Ⅱコリント 3章

「しかし、人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです。主は御霊で
す。そして、主の御霊のあるところには自由があります。私たちはみな、顔のお
おいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へ
と、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働
きによるのです。」(16-18節)

私たちが一番求められていること、それは、主に向くことです。問題やこの世の
楽しみに私たちが向いているならば、神様が与えようとしている自由を体験する
ことは難しいことでしょう。聖書は言います。「私たちの指導者であり、教師で
あるイエス様から、目を離さないようにしなさい。」(ヘブル12:2LB)ペテ
ロが、イエス様から目を離した瞬間、沈んでいってしまったように、イエス様か
ら目を離してしまうと、私たちの人生は沈んでしまいます。しかし、イエス様の
方に向くのならば、聖霊なる神様が必ず私たちの人生を栄光から栄光へ変えて下
さいます。

Ⅱコリント 2章

「あなたがたは、むしろ、その人を赦し、慰めてあげなさい。そうしないと、その人はあまりにも深い悲しみに押しつぶされてしまうかもしれません。」(7節)

 日本人は道徳観が比較的に高い国民だと思います。そのため、それぞれが持つ倫理規準に達さない人を切り捨てやすいという側面もあると思います。しかし、それはイエス様がしたこととは違います。イエス様はご自身の規準で人々を裁くことはありませんでした。逆に、裁く人を裁かれました。同じようにキリストのからだである教会にいつも必要なのは恵みの雰囲気です。教会は恵みのビニルハウスである必要があります。神の前に悔い改める人が、切り捨てられるのではなく、回復できる場所である必要があります。使徒パウロは言います。「今はむしろ、赦し、慰めてやりなさい。そうしないと、余りの悲しみと絶望に打ちひしがれて、立ち直れなくなるかもしれません。」(LB)神様は私たちを切り捨てたいのではなく、回復したいのです。

Ⅱコリント 1章

「これは、もはや自分自身を頼まず、死者をよみがえらせてくださる神により頼む者となるためでした。」(9節)

 使徒パウロはアジアで体験した苦しみに言及し、自分の無力さを痛いほど思い知らされ、自分の許容範囲を超え、死を覚悟したと言います。ところがパウロはこのように告白します。「しかし、それがよかったのです。というのは、そんな状態の中で、何もかも神様にお任せしたからです。救い出すことができるのは、神様だけです。」(LB)パウロは、自分ではどうすることもできないがゆえに、神様だけに頼ることを強制的に学んだと言うのです。神様は時に、私たちが自分自身ではなく、神だけにより頼むことを学ぶために、私たちにはどうしようもないような状況に追い込まれることを許可します。私たちはいつになったらパウロのように謙そんになって、キリストを離れては何もできない(ヨハネ15:5)と認めることができるのでしょうか。

※ 本日の第三礼拝(18時から)は英語礼拝。ジョンT宣教師が来られます!

ルツ 4章

「こうしてボアズはルツをめとり、彼女は彼の妻となった。」(13節)

  誠実なボアズは、正当な手続きを経てルツをめとることにします。それは、ボアズよりも権利のある親類が「私には自分のために、その土地を買い戻すことはできません。私自身の相続地をそこなうことになるといけませんから。」(六節)と言ったように、彼の財産を失う危険を伴うものでした。ボアズはまさにすべてを捨ててでも、ルツを贖ったのです。イエス様は言われました。「天の御国は、畑に隠された宝のようなものです。人はその宝を見つけると、それを隠しておいて、大喜びで帰り、持ち物を全部売り払ってその畑を買います。」(マタイ13:44)ボアズにとっては、ルツは宝のようなものであり、彼は彼女のためにすべてを捧げました。ボアズはキリストの象徴であり、ルツはキリストの花嫁である教会の象徴だと言われます。キリストは私たちを贖うためにその命を捧げてくださいました。

ルツ 3章

「彼は言った。『あなたはだれか。』彼女は答えた。『私はあなたのはしためルツです。あなたのおおいを広げて、このはしためをおおってください。あなたは買い戻しの権利のある親類ですから。』」(9節)

ルツは義母のナオミの言うとおりにすべてを行いました。ナオミはボアズが彼女に「すべきことを教えてくれる」と言いました。しかし、ルツはボアズに対して自分の意志で、自分から『妻にして欲しい』(「あなたのおおいを広げて、このはしためをおおってください」の意味)と頼みました。ルツはナオミに利用された被害者ではありません。彼女自身が望んだのです。神のご計画の中に生きるということは、それは盲目的に従うこととは違います。盲人のバルテマイにイエス様が「わたしに何をしてほしいのか。」(マルコ10:51)と言われたように、神様は私たちに「何をして欲しいのか」と尋ねてくださるお方です。

ルツ 2章

「モアブの女ルツはナオミに言った。『どうぞ、畑に行かせてください。私に親切にしてくださる方のあとについて落ち穂を拾い集めたいのです。』すると、ナオミは彼女に、『娘よ。行っておいで。』と言った。」(2節)

 スポルジョンの「朝ごとに夕ごとに」にこの箇所についてこんなコメントが書いてあります。「力を落として悩むクリスチャンよ。来て、今日、広大な神の約束の畑で落ち穂を拾え。そこにはあなたの願いを満たすたくさんの約束がある。(中略)落ち穂はあなたの目の前に置かれている。それを拾い集めよ。恐れるな。ただ信ぜよ。これらのすばらしい約束をつかみ、黙想によってもみがらを取り去り、喜びをもってそれを食べよ。」ルツの信仰は受動的ではなく行動的でした。ルツは落ち込んで、ナオミと一緒にあわれみをただ待っていたわけではありませんでした。私たちも聖書を開いてみことばを食べていく必要があります。

ルツ 1章

「そこで、彼女は嫁たちと連れ立って、モアブの野から帰ろうとした。モアブの野でナオミは、主がご自分の民を顧みて彼らにパンを下さったと聞いたからである。」(6節)

 ナオミとその家族は約束の地、ベツレヘムに住んでいましたが、ききんがあったので異教の神々の地、モアブに移り住んでしまいました。問題と言うのは、そもそも私たちが膝を屈めて、神様に祈り求めるためにあります。しかし、ナオミたちは、神様に祈り求めることよりも、手っ取り早い解決を求めて、約束の地を離れてしまいました。その結果、彼女はすべてを失ってしまいました。すべてを失ったナオミは、主を待ち望む者に必要を満たされる神の現実を耳にします。「すべての目は、あなたを待ち望んでいます。あなたは時にかなって、彼らに食物を与えられます。」(詩篇145:15)驚くことは、神様のもとに戻ってきたナオミに、神様は回復を始められたということです。

Ⅰコリント 16章

「主がお許しになるなら、あなたがたのところにしばらく滞在したいと願ってい
ます。」(7節)

 使徒パウロは、自分の宣教旅行計画をコリントの教会の人々に伝えるのです
が、こう付け加えました。「主がお許しになるなら。」ヤコブの手紙の中にこう
いう箇所があります。「明日どんなことが我が身に起こるか、どうして分かるで
しょう。・・・ですから、こう言うべきです。『主がお許しくださるなら、私
は、あのこと、このことをしよう。』」(4:14,15LB)神の民として、私
たちは未来に関してこのような柔軟な姿勢を持つ必要があります。自分の計画に
こだわって、神の介入を受け止めることができないのは、寂しいことです。神様
は私たちの人生を最善に導きたいと願っておられます。自分の願いに固執せず、
柔軟に対応していく必要があります。ある牧師はこう言います。「幸いなるか
な、柔軟な人。その人は、折れることはない。」
「主よ、柔軟な心を与えてください。」

Ⅰコリント 15章

「ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。そして、私に対する
この神の恵みは、むだにはならず、私はほかのすべての使徒たちよりも多く働き
ました。しかし、それは私ではなく、私にある神の恵みです。」(10節)

使徒パウロは、「今あるは神の恵み」と告白しました。恵みとは、受けるにふさ
わしくない者が受けることです。パウロは、自分が今存在し、自分が今携わって
いることを考えた時、過去の自分を振り返って、自分にはふさわしくないことに
畏れを感じたのです。しかしパウロはそれで終らずに、そのことをよく理解して
いたからこそ、神の恵みに感謝して、人一倍努力して神に仕えてきたと言いま
す。ところが、それでも考えてみると、自分が努力できたことでさえも、神の恵
みであったことを悟ったと言うのです。自分の功績を証するのでなく、パウロの
ように神の恵みに日々感謝して歩むことができますように。

Ⅰコリント 14章

「ただ、すべてのことを適切に、秩序をもって行ないなさい。」(40節)

 使徒パウロが、この14章で語っている内容は、40節にまとめられています。「何事も適切に秩序正しく行うようにしなさい。」(LB)コリント教会の問題は、極端で、混乱していたということです。教会の中で、誰もが好き勝手なことを言ったり、行ったりしたら大変なことになります。33節にこうあります。「神様は、無秩序や混乱の神ではなく、秩序と平和の神だからです。」(LB)。私たちの教会は、極端にならないように、バランスを大事にしています。教会の中だけでなく、様々な所でもこの原則を適用することができると思います。神様は秩序と平和の神ですから、どんなことにおいても、適切に秩序正しく行うことを心がけることは神様が喜ばれることです。自分が遣わされているその場所で、極端になって混乱をもたらせる者ではなく、秩序と平和をもたらすことができますように。