Ⅱ歴代誌 22章

「彼はアハブの家にならって主の目の前に悪を行なった。その父の死後、彼らが助言者となって、彼を滅びに至らせたのである。」(4節)

 

ヨラムの子、アハズヤが王になった時、聖書は彼のことをこう表現しています。「彼もまた、アハブの家の道に歩んだ。彼の母が彼の助言者で、悪を行なわせたからである。」(3節)もちろん、ここで問題にされているのは母親の助言ではなく、誰の助言を聞くかという問題です。誰かの助言が私たちの人生に大きな影響をもたらすからです。気をつけないと、滅びに至らせるような助言もあり得るからです。この世で一番確実な助言者は、不思議な助言者(イザヤ九・六)と呼ばれるイエス・キリストだけです。ですから、どんなに素晴らしいと思える人の助言も、イエス・キリストの言葉、聖書の言葉に照らして吟味する必要があります。誰の言葉も鵜呑みにせずに、聖霊なる神様の助けを求めて吟味することが大切です。

Ⅱ歴代誌 21章

「彼らの父は、彼らに銀、金、えりすぐりの品々など多くの賜わり物を与え、ま
た、それとともにユダにある防備の町々を与えたが、王国はヨラムに与えた。彼
は長男だったからである。ヨラムはその父の王国に立つと勢力を増し加え、その
兄弟たちをひとり残らず剣にかけて殺し、また、イスラエルのつかさたちのうち
幾人かを殺した。」(3,4節)

 ヨシャパテ王は、父親としてこの世的にはすばらしい遺産を子供たちに残した
はずでした。しかし、長男のヨラムは、神様に背を向け、自分の兄弟たちを殺し
てしまいます。その理由の一つとして、北イスラエル王国のアハブ王との関係が
あげられています。「アハブの娘が彼の妻であったからである。」(6節)アハ
ブ王は神の預言者を殺害し、バアル信仰をイスラエルの人々に強要した王です。
人はどうしても自分が時間を費やしている人の影響を受けます。神を捨て去った
ヨラム王は「人々に愛されることなく世を去った」(20節)ということを心に
留めたいと思います。

Ⅱ歴代誌 20章

「それから、彼は民と相談し、主に向かって歌う者たち、聖なる飾り物を着けて賛美する者たちを任命した。彼らが武装した者の前に出て行って、こう歌うためであった。『主に感謝せよ。その恵みはとこしえまで。』彼らが喜びの声、賛美の声をあげ始めたとき、主は伏兵を設けて、ユダに攻めて来たアモン人、モアブ人、セイル山の人々を襲わせたので、彼らは打ち負かされた。」(21、22節)

  私たちのこの世の常識では考えられないことがここに記されています。戦争で、兵隊の前に聖歌隊を歩かせるという戦略は聞いたことがありません。しかしこの戦略が、私たちが今、現実に直面している霊的な戦いの中では重要なことです。霊的な戦いの最前線は賛美です。私たちが賛美を神にささげる時、神の御手が動き、敵をけちらします。ですから、賛美はとても大事なのです。サタンは神への賛美を妨げようとします。ですから、賛美の歌声を神にささげ続けましょう。「主に感謝せよ。その恵みはとこしえまで。」

Ⅱ歴代誌 19章

「しかし、あなたには、良いことも幾つか見られます。あなたはこの地からアシェラ像を除き去り、心を定めて常に神を求めて来られました。」」(3節)

私たちは私たちのために十字架にかかり死んでくださったイエス・キリストを信じる信仰によってのみ救われるのであり、私たちのこの世での善行はそれに何も加えることはありません。しかし神は私たちの良いことを見られています。聖書にこうあります。「ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。」(Ⅰコリント15:58)「神は正しい方であって、あなたがたの行ないを忘れず、あなたがたがこれまで聖徒たちに仕え、また今も仕えて神の御名のために示したあの愛をお忘れにならないのです。」(ヘブル6:10)ですから聖書は言います。「だから、機会のあるごとに、だれに対しても、とくに信仰の仲間に対して、善を行おうではないか。」(ガラテヤ6:10口語訳)

Ⅱ歴代誌 18章

「すると、ミカヤは言った。「それゆえ主のことばを聞きなさい。私は主が御座に着き、天の万軍がその右左に立っているのを見ました。」(18節)

神様はミカヤが天上で起きている場面を見ることを許されました。神は御座に着き、多くの天使たちがその周りに立っていました。神はアハブ王をどのように倒すか提案を求めました。いくつかの案が出され、最後に一人の天使が出てきて、「偽りを言う霊となり」、アハブに助言を与える預言者を通して、彼を惑わすことを進言します。理解しづらい内容ですが、ヨブ記にも似たような場面があります。はっきりしていることは、神様が御座に座していて、何事も神様の許可なしには起きないということです。そして、神が許可される時、それは、意味があるということです。私たち人間にはすべてを理解することはできません。しかし、それでも神は神であり、御座に座しておられます。私たちはそれでもなお神様を信頼することが求められています。

Ⅱ歴代誌 17章

「彼らはユダで教えた。すなわち、主の律法の書を携えて行き、ユダのすべての町々を巡回して、民の間で教えた。」(9節)

 

ヨシャパテは、偶像を取り除いただけではなく、神のみことばを教えました。国中を巡回し、神の御言葉を人々に教えました。人々の信仰は、神のみことばの教えによって建て上げられていきました。教会の中心的な働きも、聖書のみことばを教えることです。パウロは若いテモテに言いました。「御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。とがめ、戒め、励ましなさい。忍耐強く、十分に教えるのです。だれも健全な教えを聞こうとしない時が来ます。そのとき、人々は自分に都合の良いことを聞こうと、好き勝手に教師たちを寄せ集め、真理から耳を背け、作り話の方にそれて行くようになります。」(Ⅱテモテ4:2-4新共同訳)教会は、聖書の教え、健全な教えを教え続ける必要があります。時が良くても悪くても、教え続ける必要があります。

「主よ、あなたの教会が、聖書の健全な教えを教え続けることができますように。」

Ⅱ歴代誌 16章

「主はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのです。」(9節)

  主は、今も、あまねく全地を見渡しておられます。主は、ご自身の力をこの地にあらわしたいと願われておられるのです。イエス様がこの地上におられた時に、たくさんの御業をなされたように、今も、私たちの世界に、ご自身の御業をなしたいと願っておられるのです。神様はなぜか、人を用いてご自身の力を現すことを選ばれます。ですから、心がご自分とまったく一つになっている人を探しているのです。神様と心を一つにするためには、へりくだって神のみことばを読む必要があります。神の心を、自分の心とするように、聖書を読む必要があります。

「主よ、少年サムエルのように、『しもべは聞きます。お話しください』(Ⅰサムエル3:10口語訳)と、いつも主のことばに耳を傾けられますように。」