ホセア書 10:1-15

「あなたがたは正義の種を蒔き、誠実の実を刈り入れ、耕地を開拓せよ。今が主を求める時だ。ついに主は来て、正義の雨をあなたがたの上に降らせる。」(10:12)

エレミヤ書に同じように「耕地を開拓せよ。」(4:3)という命令があります。

エレミヤ書では、続けて「茨の中に種を蒔くな。」とあります。

すなわち、表面的ではなく、真の悔い改めを求めているということです。

「今が主を求める時だ。」

という発言は、明らかに主なる神以外に助けを求めていたことを示唆しています。

続く13節にこのように記されています。

「それはあなたが自分の力に、自分の勇士の数に拠り頼んだからだ。」

「自分の力」と訳された単語は「私の道」「私のやり方」という意味です。

聖書が言う罪とは自分中心の生き方です。

自分中心から神中心に方向転換をして、主なる神を求めること、その時、主は来られると言います。

今日は主の日。共に主なる神に礼拝を捧げましょう!

ホセア書 9:10-17

「私の神は彼らを退ける。彼らが神に聞き従わなかったからだ。彼らは国々の間で、さすらい人となる。」(9:17)

捕囚の原因、それは、

「彼らが神に聞き従わなかったからだ。」

と聖書は言います。

神に従うことを第一としなかったからです。

預言者サムエルは、神の言葉に従わなかったサウル王にこのように言いました。

「主は、全焼のささげ物やいけにえを、主の御声に聞き従うことほどに喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。従わないことは占いの罪、高慢は偶像礼拝の悪。あなたが主のことばを退けたので、主もあなたを王位から退けた。」(1サムエル15:22,23)

どんな時でも、神のみ声に聴き従うことを優先させることができますように。

ホセア書 9:1-9

「彼らは主の地に住むことはない。エフライムはエジプトに帰り、また、アッシリアで汚れた物を食べる。」(9:3)

申命記28章以下に記された祝福と呪いの契約が示す通り、北イスラエルの民が捕囚されることがここで宣告されています。

イスラエルの民がエジプトの地で奴隷であったように、アッシリアの地で奴隷となることが宣告されました。

それは、北イスラエルの民が神との契約を破り、神に背いて異教の神々を礼拝したからであることが明言されています。

要するに、捕囚は罪の結果ということです。

それはつまり、捕囚からの帰還は罪の赦しということです。

ただし、捕囚状態はクロス王の勅令によって民が帰還を果たした後も続いていました。

本当の意味の捕囚の終わりは、イエス・キリストが「ユダヤ人の王」として十字架にかかられた時に起こりました。

「罪の赦し」は、イエス・キリストが「ユダヤ人の王」として十字架にかかられるまでもたらされることはありませんでした。

ホセア書 8:1-14

「わたしが彼のために、多くのおしえを書いても、彼らはこれを他国人のもののように見なす。」(8:12)

北イスラエルの民は言いました。

「わが神よ、私たちイスラエルは、あなたを知っています」(2節)

この発言に彼らの問題が凝縮しています。

彼らは自分は悪くないと考えていたということです。

自分たちは正しいと考えていたということです。

そんなイスラエルの民に、神は

「わたしは彼らのためにわたしの啓示を詳細に書き記す。彼らはそれを読めないふりをする。」(12節MSG)

と、言われます。

聖書は神の啓示です。

神は私たちに詳細に神の啓示を書き記してくださいました。

私たちは聖書を読み、神の御言葉に従って生きるように求められています。

北イスラエルの民のように、わかっているふりをせずに、謙遜に、神の御言葉を学ぶ者となることができますように。

ホセア書 7:1-16

「イスラエルの高慢はその顔に表れている。彼らは、自分たちの神、主に立ち返らず、このすべてがあっても、主を尋ね求めない。」(7:10)

北イスラエル王国の問題は高慢でした。

結局のところ、神を信頼しようとはせず、自分のやり方の方が、神のやり方よりも優れていると考えていたのです。

そのため、神に立ち返って神を尋ね求めることもしませんでした。

そもそも、サタンがエバを誘惑した言葉は「あなたがたが神のようになり」でした。

人の罪の根底には、この神よりも優れていると考える高慢さがあります。

そんな神を神として認めないイスラエルの民の姿を、

「片面しか焼けていないパン」(8節)

だと言います。

表面的、形式的に神に仕えているように見えても、本気で神を求め、神に信頼していない。

聖書は言います。

「ですから、あなたがたは神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神は、ちょうど良い時に、あなたがたを高く上げてくださいます。」(1ペテロ5:5)

ホセア書 6:1-11

「私たちは知ろう。主を知ることを切に追い求めよう。主は暁のように確かに現れ、大雨のように私たちのところに来られる。地を潤す、後の雨のように。」(6:3)

預言者ホセアは、罪に満ち、裁きを宣告されたイスラエルの民に呼びかけます。

「さあ、主に立ち返ろう。主は私たちを引き裂いたが、また、癒やし、私たちを打ったが、包んでくださるからだ。」(1節)

神のご計画は災いではありません。

私たちが悔い改めて、神に立ち返るならば、そこには癒しがあり、回復があります。

神の計画は将来と希望を与えることです。

ですからホセアは言います。

「私たちは神を学ぶ準備ができている。神を知ることを熱望している。夜明けのように確実に、神は毎日確実にやって来る。大地をリフレッシュする春の雨のように神は雨のようにやって来る。」(3節MSG)

大切なことは、主を知ることを切に追い求めることだと聖書は言います。

日々、聖書を学び、祈ることから始まります。

ホセア書 5:1-15

「彼らは、自分の悪行を捨てて自分の神に帰ろうとしない。姦淫の霊が彼らのうちにあり、彼らが主を知らないからだ。」(5:4)

主を知らず、姦淫のゆえに汚れてしまった北イスラエルに裁きが下されることが宣告されています。

「姦淫の霊」は、主なる神から人々を引き離そうとする悪霊の働きです。

自分の悪行を捨てて神に立ち返ることを妨げる悪霊の働きです。

「主を知る」という意味は、単なる知識として知るという意味ではありません。

主との人格的交わりによって得ることができる体験的な認識です。

それは、今、イエス・キリストの十字架の御業のゆえに、悔い改めてイエス・キリストを信じる者が、聖霊様によって得ることができる体験的な認識です。

「助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。」(ヨハネ14:26)

ホセア書 4:11-19

「悟ることのない民は滅びに落ちる。」(4:14)

イスラエルの国はソロモン王の後、北と南に分裂しました。

ホセアは北イスラエル王国に遣わされた預言者でした。

南ユダ王国とは違って北王国はすぐに主なる神を離れて偶像礼拝に陥ってしまいました。

北イスラエルの民は良識を失い、悟ることなく快楽に堕ちていきます。

ここでは特に神殿娼婦の類の問題が指摘されています。

このような行為の意図は、豊穣の神々であるバアルとアシェラが喜ぶことを行って豊作を願うという異教の習慣でした。

それは、社会生活を壊す行為でした。

結局のところ、「悟ることのない民は滅びに落ちる。」とあるように、根本的な問題は神の御言葉に対する理解がなかったことにあると聖書は言います。

謙遜に聖書の御言葉に耳を傾け、神のみこころを理解することができますように。

今日は主の日。共に主なる神に礼拝を捧げましょう!

ホセア書 4:1-10

「わたしの民は知識がないので滅ぼされる。あなたが知識を退けたので、わたしもあなたを退け、わたしの祭司としない。あなたがあなたの神のおしえを忘れたので、わたしもまた、あなたの子らを忘れる。」(4:6)

神のことばを教えるべき祭司たちが、神のことばを教えなかったがゆえに滅ぼされると言います。

教会も、この世の人が受け入れやすいものを語り、神のことばを教えなくなるならば、同じ過ちを繰り返すことになります。

ですから聖書は命じます。

「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。忍耐の限りを尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。というのは、人々が健全な教えに耐えられなくなり、耳に心地よい話を聞こうと、自分の好みにしたがって自分たちのために教師を寄せ集め、真理から耳を背け、作り話にそれて行くような時代になるからです。」(2テモテ4:2-4)

ホセア書 3:1-5

「主は私に言われた。「再び行って、夫に愛されていながら姦通している女を愛しなさい。ちょうど、ほかの神々の方を向いて干しぶどうの菓子を愛しているイスラエルの子らを、主が愛しているように。」」(3:1)

ゴメルはホセアの元を去って、自堕落な生活を繰り返し、結局は奴隷として売られるようになります。

ホセアは、驚くことに、そんなゴメルをお金を支払って買い戻します。

それは、神がホセアにこう命じたからです。

「再び行って、夫に愛されていながら姦通している女を愛しなさい。ちょうど、ほかの神々の方を向いて干しぶどうの菓子を愛しているイスラエルの子らを、主が愛しているように。」

ここに、神の愛が現されています。

神の愛は、それでもなお、こんな私たちを愛してくださる、永遠の愛です。