Ⅱサムエル 19章

 「それで今、立って外に行き、あなたの家来たちに、ねんごろに語ってください。私は主によって誓います。あなたが外においでにならなければ、今夜、だれひとりあなたのそばに、とどまらないでしょう。そうなれば、そのわざわいは、あなたの幼いころから今に至るまでにあなたに降りかかった、どんなわざわいよりもひどいでしょう。」(7節)

  ダビデは、反乱者であっても、自分の息子であるアブシャロムの死に悲嘆にくれてしまいました。そんなダビデの姿を見て、ダビデのために戦った人たちはどう反応していいか分からなくなってしまいました。それでヨアブはダビデのところにやってきて、個人的な感情を優先させるのではなく、自分のために戦ってくれた人々に感謝しなければ、もう誰もダビデの周りにはいなくなると注意しました。「個人的な痛みや苦しみに悩んでいたとしても、支えてくれている人々に対する感謝を忘れませんように。」

Ⅱサムエル 18章

「アヒマアツは低地への道を走って行き、クシュ人を追い越した。」(23節)

  ダビデ王のもとに、ヨアブは最初、クシュ人を伝令で遣わしました。しかし、勝利の報告をどうしても伝えたかったアヒマアツは、ヨアブに頼み込んで、自分もダビデのもとに行くことを許可してもらいました。後から出発したアヒマアツは、低地への道を走って行ったので、クシュ人を追い越してしまったと聖書は言います。つまり、クシュ人は丘を登り谷を下ったために、時間がかかってしまったということだと思われます。スポルジョンはこんなことを言っています。「私の霊の旅はどうであろうか。労苦を重ねて自らの行いという丘に登り、屈辱と自己の決断の谷に下っていないだろうか。それとも私は、『信じて、生きよ』との平坦な道を走っているだろうか。・・・この箇所を読んで気づくことは、もし人がささいな問題で争っているならば、他の者に追い越されるということである。」

「主よ、まっすぐに主のもとに走れますように。」

Ⅱサムエル 17章

「アヒトフェルはさらにアブシャロムに言った。」(1節)

  アヒトフェルの助言は、「人が神のことばを伺って得ることばのようであった。」(16:23参照)と言います。そんな彼が、どうしてここまでダビデに対して敵対心をむき出しにしたのでしょうか。23章34節を見ると、彼にはエリアムという息子がいたことが分かります。そして、11章3節を見ると、エリアムの娘が、バテ・シェバであることが分かります。そして、このバテ・シェバの夫、ウリヤを戦死させるように命じたのはダビデでした。孫娘に対する一連のことによって、アヒトフェルの心にずっと苦々しい思いがあったことはたやすく想像することができます。アヒトフェルが怒るのはもっともなことです。ダビデがしたことを正当化することはできません。しかし、苦々しい思いは、相手ではなく私たちを破滅に導きます。「苦々しい思いから解放して下さい」

Ⅱサムエル 16章

「たぶん、主は私の心をご覧になり、主は、きょうの彼ののろいに代えて、私にしあわせを報いてくださるだろう。」(12節)

 息子のアブシャロムの反乱に、王国を捨てて泣きながら逃げるダビデに、前の王のサウル家の一族の一人、シムイはののしります。榎本師はこんなことを言っています。「誤解や中傷は私たちの人生にはつきものである。それは決して特別なものではない。ところが私たちはこうした被害を受けるとき、なんとか早くそれが解消するようにとやっきになる。しかし、自分をのろう者を抹殺したからといって、それで問題が解決するわけのものではない。・・・神への信頼、神による勝利を確信する者だけが、耐えることができ、耐えることができる者だけが勝利にあずかることができるのである。」箴言にこう書いてあります。「悪いことをされても仕返ししてはいけません。神様が片をつけてくださるのを待ちなさい。」(箴言20:22LB)神様はすべてのこと、マイナスに見えることもプラスに代えてくださるお方です。(ローマ8:28参照)

Ⅱサムエル 15章

「この民がみな進んで行くとき、国中は大きな声をあげて泣いた。王はキデロン
川を渡り、この民もみな、荒野のほうへ渡って行った。」(23節)

 ダビデの息子、アブシャロムは人の心をつかむのが巧みでした。彼は、「王の
ところへ訴えを持ち込む人を見つけると、そのつど呼び止めて、さも関心がある
ように、訴えを聞くのです。」(2節LB)彼には下心がありました。彼はダビ
デに謀反を起こすためにしたのです。それで危険を感じたダビデは、泣きながら
キデロン川を渡って逃げました。キデロン川、それはエルサレムの汚物が流れて
いる濁流です。それは、困難と悲しみの川です。私たちの王、イエス・キリスト
もまた、同じようにその川を渡られました。スポルジョンはこう言っています。
「ダビデは一時卑しい身分に下ったが、やがて勝利を得て都に帰り、またダビデ
の主は勝利を得て墓からよみがえられた。だから私たちも勇気を奮い起こそうで
はないか。」
「主よ、元気を与えてください。」

Ⅱサムエル 14章

「私たちは、必ず死ぬ者です。私たちは地面にこぼれて、もう集めることのできない水のようなものです。神は死んだ者をよみがえらせてはくださいません。どうか追放されている者を追放されたままにしておかないように、ご計画をお立てください。」(14節)

  人間は死亡率100%です。その時が来たら、地面にこぼれた水のように、もう集めることはできません。この章に出てくる女性は、ダビデに、彼の息子に対する苦々しい思いを持ち続けることを警告しています。和解の機会を逃してしまう前に、和解の計画を立てるようにと。家族が別れ別れになってしまうのは悲しいことです。私たちは見知らぬ人より、愛する人に対して厳しい目で見やすい傾向があります。神様は私たちが神様に敵対していた時に、私たちにイエス・キリストを与えてくださり、追放されたままにしておかないように、赦しと和解のご計画をお立てくださいました。

Ⅱサムエル 13章

「アムノンには、ダビデの兄弟シムアの子でヨナダブという名の友人がいた。ヨナダブは非常に悪賢い男であった。」(3節)

アムノン王子の根本的な問題は、悪賢い友人の助言を求めたことでした。詩篇1篇1節には、「幸いなことよ。悪しき人々の助言を拒む人・・・」(英訳)と書いてあります。私たちは、悪賢い助言を拒む必要があります。誰の助言に耳を傾けるかが、私たちの人生を左右します。神様はおっしゃられます。「わたしは、あなたがたに悟りを与え、行くべき道を教えよう。わたしはあなたがたに目を留めて、助言を与えよう。」(詩篇32・8)私たちは、誰かではなく、神のみことば、聖書のみことばに耳を傾けていく必要があります。残念ながらアムノン王子が自分の悩みを神に祈り求め、神のことばを聞こうとしたという記事はありません。友人の言葉が、神の言葉より影響力があるならば気をつける必要があります。なぜなら、友人も人であり、神ではないからです。

Ⅱサムエル 12章

 「ダビデはナタンに言った。『私は主に対して罪を犯した。』ナタンはダビデに言った。『主もまた、あなたの罪を見過ごしてくださった。あなたは死なない。」(13節)

 罪は、当事者だけでなく、神に対して犯すものです。ダビデはそのことを認めて罪を告白し、赦しを体験しました。聖書は言います。「もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」(Ⅰヨハネ1:9)罪を認め、告白する人には赦しが与えられるというのは、キリストの十字架の故ですが、素晴らしい真理だと思います。罪の結果は当然残りますが、赦されます。ダビデの悔い改めの歌を味わいたいと思います。「神よ、わたしの内に清い心を創造し/新しく確かな霊を授けてください。御前からわたしを退けず/あなたの聖なる霊を取り上げないでください。御救いの喜びを再びわたしに味わわせ/自由の霊によって支えてください。」(詩篇51:12-:14新共同訳)

Ⅱサムエル 11章

「年が改まり、王たちが出陣するころ、ダビデは、ヨアブと自分の家来たちとイスラエルの全軍とを戦いに出した。彼らはアモン人を滅ぼし、ラバを包囲した。しかしダビデはエルサレムにとどまっていた。」(1節)

戦いがある時、ダビデはいつも自分が先頭に立って出て行きました。しかし今、彼は大成功を収め、自分が出て行く必要もないと、エルサレムに残りました。確かに、ダビデが行かなくても勝利を取ることは可能かもしれません、しかし神様はダビデに先頭に立って行くように王として召したのです。ところがダビデは自分がいなくても大丈夫と、神様の召しを軽視したため、この後大きな罪を犯してしまいます。自分がいなくても何とかなると、神様の働きに参加することを軽視してしまう時がもっとも危険な時です。神様はご自分の益のために召しているのではなく、私たちの益のために、神様の働きに参加するように招いているからです。

Ⅱサムエル 10章

「ヨアブは言った。『もし、アラムが私より強ければ、おまえが私を救ってくれ。もし、アモン人がおまえより強かったら、私がおまえを救いに行こう。強くあれ。われわれの民のため、われわれの神の町々のために全力を尽くそう。主はみこころにかなうことをされる。』」(11、12節)

 私たちの人生にはそれぞれ戦いがあります。聖書にも「人にはおのおの、負うべき自分自身の重荷があるのです。」(ガラテヤ6:5)とあります。しかし、一人では負いきれない戦いもあります。ヨアブは、そのような時は、「助けに来てくれ」と頼みました。また、逆の立場なら「助けに行く」と約束しました。これがクリスチャンの姿勢でもあります。聖書は言います。「互いの重荷を負い合い、そのようにしてキリストの律法を全うしなさい。」(ガラテヤ6:2)

「自分の重荷は自己責任として負いつつも、手に負えない時は、助け合うことができますように。」