Ⅱコリント 12章

「しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。」(9節)

 パウロには問題がありました。多くの学者は、目の問題だと考えていますが、はっきりと分かってはいません。神様は彼を用いて多くの人をいやされましたが、彼の目はいやされませんでした。「いやしてください」と何度も祈った彼に神様は言いました。「いや、治すまい。しかし、わたしはあなたと共にいる。それで十分ではないか。わたしの力は弱い人にこと、最もよく現れるのだから。」(LB)

私たちに弱さがあるからこそ、神様の力が輝きます。自分に足りなさがあるからこそ、神の偉大さが現されます。マイナスは必ずプラスになります。

「主よ、どんなことがあっても、あなたを信頼し続けることができますように。」

Ⅱコリント 11章

「だれかが弱くて、私が弱くない、ということがあるでしょうか。だれかがつまずいていて、私の心が激しく痛まないでおられましょうか。」(29節)

 

今日の箇所をLBではこう訳しています。「誤った道を進んでいる人を見て、悲しまないでいられるでしょうか。倒れている人を見て、知らん顔ができるでしょうか。精神的に痛手を受けている人を見て、傷つけた相手を激しく怒らずにいられるでしょうか。」この表現に使徒パウロの教会に対する思いを見ることができます。いや、使徒パウロに与えられた神様の教会に対する思いを見ることができます。教会は、キリストの花嫁だという箇所があるように、神様にとって教会と言うのはあってもなくてもいい存在ではありません。西洋の個人主義の影響で、信仰の個人的側面が過度に強調され、教会を過小評価する傾向が強くなっていますが、それは、神様の思いではありません。「主よ、あなたの教会を大切にできますように。」

Ⅱコリント 10章

「私たちは、さまざまの思弁と、神の知識に逆らって立つあらゆる高ぶりを打ち
砕き、すべてのはかりごとをとりこにしてキリストに服従させ、」(5節)

今日の箇所を直訳しますと、こうなります。「神の知識に反対するあらゆる高
慢、そして、すべての思い(考え)を捕らえてキリストに従順するように連行す
る」。この世界には様々な考え方がありますが、私たちは聖書的な信仰に自分の
考え方を捕らえて連行する必要があります。自然に身につくというものでもあり
ません。私たちは「ツール」(道具)が必要です。畑を耕すためには鋤が必要で
す。勉強をするためには本が必要です。料理をするためには鍋が必要です。祈る
ためには信仰が必要です。同じように、私たちの考え方を聖書的な信仰に捕らえ
て連行していくために、ツールが必要です。聖書を読むこと。祈ること。聖書的
な説教(メッセージ)に耳を傾けること。私たちは自分の考えを聖書的な考え方
に連行するツールが必要です。

Ⅱコリント 9章

「蒔く人に種と食べるパンを備えてくださる方は、あなたがたにも蒔く種を備え、それをふやし、あなたがたの義の実を増し加えてくださいます。」(10節)

「蒔く人に種と食べるパンを備えてくださる」と聖書は言います。つまり、まず、蒔かなければ体験できない世界があるということです。信仰の世界と言うのは、そのようなものです。理解できたら信じるというのではなく、信じていくときに理解することができます。ここでは、献金という文脈で語られています。献金の恵みは、大変な状況の中でも信仰をもってささげていくということを実践しなければ体験できない世界です。厳しい状況の中でも捧げて行くときに、まさに、「蒔く人に種と食べるパンを備えてくださる」という世界を体験します。よく言われることですが、一個のりんごの中にある種の数は数えられても、その種から生み出されていくりんごの数を数えることはできません。「主よ、私を蒔く者としてください。」

Ⅱコリント 8章

「さて、兄弟たち。私たちは、マケドニヤの諸教会に与えられた神の恵みを、あなたがたに知らせようと思います。」(1節)

 この箇所でパウロが言う「神の恵み」とは「献金」のことです。ここでは特に「マケドニヤの諸教会に」とありますが、それはピリピの教会のことを指しています。二節にこうあります。「多くの試練や困難のただ中にあったマケドニヤの諸教会が、ひどく貧しいにもかかわらず喜びに満ち、その結果、あふれるほど惜しみなく、他の人々に施すようになりました。」(LB)パウロはピリピ書で彼らのことを言っています。「贈り物を感謝するのはもちろんのこと、何よりもうれしいのは、その親切な行いのゆえにあなたがたが受ける、豊かな報いのことです。」(ピリピ4:17LB)貧しさの中にある人から献金を受けることは申し訳なく感じます。しかし、献金をすることを通して受ける豊かな報いは、それ以上です。ですから献金は私たちに与えられた神の恵みの世界なのです。

5月27日の主日礼拝

5月27日の主日礼拝はペンテコステ特別礼拝。聖霊なる神様がイエス様のお弟子さんたちに臨み、教会が誕生した日です。

第二礼拝(10時半)は、ギデオン聖書協会(聖書を学校やホテルで配布している宣教団体)の方が来られ、証しをしてくださいます。

第三礼拝(18時)は、鶴見でもたれる合同聖会に合流するためお休みです。

Ⅱコリント 7章

「マケドニヤに着いたとき、私たちの身には少しの安らぎもなく、さまざまの苦しみに会って、外には戦い、うちには恐れがありました。しかし、気落ちした者を慰めてくださる神は、テトスが来たことによって、私たちを慰めてくださいました。」(5、6節)

 使徒パウロと聞くと、私たちとは違う屈強なスーパー・クリスチャンをイメージします。しかし、使徒パウロもまた、私たちと何も変わらない普通の人でした。彼もまた不安を感じ、恐れを感じ、落ち込みました。しかし、彼は「意気消沈している者を励ましてくださる神」(LB)に励まされたのです。パウロはテトスが来たことによって励まされるのですが、神様はそのようにして励ましたのです。今日も同じように、神様は何かを通して私たちを励ましてくださいます。「神様だけが、今は恥じてうなだれている私の頭を、高く持ち上げてくださるお方です。」(詩3:3LB)

Ⅱコリント 6章

 「私たちは、この務めがそしられないために、どんなことにも人につまずきを与えないようにと、」(3節)

パウロは自分が伝道の妨げ、周りの人々のつまずきにならないように気をつけてきたと言います。LBではこのように訳しています。「私たちの行動が、だれかをつまずかせたり、主との出会いを妨げたりすることがないように、生活態度には気をつけています。私たちの欠点が、主を非難する口実に用いられたら大変だからです。」私たちの行動が、だれかが主と出会うことを妨げるのならば、これほど悲しいことはありません。パウロのように細心の注意を払っていても誰かをつまずかせてしまうこともあります。しかし、パウロのような姿勢をもつことは大切なことだと思います。イエス様は、子供たちがイエス様のもとに来るのを妨げようとした弟子たちを怒りました。誰であれイエス様のもとに来ようとする人を妨げるならばイエス様は必ず怒られます。

Ⅱコリント 5章

「肉体の中にあろうと、肉体を離れていようと、私たちの念願とするところは、主に喜ばれることです。なぜなら、私たちはみな、キリストのさばきの座に現われて、善であれ悪であれ、各自その肉体にあってした行為に応じて報いを受けることになるからです。」(9、10節)

  すべての人は、やがて、キリストのさばきの座に立ちます。しかし、キリストを信じる者たちにとってのさばきの座というのは、賞を受けるさばきの座です。ここで使われている「さばき」という言葉は、オリンピック・ゲームの審判(ジャッジ)に使われる言葉です。この世で、私たちが良い行いをして、人々から称賛されたら、私たちの報酬はこの地上ですでに受け取ったことになります。しかし、主のために奉仕しても、誰からも評価してもらえないことがあります。それらの報いを、このキリストのさばきの座で受けるのです。「よくやった」と言われるその日まで、主に喜ばれることをしていこうではないでしょうか!

Ⅱコリント 4章

「こういうわけで、私たちは、あわれみを受けてこの務めに任じられているのですから、勇気を失うことなく、恥ずべき隠された事を捨て、悪巧みに歩まず、神のことばを曲げず、真理を明らかにし、神の御前で自分自身をすべての人の良心に推薦しています。」(1,2節)

 使徒パウロは、神のみことばを教えるということに対して聖なる畏れをもっていました。異端や新興宗教は、平気で神のことばを曲げて話しますが、それは大変恐ろしいことです。LBでは、「書かれてもいないことを、聖書の教えであるかのように思わせることも、決してしません。」とありますが、神のみことばに対する畏れは、神のみことばを教える立場にある人には必須条件です。聖書はいろいろと解釈できるという人がいますが、そんなことはありません。聖書は、自分が言いたいことをつじつま合わせるために存在しているわけではないからです。聖書には聖書の文脈がありますし、聖書は聖書に解釈させることが大原則です。