Ⅰサムエル 10章

 「神に心を動かされた勇者は、彼について行った。」(26節)

神様がサウルを王として選ばれた時、すべての人がサウルを王として受け入れたわけではありませんでした。「こんな男に我々が救えるか」と、彼を侮った、ならず者たちもいました。しかし、神様に心を動かされた勇者たちが彼を支え、協力したことによってイスラエルの国の王制は確立しました。まさに、神に心を動かされた勇者たちが歴史を作ったのです。今から約二千年前、神の御子イエス・キリストに心を動かされた弟子たちは全世界に出て行き、世界をひっくりかえしてしまいました。まさに、神に心を動かされた勇者たちが歴史をつくったのです。今も同じように、生ける神様は、私たちの心に触れたいと願っています。神に心を動かされた勇者たちが教会を建てあげ、神の御国をこの世に現します。 「主よ、私たちの心に触れてください。」

Ⅰサムエル 9章

「三日前にいなくなったあなたの雌ろばについては、もう気にかけないように。あれは見つかっています。イスラエルのすべてが望んでいるものは、だれのものでしょう。それはあなたのもの、あなたの父の全家のものではありませんか。」(20節)

 サウルはいなくなった雌ロバを捜して山地を巡り歩いていました。しかし、実は神様はサウルをサムエルに会わせるために雌ロバを用いただけでした。神様は同じように私たちの人生を導かれます。私たちは思い通りにいかないことに苛立ちを感じたりします。しかし実は、神様がその背後で私たちの人生を導かれているのです。私たちは理解できないことに苛立ちを募らせるのではなく、その背後で働かれている神様を透かして見、信頼し、委ねていく必要があります。リック・ウォーレン師は言います。「私の罪が問題の原因の時、私は悔い改める。もしサタンが問題の原因なら抵抗する。もし、状況が問題の原因なら、私はリラックスして神を信頼する。」

Ⅰサムエル 8章

「主はサムエルに仰せられた。「この民があなたに言うとおりに、民の声を聞き入れよ。それはあなたを退けたのではなく、彼らを治めているこのわたしを退けたのであるから。」(7節)

 イスラエルの人々は、生活が安定し始めると、神への思いが薄くなり、神の支配よりも人の支配を求めるようになっていきました。榎本師はこう言っています。「何か困難なことが起こったり、比較的責任のともなわない時代には、神を熱心に求めていた人が、生活が安定し、いろいろと地上的な責任を負わされるようになると、だんだんと神を恐れる思いが稀薄になる。そういう人が多いのではなかろうか。」神は今も神の民を直接治めたいと願われています。だから、イエス様はおっしゃられました。「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」(マタイ6:33新共同訳)「神の国」とは神の支配の下に生きることです。

6月の日曜日 JUNE Sundays

10 Ⅰサムエル7章 「神への渇望が人生を変える」

小山英児牧師

9時(HC)、10時半(HC)、18時(HC) (HC)=聖餐式

  17日(父の日)Ⅰサムエル15章 「神が本当に求めていること」

小山英児牧師

9時、10時半、18時

 20Ⅰサムエル17章 「あなたのゴリヤテに操られない」 

小山英児牧師

9時、10時半

18時(英語礼拝 w/ジョンT宣教師)

(Worship Service in English with JohnT Worm at 6pm. 同時通訳あり)

 

※           アルファ・コース(キリスト教基礎講座・毎週日曜日12:45から)開催中!

  興味のある方は教会(sakaeshalom@ttmy.ne.jp)に、ご連絡ください。

Ⅰサムエル 7章

「彼らはミツパに集まり、水を汲んで主の前に注ぎ、その日は断食した。そうして、その所で言った。『私たちは主に対して罪を犯しました。』」(6節)

 様々な出来事があって、ようやくイスラエルの人々は、主を慕い求め始めました。そんな中でサムエルは、主に立ち返ること、すなわち、悔い改めを呼びかけます。すると人々は、「私たちは主に対して罪を犯しました。」と罪を告白したと聖書は言います。そして、イスラエルに霊的なリバイバルが起こります。リバイバルの歴史を研究しますと、それはいつも「罪の告白」から始まることが分かります。聖書は言います。「もし、自分には罪がないと言いはるなら、それは、自分をだましているのであって、真理を受け入れようとしない証拠です。しかし、もし自らの罪を神様に告白するなら、神様はまちがいなくそれを赦し、すべての悪からきよめてくださいます。」(Ⅰヨハネ1:8,9LB)「主よ、リバイバルを与えてください。」

Ⅰサムエル 6章

「主はベテ・シェメシュの人たちを打たれた。主の箱の中を見たからである。そのとき主は、その民五万七十人を打たれた。主が民を激しく打たれたので、民は喪に服した。」(19節)

  旧約聖書において、大祭司以外が主の箱の中を見ることは許されていませんでした。罪ある人間が、そのまま神に近づくことは許されることではありませんでした。今も、人は私たちの大祭司であるイエス・キリストを通してでなければ神に近づくことはできません。だからイエス様はおっしゃられました。「だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。」(ヨハネ14:6)人はただ、イエス・キリストによってのみ、父なる神に近づくことができます。ですから私たちはイエス・キリストのお名前によって祈ります。「イエス様、あなたの十字架の御業を感謝します。イエス様のみ名によって大胆に父なる神に近づくことができることを感謝します。」

Ⅰサムエル 5章

「アシュドデの人々は、この有様を見て言った。『イスラエルの神の箱を、私たちのもとにとどめておいてはならない。その神の手が私たちと、私たちの神ダゴンを、ひどいめに会わせるから。』」(7節)

  ペリシテ人の神ダゴンは、ご利益を与えてくれる神です。ご利益宗教の特徴は人間が中心であることです。そのような神は人間の幸せのために奉仕する、人間に好都合な存在でしかありません。しかし、聖書の神はまったく逆です。聖書の神は、私たちの願いどおりに動いてくださる便利な神ではありません。私たちの方が神に従って生きることを求められる、王の王、主の主なる神です。この箇所で驚くことは、悔い改めて唯一まことの神を受け入れるどころか、自分たちに都合のいい神を守ろうとすることです。私たちはペリシテ人のようにしていないか、自らの信仰を吟味することも大事なことだと思います。「主よ、あなたこそ我が神、我が主です。」

Ⅰサムエル 4章

「民が陣営に戻って来たとき、イスラエルの長老たちは言った。『なぜ主は、きょう、ペリシテ人の前でわれわれを打ったのだろう。シロから主の契約の箱をわれわれのところに持って来よう。そうすれば、それがわれわれの真中に来て、われわれを敵の手から救おう。』」(3節)

  イスラエルの人々はペリシテ人に敗れた時、悔い改めて神に立ち返ることもできました。しかし、彼らは神のみこころを求めるどころか、自分たちの意見を出し合い、契約の箱を魔法の箱のようにもってきたら幸運をもたらすことができると結論を出してしまいました。その結果、彼らは無残にも大敗北を喫し、契約の箱も奪われてしまいました。彼らが神の臨在を必要としていたことは確かだと思います。しかし、彼らの方法は間違っていました。聖書は言います。「・・・自分の知識にたよってはならない。すべての道で主を認めよ、そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。」(箴言3:5,6口語訳)

Ⅰサムエル 3章

「そのうちに主が来られ、そばに立って、これまでと同じように、「サムエル。サムエル。」と呼ばれた。サムエルは、「お話しください。しもべは聞いております。」と申し上げた。」(10節)

 少年サムエルは主の宮で神の声を聴きました。ジョン・コーソン師は言います。「もしあなたが主に語ってもらいたいならば、あなたに導きを与えて欲しいならば、主の宮の中にいるべきです。」神様はもちろんいつでもどんな所でも語ることができます。しかし、神様がよく語られる場所は、主の宮である教会です。「教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。」(エペソ1:23)サムエルのように、「お話しください。しもべは聞いております。」という姿勢で礼拝に、婦人会に、祈祷会に、教会学校に集う時、確かに主の声を私たちは聖書のみことばを通して聴くことができるのではないでしょうか。

Ⅰサムエル 2章

「わたしは、わたしを尊ぶ者を尊ぶ。わたしをさげすむ者は軽んじられる。」(30節)

祭司エリの子供たちは、神の聖なるものを扱う役割があったのにも関わらず、その職を軽く扱っていました。エリもまた、そのような息子たちを祭司として用い続けたというところに、神に対する軽視があったと言われても仕方がないと思われます。神様はエリに言いました。「わたしを軽視する者は、こちらでも軽視しよう。」(LB)私たちは神様を軽視していないでしょうか?キリスト教会を軽視していないでしょうか?礼拝を軽視していないでしょうか?キリストの十字架を軽視していないでしょうか?神のことば、聖書を軽視していないでしょうか?エリもエリの子供たちも、神様を軽く見ていたことに悲劇がありました。この警告は旧約だけの話ではありません。使徒パウロも言います。「思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。」(ガラ6:7)