詩篇 69:29-36

「心の貧しい者たちよ見て喜べ。神を求める者たちよあなたがたの心を生かせ。」(69:32)

「心の貧しい人たち」を、小林和夫先生はこのように解説しています。

「人生のただ中に神の介入を経験して、心砕かれ、へりくだりをもって神に仕える人々。」

イエス様もこのように言われました。

「心の貧しい者は幸いです。」(マタイ5:3)

「人生のただ中に神の介入を経験して、心砕かれ、へりくだりをもって神に仕える人々」は幸いですと言ったのです。

マックス・ルケードはこんなことを言っています。

「狼は羊飼いの許可なしに羊を捕まえることはできず、羊飼いは、長期的に見て、その苦痛が得るに値する場合にのみ、攻撃を許可する。」

人生を振り返りながら、「見合う苦しみだったのだろうか…」と思うことがあります。

ただ、「人生のただ中に神の介入を経験して、心砕かれ、へりくだりをもって神に仕える人々」となるためには、通らなければならない、祈りの苦闘があります。

詩篇 69:13-28

「しかし私は主よあなたに祈ります。神よみこころの時にあなたの豊かな恵みにより御救いのまことをもって私に答えてください。」(69:13)

13節を直訳しますと、こんな感じになります。

「しかし私は、私の祈りはあなたに。主(ヤハウェ)よ。恵みの時。神よ、あなたの豊かな信実の愛によって、私に答えてください。あなたの救いのまことによって。」

「しかし私は」という言葉は強調されています。

詩人は、嘲られ、笑いものにされている状況で、「しかし私は」主なる神に祈ると言います。

その土台は、契約を守られる神の信実の愛です。

これは、イエス様の模範に従うことでもあります。

「イエスはその話している言葉を聞き流して、会堂司に言われた、「恐れることはない。ただ信じなさい」。 (マルコ5:36口語訳)

嘲りの言葉に晒されても、笑いの種にされても、それを聞き流して、ただ信じ、祈る、そこに神の御業が現されます。

詩篇 69:1-12

「それはあなたの家を思う熱心が私を食い尽くしあなたを嘲る者たちの嘲りが私に降りかかったからです。」(69:9)

神を嘲る言葉は私たちの心を痛めます。

ダビデは言います。

「私があなたを弁護したため、敵は、あなたに対してするように、私に侮辱のことばを投げつけてきます」(LB)

神を弁護する必要はありません。

私たちが神に弁護される必要があります。

とはいえ、ダビデは神の御名が汚されないように気をつけました。

「ああ主よ。この私の存在が、あなたを信頼しようとする人々にとって、つまずきとなりませんように」(6節LB)

イエス様は、神の家を思う熱心から、神殿で神に近づこうとする人々を妨げていた商売人たちを追い出しました。(ヨハネ2章参照)

教会で神に近づこうとする人々を妨げることがないように、気をつけましょう。

礼拝を捧げるために、神を求めて来る人たちを歓迎することに熱心になりましょう。

今日は主の日。共に主なる神に礼拝を捧げましょう!

詩篇 68:19-35

「神よ人々はあなたの行列を見ました。聖所で私の王私の神の行列を。歌い手が前を進み楽人が後に続く。タンバリンを鳴らすおとめたちのただ中を。」(68:24,25)

神の行列が至聖所に向かって行く様子が描かれています。

「歌い手が前を進み」とありますように、賛美を歌う人たちは、最前線です。

まず、賛美の歌を神に捧げることから始まります。

ユージーン・ピーターソンは、イスラエルの民は、高揚感と歓喜に満ちた礼拝のあり方を教会に教え続けていると言います。

神の民が集まって神への賛美を歌い、神のご支配を認める公同の礼拝は、毎回、勝利の祝典です。

詩篇 68:1-18

「主はみことばを与えてくださる。良き知らせを告げる女たちは大きな群れ。」(68:11)

「良いおとずれを告げる女たちは」は女性形なので、そう訳されているのですが、女性に限定しなくていいと思われます。

ギリシア語七十人訳では、このように訳しています。

「主は与えてくださる、ことばを、福音を告げる者たちに、大軍勢に」

メッセージ訳ではこう訳しています。

「主はみことばを与えた。何千もの人たちが良い知らせを呼びかけている。」

神が御言葉を与えられるということは、聞き流すような内容ではありません。

神が御言葉を与えられるならば、それは、必ず成し遂げられます。

「光あれ!」と言われたら光が生じる、神の仰せは、無から有を創造する言葉です。

神が御言葉を与えられたことによって、暗闇の力は打ち破られました。

そして、この良き知らせ、福音のことばを、私たちは喜んで伝えていきます。

詩篇 67:1-7

「あなたの道が地の上で御救いがすべての国々の間で知られるために。」(67:2)

「知られるため」とあるように、神の祝福は神が今も生きて働いておられることを、全ての人が知るためにあります。

1節の

「どうか神が私たちをあわれみ祝福し御顔を私たちの上に照り輝かせてくださいますように。」

は、民数記6章の「アロンの祝福」と呼ばれる祝福の言葉との関係が指摘されます。

この箇所の驚くべき約束は、祭司のアロンがイスラエルを祝福する時、神がイスラエルを祝福することです。

これは、実は、イスラエルの始祖であるアブラハムに対して神が命じたことでした。

神の目的は、アブラハムを通して全世界を祝福することでした。

イスラエルの人々は「祝福となるために祝福された」のです。

そして、イエス・キリストを信じるキリスト者も「祝福となるために祝福された」のです。

「私たちを世界に送り出し、神の救いの力と全人類への永遠のご計画とを知らせて回らせてください。」(2節LB)

詩篇 66:8-20

「もしも不義を私が心のうちに見出すなら主は聞き入れてくださらない。」(66:18)

祈りは、自己吟味、悔い改めを伴うものです。

「もし、悪に居心地よさを感じていたならば、主は決して聞いてくださらなかっただろう。」(18節MSG)

祈りは神を自分の思い通りに動かすことではありません。

聖書は、すべての人は罪を犯していると言います。

「自分は神に立ち返る必要はない」と考えていること自体が、聖書は罪を犯している状態だと言います。

人は皆、神の力強い御手のもとでへりくだる必要があります。

私たちは皆、イエス・キリストの十字架の御業がなければ、生きることもできません。

聖書は言います。

「もし自分には罪がないと言うなら、私たちは自分自身を欺いており、私たちのうちに真理はありません。もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。」(1ヨハネ1:8,9)

詩篇 66:1-7

「神は海を乾いた所とされた。人々は川の中を歩いて渡った。さあ私たちは神にあって喜ぼう。」(66:6)

6節は、出エジプト記14章を描写していると言われます。

モーセとイスラエルの民は、エジプトを脱出し、紅海の海辺に宿営しました。

ファラオは、イスラエルの民を行かせてしまったことを後悔し、戦車を率いて、イスラエルの民を追いかけます。

イスラエルの民は、エジプト軍が後ろに迫っているのを見て、恐れて、神に叫びます。

その時、神はモーセに言います。

「なぜ、あなたはわたしに向かって叫ぶのか。イスラエルの子らに、前進するように言え。あなたは、あなたの杖を上げ、あなたの手を海の上に伸ばし、海を分けなさい。そうすれば、イスラエルの子らは海の真ん中の乾いた地面を行くことができる。」(出エジプト14:15,16)

聖書は、この紅海の出来事を土台として、繰り返し、繰り返し、私たちが神の驚くべき奇跡を体験することを信じるように語ります。

詩篇 65:1-13

「幸いなことよあなたが選び近寄せられた人あなたの大庭に住む人は。私たちはあなたの家の良いものあなたの宮の聖なるもので満ち足ります。」(65:4)

聖書が教える幸福論、それは、「神の臨在の中に生きること」を最高の特権としているということです。

「あなたが選び、近寄せられた人」とあります。元来、主の宮で仕えられるのは、祭司やレビ人たちの特権でした。

しかし、イエス・キリストの十字架の御業のゆえに、今、イエス・キリストを信じる者は、「あなたが選び、近寄せられた人」となります。

私たちを選び、近寄せられた神の臨在は、「良いもので満ち足りる」ところです。

LBは、

「そこにはすべての良いものに加えて、大いなる喜びが待ちかまえているのです。」

と訳しています。

メッセージ訳は、

「あなたの家でいいことがいっぱいあることを期待している」

と訳しています。

神との交わりは、至上の特権です。神の臨在に変えられるものはありません。

詩篇 64:1-10

「正しい人は主にあって喜び主に身を避けます。心の直ぐな人はみな誇ることができます。」(64:10)

「心ある人々よ、賛美を習慣とせよ。」(10節MSG)新改訳で「誇る」と訳された単語は、「ハレルヤ」の「ハレル」で、「賛美を習慣とせよ」と訳せます。

詩人は、詩人を恐怖に陥れた悪者たちの存在を神が必ず処罰されるから、「賛美を習慣とせよ」と呼びかけます。

何があっても、賛美を習慣とすることが大事だと言うのです。

イエス・キリストを信じる者は、賛美を習慣とする理由があります。

誤解されたり、嫌な思いは、誰だってしたくないと思います。

しかし、イエス様は「喜びなさい。大いに喜びなさい。」と教えられました。(マタイ5:11,12)

この地上で、多くの信仰の先輩たちも、そのようなところを通ってきたと言います。

ですから、私たちは苦い思いを持つのではなく、賛美を習慣とするように心がける必要があります。

今日は主の日。共に主なる神に礼拝を捧げましょう!