聴いたのは「会見の天幕」でした。

神の御言葉を聴く最高の場所は「会見の天幕」のような存在である「教会」です。

渇いた心のまま、教会に行き、牧師が語る聖書のメッセージに耳を傾ける中で、自分が必要としていたメッセージを聴いたという経験がある人は多いと思います。

神は今も語られています。

私たちが耳を傾けるなら、聖霊様は今も聖書の御言葉を通して語られます。

今日は主の日、共に主なる神に礼拝を捧げましょう!

ヨハネ 21:15-25

「イエスはペテロに言われた。「わたしが来るときまで彼が生きるように、わたしが望んだとしても、あなたに何の関わりがありますか。あなたは、わたしに従いなさい。」」(21:22)

「人生を導く5つの目的」の中で、リック・ウォーレン師がこんなことを述べています。

「神はあなたに、『なぜあなたはお兄さんやお父さんやお母さんのようにならなかったのですか。あなたは有名になりましたか。どれだけ多くの人に認めてもらいましたか。みんなの期待に応えることができましたか』とはお尋ねになりません。そうではなく、『あなたは自分の目的を全うしましたか』とお尋ねになるのです。」

イエス様は私たち一人ひとりにペテロと同じ言葉を語られています。

「あなたは、わたしに従いなさい。」

他の人と比較しても意味はありません。

神は私たち一人ひとりにそれぞれ目的を与えられているからです。

ヨハネ 21:1-14

「それで、イエスが愛されたあの弟子が、ペテロに「主だ」と言った。シモン・ペテロは「主だ」と聞くと、裸に近かったので上着をまとい、湖に飛び込んだ。」(21:7)

トンプソンという学者が、こんなことを言っています。

「人々がイエスを認識し、イエスを信じて従うことを可能にするのは、他の人々の証しである。」

イエス様との出会いの証を誰かが話しているのを聞いて、イエス様を認識するというのがほとんどだと思います。

誰かが、ヨハネのように「主だ」と証することによって、認識することができるということです。

ですから、私たちはイエス様のことを証し続ける必要があります。

ペテロは、ヨハネの証を聞いて、行動を起こしました。

イエス様のそばに行きたいと飛び込んだのです。

私たちができることは、ヨハネのように「主だ」と証するところまでです。

あとは、その人が、イエス様を認識し、イエス様の方へ飛び込むかどうかということです。

ヨハネ 20:24-31

「トマスはイエスに答えた。「私の主、私の神よ。」」(20:28)

トマスの信仰告白の言葉は、明確に、イエス・キリストを「神」として描写しています。

イエス様は三位一体なる神の第二位格です。

トマスは、確信を持って宣言しました

「あなたは私の主であり、私の神です。」

ヨハネの福音書を読んだ初代教会のクリスチャンたちにとって、この響きは、現代の私たちと違った響きだったと思います。

なぜなら、ローマ皇帝(ドミティアヌス)が、自分自身を「主であり、神」と呼ぶことを求めていたからです。(スエトニウス、Dom.13)

皇帝崇拝を強要される中で、皇帝ではなく、イエス・キリストこそが、

「あなたは私の主であり、私の神です。」

と告白するトマスの姿に、初代教会のクリスチャンたちは励まされたのだと思います。

ヨハネ 20:11-23

「こう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。」(20:22)

「息を吹きかけて」と言う単語は、新約聖書ではここでしか使われていません。

しかし、七十人訳では6回使われています。

その一つは、創世記2:7です。

「神である主は、その大地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。それで人は生きるものとなった。」

まさに、この場面が、イエス・キリストがなされたことでした。

イエス・キリストは、新しい世界をもう一度創造されただけでなく、もう一度人にいのちの息を吹き込まれ、新しい命に生きる者とされたということです。

ロイドジョンズ博士は、イエス様が「聖霊を受けなさい」と語られた時に、弟子たちは実際に聖霊を受けたんだと主張します。

「全能者の息の吹きかけが人間にいのちを与え、古い世界を始められたように、大能の救い主の息の吹きかけが、その宣教にいのちを与え、新しい世界を始められた。」(M.H.)