ホセア書 2:14-23

「それゆえ、見よ、わたしは彼女を誘い、荒野に連れて行って優しく彼女に語ろう。」(2:14)

神は私たちを口説いて、荒野に連れて行き、語られるお方であると聖書は言います。

人は自我が砕かれ、「自分中心」から「神中心」に変えられる必要があるからです。

私たちが直面する様々な試練は、神が私たちを口説いているのかもしれません。

神が私たちを口説いて行く場所が荒野であるというのはあまり耳に心地良い話ではありません。

しかし、そこでなければ聞くことができない神からの優しい語りかけがあります。

もちろん、荒野に行くことが神のみこころではありません。

続けて神は言われます。

「わたしはそこを彼女のためにぶどう畑にし、アコルの谷を望みの門とする。その場所で彼女は答える。若いころのように、エジプトの地から上って来たときのように。」(15節)

神は私たちに将来と希望を与えたいのです。

ホセア書 2:2-13

「しかし彼女は知らない。このわたしが、穀物と新しいぶどう酒と油を彼女に与えたのを。わたしが銀と金を多く与えると、彼らはそれをバアルに造り上げたのだ。」(2:8)

聖書は

「地とそこに満ちているものは、主のものだからです。」(1コリ10:26)

と言います。

ですから

「神が造られたものはすべて良いもので、感謝して受けるとき、捨てるべきものは何もありません。」(1テモテ4:4)

イスラエルの民は神から与えられた神のもので偶像に仕えていました。

根本的な問題は霊的無知だと言いますが、それは、弁解の余地のないものだと聖書は言います。

「神について知りうることは、彼らの間で明らかです。神が彼らに明らかにされたのです。神の、目に見えない性質、すなわち神の永遠の力と神性は、世界が創造されたときから被造物を通して知られ、はっきりと認められるので、彼らに弁解の余地はありません。」(ローマ1:9-20)

全ての人は神に立ち返る必要があります。

ホセア書 1:1-2:1

「あなたがたはわたしの民ではない」と言われたその場所で、彼らは「生ける神の子ら」と言われる。」(1:10)

ホセアが活動した30年ほどの間に、イスラエルの国は、王朝が4度も代わり、政策もアッシリアとエジプトの間で揺れ動いていました。

そんな中、イスラエルの民は、豊かさを約束する、バアル神へ傾倒していきました。

ホセアは、預言活動の初期、不道徳な女性、ゴメルと結婚し、その子どもたちに不思議な名前をつけるように命じられます。

「イズレエル」は場所の名前で、王朝の滅亡を暗示しました。

「ロ・ルハマ」の「ロ」は否定で、「ルハマ」は「憐れみ」で、「憐れみはない」という意味です。

「ロ・アンミ」の「アンミ」は「私の民」で、「私の民ではない」という意味です。

これは、偶像礼拝をやめないイスラエルの民を神が捨てられることを示唆する内容でした。

しかし、神は懲らしめの後、謙らされた後に、「生ける神の子ら」となると言います。

人は、自我が砕かれることを通して神の民になります。

ネヘミヤ記 13:23-31

「私の神よ、どうか彼らのことを覚えていてください。彼らは祭司職を汚し、祭司職とレビ人たちの契約を汚したのです。」(13:29)

ネヘミヤが祭司職を汚していると言った理由は、

「大祭司エルヤシブの子エホヤダの子の一人は、ホロン人サンバラテの婿であった。」(28節)

ということです。

サンバラテという名前は2章に出てきます。

「ホロン人サンバラテと、アンモン人でその部下のトビヤは、これを聞いて非常に不機嫌になった。イスラエル人の益を求める者がやって来たからである。」(2:10)

要するに、サンバラテは神の働きを妨害していた異邦人でした。

大祭司が、神の働きを妨げている異邦人と婚姻関係を結んだのは、政治的な理由だったのだと思われます。

この世の価値観に振り回されることなく、神の御心に生きることが、指導者の責任です。

教会が神の御心を第一とすることができるように、お祈りください。

ネヘミヤ記 13:10-22

「私の神よ、どうか、このことのゆえに私を覚えていてください。私が神の宮とその務めのためにした数々の誠実な行いを、ぬぐい去らないでください。」(13:14)

「レビ人の分が支給されていなかったために、務めに当たるレビ人と歌い手たちが、それぞれ自分の農地に逃げ去っていた」(10節)

と言います。

問題の根底にあったのは、トビヤという人物に、レビ人と歌い手たちに支給するために物資を保管する場所をあてがっていたという政治的な理由からでした。

この世の常識を教会に持ち込む時、教会は本来の機能を失います。

レビ人たちや歌い手たちは、礼拝をするために欠かせない人たちです。

しかし、この世の常識で、取るに足りない存在と考えられ、蔑ろにされてしまったのだと思われます。

ネヘミヤは礼拝を第一にしました。

彼は誰からも理解されなくても神に認められることを願いました。

今日は主の日。共に主なる神に礼拝を捧げましょう!

ネヘミヤ記 13:1-9

「その日、民が聞いているところでモーセの書が朗読され、その中に、アンモン人とモアブ人は決して神の集会に加わってはならない、と書かれているのが見つかった。」(13:1)

ルツ記のルツはモアブ人でした。

彼女は神の集会に加わり、ダビデの先祖の一人となります。

したがって、ここで指摘されている内容は民族の問題ではありません。

ルツは言いました。

「あなたの民は私の民、あなたの神は私の神です。」(ルツ1:16)

ここで問題になっているのは、アンモン人トビヤのようにエルサレムに住んでいながら、自分たちの伝統的な神々に忠誠を誓う人たちは、神(ヤハウェ)の共同体の完全な一員になれないということです。

実際、トビヤは穀物の捧げ物を保管すべき場所を占領し、神殿の機能を妨げていました。

教会も信仰者でない人が運営するならば同じような問題が起こり得ます。

教会は、神の御言葉に従って運営されなければなりません。

ネヘミヤ記 12:31-47

「次に、ゼカリヤの兄弟たちシェマヤ、アザルエル、ミラライ、ギラライ、マアイ、ネタンエル、ユダ、ハナニで、神の人ダビデの楽器を持って続いた。学者エズラが彼らの先頭に立った。」(12:36)

学者の後を賛美奉仕者たちが続いたという記述は私たちに大事なことを教えます。

賛美と神学は対立するものではなく、相互補完的なものです。

健全な神学のない賛美はただの歌となってしまいます。

賛美のない神学は寝学となり死学となってしまいます。

ネヘミヤ記全体にこのバランスが描かれています。

J.I.パカー先生は神に栄光を帰さない神学はないと言っていました。

すべての栄光は、父、子、聖霊の三位一体なる神に。

神を讃えよ。全ての祝福は神から流れてくる。

神を讃えよ。全ての被造物よ。

神を讃えよ。全ての天の軍勢よ。

父、子、聖霊を讃えよ。アーメン。

ネヘミヤ記 12:22-30

「エルサレムの城壁の奉献式に際して、彼らはあらゆる場所からレビ人を捜し出してエルサレムに連れて来た。シンバルと琴と竪琴に合わせて感謝の歌を歌い、喜びをもって奉献式を行うためであった。」(12:27)

イスラエルの民が何もしなければ、エルサレムの城壁を再建することはできませんでした。

神が何もなさらなかったのならば、城壁は築かれませんでした。

ですから、民は感謝の歌を歌う理由がありました。

ネヘミヤの役割は、城壁の再建でした。

そのためにエルサレムまではるばるやってきました。

ですから、城壁の奉献式がなされることは、彼にとっても大きな節目だったと思います。

ただ、ネヘミヤは自分の功績をアピールするようなことは言いませんでした。

神の恵みの御業であると確信していたからだと思います。

「恥は我がもの、栄光は主のもの」と言われますが、主の栄光だけがこの地を覆いますように。

ネヘミヤ記 12:1-21

「また、レビ人では、ヨシュア、ビヌイ、カデミエル、シェレベヤ、ユダ、マタンヤで、感謝の歌を受け持っていたのはマタンヤとその兄弟たちであった。」(12:8)

バビロンから、ゼルバベルとヨシュアと一緒に帰ってきた祭司とレビ人たちのリストが記されています。

名前が並べられているところに、突然、

「感謝の歌を受け持っていた」

という記述が入ります。

彼らは帰還してから感謝の歌を歌い始めたのでしょうか。

それとも、バビロンに捕囚されていた時も、感謝の歌を受け持っていたのでしょうか。

記述されていないので、想像の域を越えることはありません。

ただ、もし、捕囚地でも感謝の歌を歌い続けていたとするならば、私たちに対する大きなチャレンジになります。

良い時だけでなく、悪い時も、感謝の歌を歌い続けるならば神の奇跡を見ることになります。

「真夜中ごろ、パウロとシラスは祈りつつ、神を賛美する歌を歌っていた。(中略)すると突然、大きな地震が起こり、」(使徒16:25,26)

ネヘミヤ記 11:22-36

「農地がある村々で、ユダの子孫の一部が住んだのは、キルヤテ・アルバとそれに属する村々、ディボンとそれに属する村々、エカブツェエルとその村々、」(11:25)

エルサレムの外、農地がある村々に住むようになった人たちのリストが記されています。

中世の教会の問題は、「聖俗分離」という理解だったと言われます。

宗教的なものは神に属しますが、その他の世俗的なものは神に属さないという理解です。

プロテスタントの万人祭司主義は、このような「聖俗分離」の考え方に一石を投じました。

世俗的なものは悪いものという考え方は短絡的です。

キリスト者の歩みは、人生の公的領域に広げられていくものです。

ですからイエス様は、神のみこころが天で行われているように、この地に行われるように、「御国が来ますように」と祈るように教えられました。