ヨブ記 16章

「今でも天には、私の証人がおられます。私を保証してくださる方は高い所におられます。」(19節)

ヨブは、家族からも、友人からも理解されず、彼の唯一の希望は天にて自分をとりなしてくださる存在でした。

「その方が、人のために神にとりなしをしてくださいますように。人の子がその友のために。」(21節)

ヨブは、明確にその方を知らなかったので、彼の苦しみは大きかったのです。しかし、私たちは今、その方を知っています。聖書は言います。

「したがって、ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。」(ヘブル7:25)

私たちは、問題の中で、このお方に目を向けることができます。私たちはその方を知っています。十字架の上で、私たちと同じように神様に見捨てられたように感じる時を体験された神の御子が、私たちの思いを理解し、今日もとりなしてくださっているのです。

ヨブ記 15章

「実に、神を敬わない者の仲間には実りがない。」(34節)

ヨブ記、箴言、詩篇のヘブル語の頭文字を並べると、「真理」という意味のことばになります。それで、この三つの書を「真理の書」とも呼びます。箴言は、一般的な原則が記されていますが、ヨブ記はいわゆる例外が記されているのです。一般的な原則から考えれば、今日の箇所は「アーメン」と唱和できる内容だと思います。しかし、ヨブ記が教えていることは、例外もあるということです。ヨブは、神を敬う人だったのに災いが起きたのです。信仰者が苦しむのは、神を敬わない者たちが実りあるように見える時です。それにも関わらず、神を敬う自分にはそれが見えない時です。ここに、神様からの私たちに対するチャレンジが隠されています。それは、私たちの信仰の動機は何かということです。単なるご利益的な動機で神を信じているのか、それとも、神を神として信じているのか。

※ 本日より、アルファ・コースが開催されます。詳細は、教会までご連絡ください。

ヨブ記 14章

「人が死ぬと、生き返るでしょうか。」(14節)

  前の7節で、ヨブは、こう言います。

「木には望みがある。たとい切られても、また芽を出し、その若枝は絶えることがない。」

ヨブのポイントは、木には望みがあるのに、私たち人間にはないということでした。これが、旧約聖書の限界でもありました。復活の希望がなかったのです。ですから、イエス・キリストは十字架にかかり、死に、葬られ、死の力を打ち破って復活する必要がありました。「確かに希望がある。」と私たちに宣言する必要があったのです。この世がすべてではなく、確かに、この世の向こうに永遠の世界があることを現す必要があったのです。キリストにある私たちは今、ヨブの疑問に答えることができます。

「はい。生き返ります!」

 「よみがえられたイエス様、私たちも復活の希望でいつも満たしてください。」

ヨブ記 13章

「神があなたがたを調べても、大丈夫か。あなたがたは、人が人を欺くように、神を欺こうとするのか。」(9節)

ヨブの友人たちの問題は、自分を棚上げにして神の代弁者のようにヨブを有罪だと責めていたことでした。そんな友人たちに対してヨブは言います。

「神様は一度だって、あんたたちの言っているようなことを口になさらないのに、それでもなお、神の代弁者面をするつもりか。」(7節LB)

そしてヨブは、神を恐れていたら、こんなことができるはずがないと言います。私たちは、神の代弁者のように誰かを責める思いがあるならば、このヨブの言葉を心に留める必要があると思います。

「神があなたがたを調べても、大丈夫か。」

神は私たちに神を弁護して欲しいと願っているわけではありません。神が被告人で私たちが弁護者なのではなく、私たちの方が弁護者が必要なのです。神が願われているのは、私たちが弁護者になるのではなく、まことの弁護者、イエス・キリストを指し示すことです。

ヨブ記 12章

「知恵と力とは神とともにあり、思慮と英知も神のものだ。」(13節)

 メッセージという訳では、こう訳しています。

「真の知恵と本物の力は神のもの。神から私たちはどうやって生きるか、また、何のために生きるかを学ぶ。」

私たちは聖書を誤りなき神のことばであり、信仰と実践(生活)の唯一の規範だと信じています。私たちは聖書を学ぶ時、ここに真の知恵と本物の力があると信じています。聖書から、どうやって生きるか、何のために生きるかを学ぶことができると信じています。歴史の中に、賢人と呼ばれる人はたくさんいました。様々な学派が生まれては消えていきました。しかし、聖書は「神のことば」として、今も、昔も、これからも変わらずに語り続けています。賢い人たちが、自分が生きている時代の風潮に合わせて聖書を作り直そうとしても、神のことばは人の愚かさを超えて、その力を現されます。へりくだり、神のみことばに生きましょう。

ヨブ記 11章

「知れ。神はあなたのために、あなたの罪を忘れてくださることを。」(6節)

このすばらしいみことばの何が問題なのでしょうか。問題は、ツォファルが自分を棚上げにしてヨブを罪人扱いしたことでした。ヨブは、神が認める潔白な人だったのです。しかし、彼はヨブが何か悪いことをしなければ、こんなこと起こるはずがないと悔い改めを迫るのです。この世にはそのような考え方があります。不幸が起こるのは、何かしら理由があるから、高いお金を払って供養をしなければとか、修行をしなければとか、何かを買って償わなければいけないとか…。この世の新興宗教は、人間の弱みにつけこんできます。しかし、イエス・キリストは、言います。

「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現われるためです。」(ヨハネ9:3)

神はあなたを裁きたいのではなく、あなたを愛しています。

「一人でも、多くの人にイエス様を紹介することができますように。」

ヨブ記 10章

「私にかまわないでください。私はわずかでも明るくなりたいのです。」(20節)

苦しみの中にあるヨブの叫びに、共感できるものがたくさんあると思います。ヨブは、わずかでも明るくなるために、神様に「かまわないでください」と言いました。ヨブが心底、そう思ったかはわかりませんが、そう言いたくなった気持ちが分からないわけでもありません。問題の中で、人はどうして神から離れようとしてしまうのでしょうか?もちろん、人は誰もが神様を必要としています。それなのに何が私たちを神様から遠ざけてしまうのでしょうか。「結局、自分の力では神に認められない」と悟る時、「それならもういっそ、かまわないで欲しい」と開き直ってしまうからではないでしょうか。私たちはヨブとは違い、イエス・キリストの十字架を見上げることができます。イエス・キリストの十字架は私たちに、神は今も生きて働かれ、希望の朝、復活の日曜日が待っていることを示します。神様の介入を求めましょう。

ヨブ記 9章

「神は私のように人間ではないから、私は「さあ、さばきの座にいっしょに行こう。」と申し入れることはできない。私たちふたりの上に手を置く仲裁者が私たちの間にはいない。」(32,33節)

 ヨブの叫びは聞かれました。神のひとり子、イエス・キリストは人間になられました。そして、神と人間の仲裁者として十字架にかかられました。今、私たちには仲裁者が神と人間の間におられます。

「神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。キリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自身をお与えになりました。これが時至ってなされたあかしなのです。」(Ⅰテモテ2:5,6)

「キリストは永遠に存在されるのであって、変わることのない祭司の務めを持っておられます。したがって、ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。」(ヘブル7:24,25)

ヨブ記 8章

「ついには、神は笑いをあなたの口に満たし、喜びの叫びをあなたのくちびるに満たす。」(21節)

ビルダデのポイントは、神が正義を曲げることはないから、ヨブが潔白で正しければこんなことが起こるはずはなかったということです。それでビルダデは言います。

「もし、あなたが、熱心に神に求め、全能者にあわれみを請うなら、もし、あなたが純粋で正しいなら、まことに神は今すぐあなたのために起き上がり、あなたの義の住まいを回復される。」(5,6節)

ヨブ記の前提は、ヨブは潔白で正しいということです。ヨブは熱心に神に求めていた人です。ビルダデが言っていることが必ずしも間違っているわけではないと思いますが、的外れです。彼はヨブに言います。

「あんたも、いつか必ず笑顔を取り戻し、喜びの叫びをあげる日がくるさ。」(LB)

確かにヨブは笑顔を取り戻す時が来ます。今、大変なのは、裁きだとは限りません。しかし、神に信頼し続けるならば、必ず笑顔を取り戻す時が来ます。

ヨブ記 7章

「どうして、あなたは私のそむきの罪を赦さず、私の不義を除かれないのですか。」(21節)

  神様は、このヨブの疑問に答えてくださいました。イエス・キリストは、私たちのそむきの罪を赦すために、私たちの不義を除くために十字架にかかって死んでくださったのです。

「しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。」(イザヤ53:5)

  ヨブと私たちの違いは、ヨブが知らなかった十字架のキリストを私たちは見上げることができるということです。私たちのそむきの罪を赦すために、不義を除くために、あの苦難の道を歩まれたキリストを見上げることができるということです。

信仰の創始者であり完成者であるイエス・キリストから目を離さずに前進していくことができますように。