黙示録 2:18-29

「しかし、ティアティラにいる残りの者たち、この教えを受け入れず、いわゆる「サタンの深み」を知らないあなたがたに言う。わたしはあなたがたに、ほかの重荷を負わせない。」(2:24)

ティアティラの教会の問題は預言者だと自称する「イゼベル」の教えでした。

それは、「サタンの深み」、「深い真理」(LB)です。

イゼベルの話は、「よくわからないけど、きっとすごい話をしているに違いない」と思わせるような話だったのだと思います。

しかし、そのような「深い教え」には注意が必要です。

マクグラス教授は警告します。

「十字架につけられたキリストの中心性を受け入れることのできないようなキリスト教はみな、『キリスト教』と言えるのかどうか、問い直さなくてはならないでしょう。キリスト教の関心は、神やイエス・キリストや、人間の性質や運命についてのでたらめな考えではなく、私たちが、イエス・キリストの十字架において出会う神秘的な生きた神との格闘なのです。」

黙示録 2:12-17

「耳のある者は、御霊が諸教会に告げることを聞きなさい。勝利を得る者には、わたしは隠されているマナを与える。また、白い石を与える。その石には、それを受ける者のほかはだれも知らない、新しい名が記されている。』」(2:17)

「勝利を得る者」は、イエス・キリストを信じる者です。

その人は、第一に、「隠されているマナ」が与えられると約束されています。

それは、イエス・キリストご自身のことと考えられます。(ヨハネ六章参照)

第二に、「白い石」が与えられます。

この時代、「黒い石」は、否定を意味し、「白い石」は肯定を意味しました。

ですから、イエス・キリストを信じる者は、神に確実に受け入れられるという保証を意味しています。

第三に、「それを受ける者のほかはだれも知らない、新しい名が記されている。」と言います。

「新しい」は、時間的な新しさでなく、質的な新しさを意味します。

神は私たちに新しい名を与えてくださいます。

「私たちは圧倒的な勝利者です。」(ローマ8:37)

黙示録 2:1-11

「あなたが受けようとしている苦しみを、何も恐れることはない。見よ。悪魔は試すために、あなたがたのうちのだれかを牢に投げ込もうとしている。あなたがたは十日の間、苦難にあう。死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与える。」(2:10)

「十日間の苦しみ」は、文字通り十日という意味ではなくて、特に定まっていない期間を現すときに用いられたことばです。

当時の文化において、長く継続する期間を表すときに使われました。

同時に、終わりがあるということも意味しました。

試練の中にある時、苦しみの中にある時、それは、限りなく長く続くように感じたりします。

しかし、イエス様は苦しみの先にあるものを見なさいと言うのです。

私たちの敵である悪魔の武器の一つは「恐れ」です。

電車がトンネルの中に入った時、恐ろしさのゆえに飛び降りる人はいません。

トンネルから出る時が来ます。

恐れに負けてはいけません。

黙示録 1:9-20

「私は主の日に御霊に捕らえられ、私のうしろにラッパのような大きな声を聞いた。」(1:10)

「主の日」は日曜日です。

キリストが復活されたのが日曜日なので、日曜日を「主の日」「主日」と呼んで、キリストに礼拝をささげるようになりました。

この箇所で、主の日に聖霊に満たされて、イエス様の声を聞いたというのには、意味があると思います。

キリスト者は、できるかぎりの努力をして、主の日に礼拝を忠実に捧げることを心がけるようにということです。

週の初めの日に、主なる神を礼拝することをいい加減にしますと、信仰生活がおかしくなっていきます。

「主の日」という意識の大切さを感じます。

ヨハネはどこからキリストの声を聞いたのでしょうか。

12、13節を見ますと、燭台の真ん中から声が聞こえたと言います。

20節に燭台の意味が出ています。

それは、教会です。

キリストは、あえて、教会のただ中におられて、そこで、私たちに語られます。

黙示録 1:1-8

「神である主、今おられ、昔おられ、やがて来られる方、全能者がこう言われる。「わたしはアルファであり、オメガである。」」(1:8)

神は言語が表現できるすべてを抱く方としてご自身を宣言しました。

アルファはギリシア語の最初の文字で、オメガは最後の文字です。

ですから、最初から存在され、最後まで存在される永遠のお方ということです。

「ヤハウェ」という神の名前は、英語のBe動詞と同じ言葉から来ていて、存在を意味します。

神は時空間を超えて存在され、今、存在されているだけでなく、昔からおられます。

そして、最後までおられます。

「やがて来られる方」とあるように、この世の終わりに、イエス・キリストは再び来られます。

その日は遠くありません。

ですから、聖書は言います。

「この預言のことばを朗読する者と、それを聞いて、そこに書かれていることを守る者たちは、幸いである。時が近づいているからである。」(3節)

詩篇 72:12-20

「ほむべきかな神である主イスラエルの神。ただひとり奇しいみわざを行われる方。とこしえにほむべきかなその栄光の御名。その栄光が全地に満ちあふれますように。アーメン、アーメン。」(72:18,19)

詩篇は全部で150篇ありますが、5つの区分に分けられて編集されています。

詩篇72篇は第二巻の最後の詩篇で、18節以下は第二巻全体の結びの「頌栄」です。

詩篇は、5つの区分、すべての結びに頌栄が歌われます。

「ただ、主ひとり、奇しいわざを行う。」とありますが、神は昔も今もこれからも、「奇しいわざを行う」神です。

人にはできないことも、神にできないことはありません。

LBはこのように訳しています。

「この方こそすばらしいことをしてくださるのです。」

「アーメン」は「真実です、その通りです」という意味です。

「アーメン」と唱和することは、信仰の告白になります。

今日は主の日。共に主なる神に礼拝を捧げましょう!

詩篇 72:1-11

「こうしてすべての王が彼にひれ伏しすべての国々が彼に仕えるでしょう。」(72:11)

マックス・ルケードは、「罪」をこのように定義しています。

「罪を犯すとは、「神よ、私はあなたが私の王であって欲しくありません。 私は王のいない王国がいい。 あるいは、私が王である王国の方がいい。」 と述べることです。聖書はこれを罪と呼んでいます。」

人は公正と義をもって治める王、イエス・キリストを追い出そうとしているから、混乱しています。

すべての人は悔い改めて、イエス・キリストを王の王として認め、仕える必要があります。

神の御国、神の統治は、「すでに」来ている側面と、「未だ」という側面があります。

この世界の終わりにイエス様が再び来られる時、最終的に成就します。

その日は、遠くないと私は信じています。

その日まで、イエス様を王として歓迎する人たちを通して、この地にシャローム(平和)がもたらされていきます。

詩篇 71:14-24

「神である主よ私はあなたの力とともに行きます。あなたのただあなたの義だけを心に留めて。」(71:16)

16節を聖書協会共同訳はこのように訳しています。

「私はあなたの力によって進みます」

詩人は、自分の力ではなく、神の力によって進んできたことを自覚していたのだと思います。

詩人が体験してきた神の御業は数えきれず、語り尽くせないと言います。

スポルジョン牧師は、こんなことを言います。

「私たちが自分の力で行こうとすれば、必ず倒れてしまいます。しかし、「この力で行け」という声を聞くとき、私たちは恐れることなく前進することができます。」

神はあなたの努力次第だとは言いません。

聖霊の力を受けるようにと言われます。

「聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。」(使徒1:8)

私たちは聖霊の力が必要です。

詩篇 71:1-13

「私の避け所の岩となってください。いつでもそこに入れるように。あなたは私の救いを定められました。あなたは私の巌私の砦なのです。」(71:3)

詩篇71篇の特徴の一つは、「いつでも」(always)という単語が3度繰り返し使用されていることです。

まず、3節で使用されます。

神は

「いつでもそこに入れる」「避け所の岩」

だと言います。

24時間365日、いつでも入れる扉が開かれています。

「イエス様の御名によって」私たちはいつでも、祈りによって駆け込むことができます。

聖書は言います。

「主の名は堅固なやぐら。正しい人はその中に駆け込み、保護される。」(箴言18:10)

二つ目は6節です。

三つ目は14節です。

14節を聖書協会共同訳では、「繰り返し、あなたを賛美します」と訳しています。

合理的に考えれば、一回賛美しても、繰り返し賛美しても、同じことのように思えます。

しかし、繰り返し、繰り返し、賛美の歌を歌いつづけることに意味があるのだと思います。

詩篇 70:1-5

「あなたを慕い求める人たちがみなあなたにあって楽しみ喜びますように。あなたの救いを愛する人たちが「神は大いなる方」といつも言いますように。」(70:4)

イエス様を愛する人の口癖は「神は大いなる方」です。

神を大きくする時、問題は小さくなります。

神の偉大さに目を向ける時、私たちを圧倒していた問題が小さく見える様になります。

神は私たちの弱さよりも大きなお方です。

神は私たちの最大の危機よりも、さらに大きなお方です。

神は私たちの失敗よりも大きなお方なのです。

信仰者の口癖は、そのように、神がどんなに偉大なお方かを語ることだというのです。

ウェンデル・スミス師はこのように言っています。

「私たちの礼拝のまず第一の目的は、神様を大きくあがめ、高くほめたたえ、神様が私たちの目の中に大きくなるようにすることです。そうして、私たちの持つ信仰が、人間の知恵に支えられず、神の力に支えられる様になることです。」