Ⅰ歴代誌 3章

 「ダビデはそこで七年六か月治め、エルサレムで三十三年治めた。」(4節)

  ダビデがしたことに関しては、後の章で詳しく出てはきますが、この章では、この一行にまとめられています。これは、私たちに対する警告にも受け取れます。私たちのこの世での歩みは一時的で、束の間にすぎないということです。「人生を導く五つの目的」(PDL)の中にこんなことが書いてあります。「神の目から見た信仰の偉大なる英雄とは、この人生において繁栄を誇り、成功を収め、権力の座に就いた人のことではなく、この人生を一時的なものと受けとめ、永遠において神が約束された報いを受け取ることを期待して、神に忠実に仕えた人のことなのです。」

「この地上における人生が一時的なものにすぎないという事実を受け止めて、今という時を、神の栄光のために生きることができますように。」

Ⅰ歴代誌 2章

「彼の嫁タマルは彼にペレツとゼラフとを産んだ。」(4節)

  聖書の中で、タマルの話はどちらかというと隠しておきたい内容だと思います。創世記38章にでてくるこの話は、ダビデ王の系図に傷をつけるような話に見えます。しかし、神の目は私たちとは違います。神はタマルの名前を抹殺するどころか、タマルをあわれみ、タマルの子孫を王家の系図に入れられました。神の目にはタマルも大事な存在だと言うのです。系図の興味深いところは、それぞれの名前の中に、数々のドラマがあるということだと思います。聖書に名前が記されていると言うことは、神は私たち一人一人に関心をもっておられ、私たち一人一人を名前でご存知だということでもあると思います。イエス様もある時こんなことを言いました。「彼は自分の羊をその名で呼んで連れ出します。」(ヨハネ10:3)

「主よ、あなたが私の名前も覚えておられることを感謝します。」

Ⅰ歴代誌 1章

「アダム、セツ、エノシュ、」(1節)

歴代誌第一の一章から九章までは、系図が記されています。この系図の驚く所
は、人間の祖先であるアダムからはじまることです。私たち人間のルーツは、結
局、アダムにあります。すべてはアダムからはじまりました。神はアダムを造
り、アダムを愛しました。しかしアダムは神を軽視し、神に背を向けてしまいま
した。そしてその罪が代々と受け継がれていくのです。ここに並べられた人名を
見るときに、神があきらめずに関わりつづけようとされていることに驚きを覚え
ます。こんなに沢山の世代の間、神は忍耐し、愛を与えつづけたのです。この系
図は、ダビデの時代で終わりますが、今も続いています。神の忍耐は尽きること
がありません。尽きるどころか、罪を赦すためにキリストを遣わしたところに、
私たちは驚くばかりの愛を感じます。
「神様、あなたの愛と忍耐を感謝します。」

Ⅱ列王記 25章

「彼の生活費は、その一生の間、日々の分をいつも王から支給されていた。」(30節)

 列王記の最後の章は、バビロン帝国によるエルサレムの包囲、陥落という悲劇が記されているのにも関わらず、最後の節は、何か希望を与えてくれます。ネブカデネザル王の死後、エビル・メロダク王は、ユダの王エホヤキンを牢獄から釈放し、親切にし、厚遇しました。「王は、エホヤキンが生きている間中、毎日の生活費を支給したのです。」(LB)榎本師はこの箇所に関してこんなコメントをしています。「私たちにとって大切なことは現実を正しく把握することと共に、現実を支配したもう神を見失わないことである。そのときヒステリックな悲観主義にも、無責任な楽観主義にもなることはない。現実をしっかりと受けとめながら、それがどうあろうとも、なおそこで希望をもって生きることができるのである。」エホヤキン王は、自分の愚かな行動を悔いて悲観的に過ごしていたのでしょうか?主は望みの神、必ず希望をくださいます。

Ⅱ列王記 24章

「彼は主の宮の財宝と王宮の財宝をことごとく運び出し、イスラエルの王ソロモンが造った主の本堂の中のすべての金の用具を断ち切った。主の告げられたとおりであった。」(13節)

バビロン帝国のネブカデネザル王によるバビロン捕囚のことがこの章に記されています。私たちの疑問の一つは、どうしてバビロンの軍勢は簡単に神の神殿を破壊することができたかということだと思います。エゼキエル書11章にその理由が記されています。「主の栄光はその町の真中から上って、町の東にある山の上にとどまった。」(23節)つまり、ユダの国の人々の罪のゆえに、神の臨在はすでに神殿から去っていたと。神の臨在を失った神殿には意味がありません。Ⅰコリント3章にはこう記されています。「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。」(16節新共同訳)教会が愛を失い、聖霊様が離れてしまうならば、もはや、何の意味もありません。

「聖霊様、歓迎します。」

Ⅱ列王記 23章

「王は主の宮へ上って行った。ユダのすべての人、エルサレムの住民のすべて、祭司と預言者、および、下の者も上の者も、すべての民が彼とともに行った。そこで彼は、主の宮で発見された契約の書のことばをみな、彼らに読み聞かせた。」(2節)

 ヨシヤ王は人々を集め、神のみことばを読み聞かせました。そして、このみことばの読み聞かせが、この章に出てきているヨシヤ王の宗教改革をもたらせました。神のみことばが人々をまことの礼拝へと導いたのです。神のみことばにはそのような力があります。神のみことばは私たちをまことの礼拝へと導いてくれます。聖書は言います。「信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。」(ローマ10:17)私たちは神のみことばである聖書のメッセージをまず聞く必要があります。信仰は、聞くことから始まります。

「主よ、お語りください。私たちに信仰をお与え下さい。」

Ⅱ列王記 22章

「彼は主の目にかなうことを行なって、先祖ダビデのすべての道に歩み、右にも左にもそれなかった。」(2節)

 ヨシヤは八歳で王になりました。彼の祖父のマナセは「主の目の前に悪を行なった」(21:2)王でした。父のアモンも、「主の目の前に悪を行なった」(21:20)王でした。しかし、ヨシヤは8歳と言う若さながら、主の目にかなうことを行ないました。箴言20:11に、こういう箇所があります。「幼子でさえ、何かするとき、その行ないが純粋なのかどうか、正しいのかどうかを明らかにする。」また、テモテの手紙第一には、こんな箇所もあります。「年が若いからといって、軽く見られてはいけません。かえって人々の模範になりなさい。」(4:12LB)神様は、幼子であっても、若者であっても主の前に誠実に生きようとする人を用いられるお方です。

「神様、ヨシヤやテモテのような若者たちが立ち上がっていきますように。」

Ⅱ列王記 21章

「また、自分の子どもに火の中をくぐらせ、卜占をし、まじないをし、霊媒や口寄せをして、主の目の前に悪を行ない、主の怒りを引き起こした。」(6節)

 ヒゼキヤ王の息子、マナセは、神様を捨てていわゆるオカルトに走ってしまいました。オカルトの問題は、まず、神様の怒りを引き起こすものであるということです。そして、それらは悪霊問題と関連し、人々を束縛していくということです。ですから、使徒の働きの中で、使徒パウロたちの伝道によって以下のような出来事が起こったことが記されています。「また魔術を行なっていた多くの者が、その書物をかかえて来て、みなの前で焼き捨てた。その値段を合計してみると、銀貨五万枚になった。」(使徒19:19)彼らは単に不要になったからそのようなオカルトの本を処分したのではなく、それらのものから解放されるためであったことは明らかです。

「堅く信仰に立って、この悪魔に立ち向かいなさい。」(Ⅰペテロ5:9)

Ⅱ列王記 20章

「引き返して、わたしの民の君主ヒゼキヤに告げよ。あなたの父ダビデの神、主は、こう仰せられる。『わたしはあなたの祈りを聞いた。あなたの涙も見た。見よ。わたしはあなたをいやす。三日目には、あなたは主の宮に上る。」(5節)

ヒゼキヤ王は重病でした。そんなヒゼキヤ王に神様は「あなたの家を整理せよ。」と言われました。この時、ヒゼキヤ王は39歳だったと言われています。彼は顔を壁に向けて祈りました。三節を見ると、彼は「大声で泣いた。」とあります。神様はそんな涙の祈りに答えられました。「わたしはあなたの祈りを聞いた。あなたの涙も見た。見よ。わたしはあなたをいやす。」神様は私たちの祈りを聞かれるお方です。私たちの涙を見られるお方です。ですから、イエス様はこの地上でこう祈られました。「キリストは、人としてこの世におられたとき、自分を死から救うことのできる方に向かって、大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ・・・。」(ヘブル5:7)

Ⅱ列王記 19章

「ヒゼキヤは、使者の手からその手紙を受け取り、それを読み、主の宮に上って行って、それを主の前に広げた。ヒゼキヤは主の前で祈って言った。『ケルビムの上に座しておられるイスラエルの神、主よ。ただ、あなただけが、地のすべての王国の神です。あなたが天と地を造られました。」(14、15節)

 エルサレムはアッシリヤの軍勢に囲まれ、ヒゼキヤ王は行き詰まっていました。彼らはヒゼキヤ王に言いました。「ユダの王ヒゼキヤにこう伝えよ。『おまえの信頼するおまえの神にごまかされるな。おまえは、エルサレムはアッシリヤの王の手に渡されないと言っている。おまえは、アッシリヤの王たちがすべての国々にしたこと、それらを絶滅させたことを聞いている。それでも、おまえは救い出されるというのか。」ヒゼキヤ王は、問題を神様の前に持っていきました。そして神様は、預言者イザヤを通して彼に語り、実際、彼らを守られました。聖書の神は今生きて働かれ、祈りに答えられます。