ヨハネ 17:1-8

「永遠のいのちとは、唯一のまことの神であるあなたと、あなたが遣わされたイエス・キリストを知ることです。」(17:3)

17章は「大祭司の祈り」と呼ばれます。

イエス様は、イエス様を信じるすべての人に「永遠のいのち」を与えると約束されました。

3節にこれが本当の「永遠のいのち」とイエス様が言われ、こう続けます。

それは、「唯一のまことの神」と神が遣わされた「イエス・キリスト」を「知ること」であると。

「知ること」と訳された単語は現在形で、継続的な認識、発展的な認識を示します。

また、単なる知的作業という意味ではなく、体験的に知るという意味が含まれています。

ですから、本当の「永遠のいのち」は、父なる神と子なる神キリストを体験的に知り続けるという関係的な知識というニュアンスがあります。

「永遠」と訳された単語は、「時代」という単語から来ています。

ですから、「永遠のいのち」は、「来るべき次の時代に属する命」と理解することができます。

ヨハネ 16:25-33

「これらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を得るためです。世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました。」(16:33)

「わたしにあって」と「世にあって」という2つの領域があります。

「世にあっては苦難があります」とイエス様が言われたように、「世の中」という領域において、私たちは常に苦難があります。

しかし聖書は、この世に勝利された「イエス・キリストの中」という領域に生きることを勧めます。

「イエス・キリストの中」という領域、それは常に神の臨在の中に生きていることを意識するということです。

私たちはこの「世の中」に生きていますが、神の臨在の中に生きています。

そして、神の臨在の中で私たちは平安を持つことができます。

また、神の臨在の中に生きることは、イエス様と共に、世に勝利することです。

なぜなら、イエス様はすでに世に勝利されたからです。

ヨハネ 16:16-24

「今まで、あなたがたは、わたしの名によって何も求めたことがありません。求めなさい。そうすれば受けます。あなたがたの喜びが満ちあふれるようになるためです。」(16:24)

メッセージ訳では、こんな訳をしています。

「わたしの名によって、わたしの御心に従って求めなさい。そうすれば、父なる神は必ずあなたに与えてくださいます。あなたの喜びは、ほとりに溢れる川となります!」

多くの人は、自分のために祈り求めることはあると思います。

しかし、どうでしょうか。

イエス様のみこころにしたがって求めたことはあるでしょうか。

イエス様のみこころにしたがって求めるためには、イエス様のみこころが何であるか、知る必要があります。

イエス様のみこころを知るためには、聖書を読む必要があります。

なぜなら聖書に、イエス様のみこころが記されているからです。

イエス様の名によって、イエス様のみこころに従って祈るならば、父なる神は必ず答えてくださいます。

ヨハネ 16:1-15

「しかし、わたしは真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたの益になるのです。去って行かなければ、あなたがたのところに助け主はおいでになりません。でも、行けば、わたしはあなたがたのところに助け主を遣わします。」(16:7)

イエス様の眼にみえる存在が、助け主、聖霊の臨在によって埋め合わされるとイエス様は言われました。

「助け主」と訳された単語を、メッセージ訳では「友」、パッション訳では「神の励まし手」と訳しています。

聖霊様は、私たちを友のように助け、励まし、支えてくださるお方です。

イエス様が「去って行かなければ、あなたがたのところに助け主はおいでになりません。」と言われた意味は、私たちの罪のために十字架で死ななければということだと思われます。

ですから、聖霊様の働きを信じる教会は、イエス・キリストの十字架の死と復活を強調します。

ヨハネ 15:18-27

「わたしが父のもとから遣わす助け主、すなわち、父から出る真理の御霊が来るとき、その方がわたしについて証ししてくださいます。あなたがたも証しします。初めからわたしと一緒にいたからです。」(15:26,27)

27節をLBではこう訳しています。

「あなたがたもまた、わたしのことをすべての人に語らなければなりません。」

イエス様は、イエス様のことをすべての人に語るように命じられました。

私たちが語るように命じられていることは、イエス様についてです。

助け主、真理の御霊が臨まれるとき、

「あなたがたもまた、わたしのことをすべての人に語らなければなりません。」

とイエス様は言われました。

イエス様のことを語るためには何よりもイエス様が約束された助け主、真理の御霊が必要です。

聖霊様が語られるから、私たちも語ります。

権力によらず、能力によらず、神の霊によって語ります。

ですから、今日も、聖霊様を歓迎しましょう!

ヨハネ 15:9-17

「わたしはもう、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべなら主人が何をするのか知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。父から聞いたことをすべて、あなたがたには知らせたからです。」(15:15)

イエス様は弟子たちを「友と呼びました」。

「私はもはやあなたたちをしもべとは呼ばない。しもべは主人が何を考え、何を計画しているのか理解できないからだ。そうではなく、私は、私が父から聞いたすべてのことをあなたたちに打ち明けたので、あなたたちを友と呼んだのだ。」(MSG)

神が私たちに、何を考え、何を計画しているのか理解できるように、神が打ち明けたことが聖書に記されています。

そして、そのことを理解できるように、助け主、聖霊がイエス様を信じる者たちに与えられています。

私たちは「しもべ」としての信仰ではなく、「友」としての信仰を持つようにと言われていますが、聖書を読まなければ、「友」としての信仰を持つことはできません。

ヨハネ 15:1-8

「わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです。」(15:5)

聖書が教えていることは、自分が枝であることを認めて、幹であるキリストを認めて、キリストから力をいただくということです。

大事なのはイエス・キリストにつながることです。

栄シャロームの開拓宣教師であるモラー先生はこのように言っています。

「まず第一に、キリストご自身に、そして次にキリストのからだ全体にどのようにつながっているのかをよりよく理解するために、信徒たちが成熟する機会を得ることは良いことです。」

枝は幹からしか栄養を受け取ることができません。

イエス・キリストを信じるというのは、まさに、枝が本来の幹につながるようなものです。

今日は主の日、共に主なる神に礼拝を捧げましょう!

ヨハネ 14:25-31

「わたしはあなたがたに平安を残します。わたしの平安を与えます。わたしは、世が与えるのと同じようには与えません。あなたがたは心を騒がせてはなりません。ひるんではなりません。」(14:27)

イエス様が与えると約束された「平安」は、ただの「平安」ではありません。

「わたしの平安」と、イエス様が所有している平安であることを強調しています。

LBでは、

「この世のはかない平安とは比べものになりません。」

と訳しています。

イエス様の時代の世界を支配していたのはローマ帝国でした。

皇帝アウグストの肖像画が刻印されたお金には、ラテン語で「平和」を意味する「PAX」という単語が刻印されていました。

ローマ帝国は武力によって、「当時の世界を平和にした」と自負していたのです。

民衆はローマ帝国が与えるパンとサーカスに酔いしれ、「ローマの平和」を享受していました。

イエス様は、そんなローマ帝国が与える「平和」とは違う「わたしの平和」を与えると約束されました。

ヨハネ 14:15-24

「もしわたしを愛しているなら、あなたがたはわたしの戒めを守るはずです。」(14:15)

「守りなさい」ではなく「守るはずです」と、命令形ではなく未来形です。

イエス様を愛していることは、イエス様の戒めを守っていることで証明されるということです。

これは16節以下の聖霊様が与えられることとつながります。

エゼキエル書36章にこうあります。

「わたしの霊をあなたがたのうちに授けて、わたしの掟に従って歩み、わたしの定めを守り行うようにする。」(36:27)

エゼキエル書は、イスラエルの民が神の戒めを守り行うことができず、その罪のゆえにバビロンに捕囚されていくことが記されています。

それで神は、神の霊を授けることで、民が神の戒めを守り行うようにすると言われました。

神の霊が与えられることと神の戒めを守り行うことは、切り離すことができないということです。

聖霊様が私たちの内におられるならば、神の戒めを守るはずであるという事です。

ヨハネ 14:1-14

「イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。」(14:6)

有名なトマス・ア・ケンピスの「キリストにならいて」にこのように記されています。イエス様からの言葉として記されています。

「わたしについてきなさい。わたしは道、真理、いのちである。

道がなければ進めない。

真理がなければ知ることはない。

いのちがなければ、生きることはない。

わたしは、あなたがついてこなければならない道、

あなたが信じねばならない真理、

あなたが希望せねばならないいのちである。

わたしは神聖な道、

誤りのない真理、

終わりのないいのちである。

わたしはもっともまっすぐな道、

最高の真理、

真のいのち、

祝福されたいのち、

創られたのではないいのち。

もし、あなたがわたしの道をいつも守ってゆくなら、

あなたは真理を知り、真理はあなたを自由にし、

あなたは永遠のいのちをつかむだろう。」(56.1)