黙示録 13:11-18

「また私は、別の獣が地から上って来るのを見た。それは、子羊の角に似た二本の角を持ち、竜が語るように語っていた。」(13:11)

「別の獣」とは「偽預言者」(19:20)のことです。

彼は、「子羊の角に似た二本の角を持ち、竜が語るように語っていた」と言います。

子羊はキリストの象徴であり、角は権威の象徴です。

つまり、キリストに属しているふりをするのですが、実際はサタンの代弁者だと言うのです。

「竜のようにものを言った」とありますが、「竜」は12:9にありますようにサタンです。

「サタンのようにものを言う」とはどういうことでしょうか。

それは第一に、批判ばかり言うことです。(12:10)

第二番目は、キリストではなく、自分に頼らせようとする言い方です。

第三番目は、人を陥れるためには平気でウソをつく言い方です。(ヨハネ8:44)

私たちは欺かれないために注意する必要があります。

黙示録 13:1-10

「耳のある者は聞きなさい。」(13:9)

神からの使命を受け取るためには、どうしても、神のみことばである聖書と格闘する必要があります。

黙示録を学びながら、気づくべきことがあります。

それは、第一番目に、サタンは、私たちを疲れさせ、力を失わせようとしているということです。.

第二番目に、この世には、沢山の偽キリストたちが、私たちが答えを聖書ではなく、誰かに聞くように仕向けているということです。

私たちは忙しい時代に生きていますが、静まって聖書と向き合う時間をもっているでしょうか。

神のみことばに希望があります。

イエス様は今生きておられますから、聖書のみことばを通して、必ず私たちに語りかけてくださいます。

聖書は言います。

「耳のある者は聞きなさい。」

なぜなら、

「信仰は聞くことから始まります。聞くことは、キリストについてのことばを通して実現するのです。」(ローマ10:17)

黙示録 12:7-18

「私は、大きな声が天でこう言うのを聞いた。「今や、私たちの神の救いと力と王国と、神のキリストの権威が現れた。私たちの兄弟たちの告発者、昼も夜も私たちの神の御前で訴える者が、投げ落とされたからである。」(12:10)

サタン、その名前の意味こそ、「告発者」、私たちを責めるものです。

サタンは、私たちの弱さを知っていて、私たちの過去の過ちなどを利用して、私たちを責めるのです。

私たちがいつまでも、過去の失敗に引きずられるように、私たちの思いを支配しようとします。

私たちは、サタンに惑わされないように、私たちの思考を転換する必要があります。

「この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。」(ローマ12:2)

私たちは、神の国の考え方、聖書の考え方に、転換する必要があります。

黙示録 12:1-6

「女は男の子を産んだ。この子は、鉄の杖をもってすべての国々の民を牧することになっていた。その子は神のみもとに、その御座に引き上げられた。」(12:5)

女はイスラエル、男の子はイエス・キリストのことです。

今、私たちはアドベントを過ごしていますが、イエス・キリストはこの世界に生まれました。

2節に

「女は身ごもっていて、子を産む痛みと苦しみのために、叫び声をあげていた。」

とあります。

キリストが誕生するまで、イスラエルの国は多くの苦難を通りました。

しかし、「その日」はやってきました。

同じように、私たちも叫び声をあげるような日を過ごさなければならないかもしれませんが、「その日」は来ます。

苦難の金曜日の先には復活の日曜日があります。

悲しみが喜びに、嘆きが歌に変わる日曜日はやってきます。

今日は主の日。アドベント2週目。共に主なる神に感謝と礼拝を捧げましょう!

黙示録 11:15-19

「それから、天にある神の神殿が開かれ、神の契約の箱が神殿の中に見えた。すると稲妻がひらめき、雷鳴がとどろき、地震が起こり、大粒の雹が降った。」(11:19)

天にある神の神殿が開かれて、契約の箱が見えた

というのは、旧約聖書では考えられない内容です。

旧約聖書では、年に一回だけ、大祭司だけがいけにえを携えてのみ見ることができた光景でした。

契約の箱が意味しているのは、もちろん、神と人との契約、約束です。

つまり、この箇所は

神の約束は永遠に変わらない

ということを意味しています。

神の神殿が開かれたということはまた、神との交わりを意味しています。

天は今、開かれています。

キリストが十字架にかかられ、「完了した」と叫ばれたとき、神殿の幕は、すでに上から下に真二つに裂けました。

「ですから私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、折にかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」(ヘブル4:16)

黙示録 11:1-14

「第二のわざわいが過ぎ去った。見よ、第三のわざわいがすぐに来る。」(11:14)

キリストを信じている者にとっては、終わりの日は、わざわいではありません。

この章の内容は、キリストを信じる者たちがみな天に引き上げられて後に起こることです。

では、どうして自分たちはその時代に生きないのに、このような聖書の箇所を学ぶ必要があるのでしょうか。

第一に、一人でも多くの人がこの時に、この地上にいなくていいようにと、私たちを動機づけてキリストの福音を伝えるためです。

第二に、私たちはこの歴史を支配している神を体験する必要があるからです。

大患難時代に生きていなくても、私たちはこの世に生きている限り、患難があります。

しかし、大患難時代にさえ、このように関わられる神の姿を見る時に、私たちは、希望に満たされます。

どんなに混乱しているように見えても、神は生きておられ、私たちが願うならば、必ず私たちに関わってくださる神なのです。

黙示録 10:1-11

「私はその御使いのところに行き、「私にその小さな巻物を下さい」と言った。すると彼は言った。「それを取って食べてしまいなさい。それはあなたの腹には苦いが、あなたの口には蜜のように甘い。」」(10:9)

この箇所の「御使い」はイエス様のことです。

私たちはイエス様のところに行かなければなりません。

イエス様のところに行ったヨハネは「その小さな巻き物を下さい」と求めました。

私たちは祈り求める姿勢が大切です。

「取って食べる」と言うのは文字通り聖書を「取って食べる」と言うことではありません。

比喩です。

聖書を開いて読み、それを自分の中に取り込むと言うことです。

巻物を食べる理由は、神のことばを消化して、神の言葉を語り、神の言葉に生きるためです。

聖書は単なる教養のためにあるわけではありません。

聖書をどんなに研究しても、神の言葉がしっかりと私たちの心と体の栄養となっていなければ、食べたとは言えません。

黙示録 9:1-21

「そして彼らは、地の草やどんな青草、どんな木にも害を加えてはならないが、額に神の印を持たない人たちには加えてよい、と言い渡された。」(9:4)

クリスチャンがこの世から挙げられた後にクリスチャンになった人に、害を加えられないように言い渡されたと言います。

私たちが気づいていないだけで、キリストを信じる者には特別な守りがあります。

しかし、神の私たちの理解を超えたご計画の中で、「なぜ?」と思われる出来事を許されることがあります。

この地上における私たちが考える守りは、神の目的にまさるものではありません。

「人生を導く5つの目的の中」で、リック・ウォーレン先生がこう言っています。

「神の目から見た信仰の偉大なる英雄とは、この人生において繁栄を誇り、成功を収め、権力の座に就いた人のことではなく、この人生を一時的なものと受け止め、永遠において神が約束された報いを受け取ることを期待して、神に忠実に仕えた人のことなのです。」

黙示録 8:1-13

「子羊が第七の封印を解いたとき、天に半時間ほどの静けさがあった。」(8:1)

子羊はイエス・キリストを表し、キリストはこの世の終わりに封印を解いていきます。

ここで私たちは、七つの封印の最後の七番目の封印が解かれるのを見ます。

その時、何が起こったかといいますと「静けさ」だったとあります。

いわゆる「嵐の前の静けさ」です。

こういう受け取り方もできると思います。

神が介入するから、静まりなさい。

私たちが生ける神の現実を、人生の中で体験するために必要なことは、「静けさ」かもしれません。

神が私たちの人生に介入するために、まず、私たちの側に「静けさ」が必要なのではないでしょうか。

じたばたするのをやめ、神の前に両手を挙げる。

「私には、もう、どうしようもありません。神様、お願いします。」

この静けさの中で神が介入されます。

黙示録 7:9-17

「その後、私は見た。すると見よ。すべての国民、部族、民族、言語から、だれも数えきれないほどの大勢の群衆が御座の前と子羊の前に立ち、白い衣を身にまとい、手になつめ椰子の枝を持っていた。」(7:9)

ヨハネは天国を見ました。

天国は、「数えきれないほどの大勢の群衆」が神を礼拝していました。

大切なポイントの一つは、「すべての国民、部族、民族、言語から」ということです。

神の救いは全ての人が対象です。

「救いは、御座に着いておられる私たちの神と、子羊にある。」とあるように、人はただ、イエス・キリストの十字架の御業によって救われます。

なつめ椰子の枝は、イエス様のエルサレム入城を思い出させます。

「なつめ椰子の枝を持って迎えに出て行き、こう叫んだ。「ホサナ。祝福あれ、主の御名によって来られる方に。イスラエルの王に。」」(ヨハネ12:13)

天国は神に賛美と礼拝を捧げる場所です。