Ⅰ列王記 20章

「主はこう仰せられる。『あなたはこのおびただしい大軍をみな見たか。見よ。わたしは、きょう、これをあなたの手に引き渡す。あなたは、わたしこそ主であることを知ろう。』」アハブが、「それはだれによってでしょうか。」と尋ねると、その預言者は言った。「主はこう仰せられる。『諸国の首長に属する若い者たちによって。』」アハブが、「だれが戦いをしかけるのでしょうか。」と尋ねると、「あなただ。」と答えた。」(13、14節)

 アハブはどうしようもない悪い王でした。しかし、神は、イスラエルの人々を救うためにアハブを用いると言われたのです。神の恵みの世界は私たちの理解をはるかに超えています。ふさわしくないアハブにもう一度チャンスを与えて、主こそ神であることを知らせるというのです。もしかしたらアハブは自分なんかを神は用いないと思って「だれが?」と尋ねたのかもしれません。しかし主は「あなただ。」と言われました。「すべての人が、まことの神を知ることができますように。」

Ⅰ列王記 19章

 「主は仰せられた。『外に出て、山の上で主の前に立て。』すると、そのとき、主が通り過ぎられ、主の前で、激しい大風が山々を裂き、岩々を砕いた。しかし、風の中に主はおられなかった。風のあとに地震が起こったが、地震の中にも主はおられなかった。地震のあとに火があったが、火の中にも主はおられなかった。火のあとに、かすかな細い声があった。」(11、12節)

 私たちは神は激しい大風の中など、超自然的な現象の中にいると思います。しかし、神はそのようなドラマティックな現象の中にいなかったと言います。「かすかな細い声」、「静かにささやく声」(新共同訳)で、神はエリヤに語られました。激しい大風や火の中で語られることを期待するがゆえに、聞くことができないということはないでしょうか。静まって、神の御声に耳を傾ける時間はとても大切です。超自然的に神が語られることを期待するよりも、静かに聖書を開き、今も、「静かにささやく声」で語りかける神の御言葉に心を向けましょう。

「聖霊なる神様、聖書の御言葉を通してお語りください。」

Ⅰ列王記 18章

「エリヤはカルメル山の頂上に登り、地にひざまずいて自分の顔をひざの間にうずめた。それから、彼は若い者に言った。『さあ、上って行って、海のほうを見てくれ。』若い者は上って、見て来て、『何もありません。』と言った。すると、エリヤが言った。『七たびくり返しなさい。』」(42、43節)

今日の箇所の出来事を、新約聖書のヤコブ書ではこう引用しています。「正しい人の熱心な祈りには、大きな力があり、驚くほどの効果があります。エリヤは、取り立てて、私たちと変わったところもない人でしたが、雨が降らないようにと祈ると熱心に祈りました。すると、三年半ものあいだい一滴も降りませんでした。そしてまた、雨が降るようにと祈ると、今度は滝のように降って、草木の緑も回復し、農作物も生き生きと生長するようになりました。」(5:16-18LB)何度祈っても、何も起こっていないと感じる時があると思います。エリヤの祈りは、あきらめずに熱心に祈り続ける人の姿です。必ず、小さな雲が水平線から上ってくる時が来ます。

Ⅰ列王記 17章

「エリヤを通して言われた主のことばのとおり、かめの粉は尽きず、つぼの油はなくならなかった。」(16節)

 飢饉の時、神はツァレファテに住むやもめに預言者エリヤを養うように導かれました。しかし、そのやもめも一握りの粉しか残っていませんでした。やもめの信仰は試されました。彼女は神のことばに従ってその最後の粉を預言者エリヤに捧げるように言われました。彼女は神のことばを信じてエリヤの言うとおりにしました。すると、「主がエリヤによって言われた言葉のように、かめの粉は尽きず、びんの油は絶えなかった。」(口語訳)神のことばは地に落ちることはありません。スポルジョン師はこう言います。「愛する友よ。あなたは日ごとに必要なものがある。それが豊かに与えられるので、いつかかめの粉がなくなるのではないか、つぼの油は尽きるのではないと恐れている。しかし心配してはならない。(中略)神の恵みとあわれみはあなたの必要の一切を満たす。」「愛の油を注ぎ続けられますように。」

Ⅰ列王記 16章

「彼がティルツァにいて、ティルツァの王の家のつかさアルツァの家で酒を飲んで酔っていたとき、彼の家来で、戦車隊の半分の長であるジムリが彼に謀反を企てた。」(9節)

 イスラエルの王エラは、酒を飲んで酔っていた時に、自分の家来に殺されてしまいました。ある人はこう言います。「人類の歴史では、戦争で殺された人よりも、泥酔(深酒)のゆえに殺された人の数の方が多い。」イエス様はおっしゃられました。「あなたがたの心が、放蕩や深酒やこの世の煩いのために沈み込んでいるところに、その日がわなのように、突然あなたがたに臨むことのないように、よく気をつけていなさい。」(ルカ21:34)また、聖書はこう言います。「酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。御霊に満たされなさい。」(エペソ5:18) 口語訳では「酒に酔ってはいけない。それは乱行のもとである。」新共同訳では「酒に酔いしれてはなりません。それは身を持ち崩すもとです。」と訳しています。

「あらゆる誘惑からお守り下さい。」

Ⅰ列王記 15章

「アサは主の宮の宝物倉と王宮の宝物倉とに残っていた銀と金をことごとく取って、自分の家来たちの手に渡した。アサ王は、彼らをダマスコに住んでいたアラムの王ヘズヨンの子タブリモンの子ベン・ハダデのもとに遣わして言わせた。」(18節)

 今日の箇所のアサ王の行動に関して、歴代誌第二の方で詳しく記されています。「そのとき、予見者ハナニがユダの王アサのもとに来て、彼に言った。『あなたはアラムの王に拠り頼み、あなたの神、主に拠り頼みませんでした。」(16:7)アサ王のそのような姿勢は、別の箇所にも見られます。「彼の病は重かった。ところが、その病の中でさえ、彼は主を求めることをしないで、逆に医者を求めた。」(Ⅱ歴代誌16:12)医者を求めること、他国に助けを求めること、そのものが悪いという意味ではないと思います。問題は、神に拠り頼もうとしなかったということです。神を認め、神に拠り頼み、神を求めているでしょうか。

「どんな時も、まず、神を拠り頼むことができますように。」

Ⅰ列王記 14章

「アヒヤは戸口にはいって来る彼女の足音を聞いて言った。『おはいりなさい。ヤロブアムの奥さん。なぜ、ほかの女のようなふりをしているのですか。私はあなたにきびしいことを伝えなければなりません。」(6節)

ヤロブアムは偽りの神を作り、イスラエルの人々にそれを礼拝するようにしむけました。しかし、いざ自分の子が病気になると、自分が作った偽りの神に助けを求めはしませんでした。彼は自分の妻を変装させて、まことの神の預言者アヒヤに助けを求めたのです。神様はそんなヤロブアムの姿勢をお見通しできびしいことを伝えます。神様はあわれみ深く恵み深い神様ですから、もしヤロブアムが本当に砕かれ、悔い改めて神様を求めて来たならば、対応が違っていたのではとも思います。しかし、彼は神様を心から求めませんでした。

「神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。」(詩51:17)

「主の前にへりくだります。」

Ⅰ列王記 13章

「彼はその人に言った。「私もあなたと同じく預言者です。御使いが主の命令を受けて、私に『その人をあなたの家に連れ帰り、パンを食べさせ、水を飲ませよ。』と言って命じました。」こうしてその人をだました。」(18節)

 「個人預言」に対しては最大限の注意を払う必要があります。どんな預言も吟味する必要があります。この箇所に出てくる若い預言者はその場所で食事をしてはいけないと神様から言われていました。ところが、年寄りの預言者がやってきて、神様が彼を連れ帰って食事をさせるように言われたというのです。結局この若い預言者は、年寄りの言葉を信じてしまい、自らの命を落としてしまいます。神様がそのように語ることが出来ないわけではありませんが、「主はこう言われる」という言葉には注意する必要があります。たとえ預言者と言われる人でも、聖書と矛盾する内容であれば信じてはいけません。

「預言ではなく、確かな神のみことばを求めることができますように。」

Ⅰ列王記 12章

「そこで、王は相談して、金の子牛を二つ造り、彼らに言った。『もう、エルサレムに上る必要はない。イスラエルよ。ここに、あなたをエジプトから連れ上ったあなたの神々がおられる。』」(28節)

ヤロブアム王はイスラエルの人々のために無理のない礼拝を作り出しました。エルサレムまで行って、主を礼拝するのは大変だし、大きな犠牲を払う行為だから、自分たちの近くに金の子牛の神々を作ったからこれらを礼拝すればいいと。無理のない礼拝、便宜のいい礼拝というのは神様が命じられていることよりも楽で、自我を否定する必要がないので、いつの時代でも人気があります。しかし、イエス様は言われました。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」(マルコ8:34)無理のない礼拝、便宜のいい礼拝は、結局は、人々を罠に陥れます。

「楽をすることではなく、いつもイエス・キリストを求めます。」

Ⅰ列王記 11章

「主はソロモンに怒りを発せられた。それは彼の心がイスラエルの神、主から移り変わったからである。主は二度も彼に現われ、このことについて、ほかの神々に従って行ってはならないと命じておられたのに、彼は主の命令を守らなかったからである。」(9、10節)

 最も賢い王であったはずのソロモン王は、最も愚かな王になってしまいました。彼は神様のみことばに耳を傾けなくなってしまい、すべての歯車が狂ってしまいました。彼はそんな彼の人生を振り返ったのか、晩年にこんなことを伝道者の書に書いています。「わたしの心は知恵と知識を深く見極めたが、熱心に求めて知ったことは、結局、知恵も知識も狂気であり愚かであるにすぎないということだ。これも風を追うようなことだと悟った。知恵が深まれば悩みも深まり/知識が増せば痛みも増す。」(1:16-:18新共同訳)

「結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。」(12:13)

「神のみことばに耳を傾けます。」