ヨブ記 6章

「まっすぐなことばはなんと痛いことか。あなたがたは何を責めたてているのか。」(25節)

  ヨブ記の大前提は、ヨブは神も認める正しい人であるということです。しかし、因果応報がしみついている友人は、何か悪い事をしたからヨブはこんな目にあっていると言うのです。こんな目にあっているのは、あなたが何か悪いことをしたからだと。これほど、この世で痛いことばはありません。多くの人々は、この人間の知恵に傷つけられています。こういう状況になったのは、自分の行いの何が悪かったからか?それとも、先祖が何か悪いことをしたのか?「それを償いなさい」ということばは、どれだけ多くの人を傷つけていることでしょう。すべての出来事の原因を自分のこととし、自分を責めている人がどんなに多いことでしょうか。ヨブ記が私たちに教えていることは、必ずしも、因果応報とは限らないということです。神はあなたを責めているのではなく、愛しています。

ヨブ記 5章

「さあ、私たちが調べ上げたことはこのとおりだ。これを聞き、あなた自身でこれを知れ。」(27節)

エリファズの問題の一つは、彼の語ることの土台は、彼自身にあるということです。彼の知恵、それが結局、ヨブを苦しめるのです。私たちは生きていく中で、自分なりの悟りを開いたりします。問題は、それらの知恵がかえって人を苦しめることもあるということです。エリファズの知恵に対して、ヨブは答えます。

「気落ちした友には、親切にすべきじゃないか。それなのに何だ。神様を少しも恐れず、わしを容赦なく責め立てるばかりじゃないか。」(6:14LB)

ですから、聖書は私たちに忠告します。

「思い上がって、自分の知恵をあてにしたりしてはいけません。むしろ、神様をたいせつにし信頼することで、悪の道から離れなさい。」(箴言3:7,8LB)

「何を言えばいいか、主よ、いつも教えてください。」

ヨブ記 4章

「あなたの望みはあなたの潔白な行ないではないか。」(6節)

  ヨブの友人、エリファズのことばに、私たちが学ぶべき間違った考え方がたくさん出てきます。彼は言います。

「さあ思い出せ。だれか罪がないのに滅びた者があるか。どこに正しい人で絶たれた者があるか。私の見るところでは、不幸を耕し、害毒を蒔く者が、それを刈り取るのだ。彼らは神のいぶきによって滅び、その怒りの息によって消えうせる。」(4:7-9)

エリファズのポイントは、

①神は全能で義なるお方。

②苦しみは人間の罪の結果。

③したがって、苦しみは罪の報い。

④ヨブが苦しんでいるのはヨブが罪人だから。彼が隠れた罪を告白したら、回復するはず。

しかし、ヨブ記の前提は、ヨブは正しい人であり、ヨブには問題がないということです。ヨブ記のテーマは「義人がどうして苦しむか?」ということなのです。エリファズの発言は、人間の知恵の限界を現します。

神は神であり、人は人です。

ヨブ記 2章

「ヨブはこのようになっても、罪を犯すようなことを口にしなかった。」(10節)

 ヨブ記のもう一つのテーマは、「正しく生きる動機は何か」ということです。サタンは、ご利益があるから人は正しく生きると挑戦します。財産も健康も失ったヨブに、ヨブの奥さんは言いました。

「それでもなお、あなたは自分の誠実を堅く保つのですか。神をのろって死になさい。」(9節)

しかしヨブは、妻をいさめ、罪を犯すようなことを口にしませんでした。彼の正しくあろうとした動機がご利益ではなかったからです。自分の人生の中で何か悪い事が起きた時、私たちは神を被告席に立たせ、いろいろと責めたてます。しかし、ヨブは違いました。すべてを神の御手にゆだね、神の主権を認めたのです。神が創造主であり主権者で、私たち人間は被造物であり、受け手側であることを認めたのです。私たちが誠実に信仰生活を守ろうとする動機は何でしょうか?神を神として認めているでしょうか?

ヨブ記 1章

「主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」(21節)

ヨブ記を理解する上で、前提となっていることが1節にあります。

「この人は潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっていた。」(1節)

ヨブは神さまも認める潔白で正しい人だったということを理解しなければヨブ記は分かりません。ヨブ記のテーマの一つは、

「正しい人がどうして苦しむことがあるのか」

ということだからです。悪い事をした人に災いが起こったとしても、私たちは悩むことはないと思います。しかし、正しく生きる人に災いが起きる時に、私たちは納得がいかなくなります。しかし、今日のヨブの発言は、私たちの心を揺さぶります。

「主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」

すべては主の御手にある。主が与えられなかったものなどこの世にない。そして、神への賛美へと変えます。

「いつでも、どんな時でも、神様の御名がたたえられますように」

ヨブの姿勢をもつことが出来ますように。

1月の日曜日 January Sundays

6日(日) ガラテヤ6:1-:5 「人それぞれのリュックサック」

小山英児牧師

9時(HC)、10時半(HC)、18時(HC) (HC)=聖餐式

13日(日) ガラテヤ6:6-:10 「善を行なうことのススメ」 

小山英児牧師

9時、10時半、18時

20日(日) ガラテヤ6:11-:18 「十字架を誇る」 

小山英児牧師

9時、10時半、18時

27日(日)  エペソ1:1-:3 「あらゆる祝福をもって祝福する神」 

小山英児牧師

9時、10時半 (18時からの礼拝は、町田の教会でもたれる合同聖会に合流。)

※  アルファ・コース参加者募集中!20日(日)より開講。

アルファ・コースは教会に行っていない人やクリスチャンになったばかりの人を対象にしたキリスト教信仰を分かりやすく紹介するキリスト教の主なグループ(カトリック、プロテスタント、正教会)で導入されているコースです。

エペソ 6章

「すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。」(18節)

パウロはこの世界には霊的な戦いがあることを述べ、すべての霊的な武具を身につけるように言います。そして、祈ることを強調します。私たちの祈りの姿勢が、私たちの信仰を表します。ここで命じられている祈りは、自己中心的な祈りとは違います。リビングバイブルではこう訳しています。

「どんなことでも、聖霊の考えにそって神にひたすら願い求めなさい。」

私たちは、神の御国(主権)がこの地上に現されることを祈り求めます。神のみこころが天の御国で行なわれているように、この地上でも行なわれることを祈り求めます。ですから、自己中心的な祈りではなく、神中心的な祈りなのです。自分のためだけではなく、「すべての聖徒のために」祈る祈りです。この年、「すべての聖徒のために」祈りましょう。

エペソ 5章

「詩と賛美と霊の歌とをもって、互いに語り、主に向かって、心から歌い、また賛美しなさい。」(19節)

賛美の歌を心から歌うことは、どうでもいいことではなく、聖書が命じていることです。「陶酔」という言葉によって、心から歌うことを妨げようとするサタンの巧妙な罠にはまらないように気をつける必要があります。知的に歌うことも大切ですが、「霊の歌」という表現もあるように、我を忘れて聖霊に導かれて歌うことも大事なことです。賛美をしなくなると、私たちの口は不平と不満ばかりが出てきます。昔も今も変わりません。賛美を妨げる人々の間でなされていたのは下品なものでした。ですから、パウロは言います。

「また、みだらなことや、愚かな話や、下品な冗談を避けなさい。そのようなことは良くないことです。むしろ、感謝しなさい。」(4節)

賛美と感謝にいつも口が占領されているならば、下品なことを口にすることもなくなります。この年、賛美がいつも口にありますように。

エペソ 4章

「お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。」(32節)

 「親切」は聖書的には大切な美徳の一つです。なぜならば、「親切」は神の性質の一つだからです。イエス様はこのように表現しました。

「あなたがたの天の父があわれみ深いように、あなたがたも、あわれみ深くしなさい。」(ルカ6:36)

聖霊なる神様を心に宿しているのであるのならば、神様のご性質の影響を受けるはずで、その本質的な要素の中に「親切」と「赦し」があるということです。しかし、残念ながら、「お互いに親切にする」、「互いに赦し合う」ということが、本質的な要素の一つであることを忘れてしまうことが多いのではないでしょうか。一年のはじまりにあたって、イエス・キリストの十字架の意味を今一度噛み締め、お互いに親切にする」、「互いに赦し合う」ことの大切さを心に留めたいと思います。

エペソ 3章

「どうか、私たちのうちに働く力によって、私たちの願うところ、思うところのすべてを越えて豊かに施すことのできる方に、教会により、またキリスト・イエスにより、栄光が、世々にわたって、とこしえまでありますように。アーメン。」(20,21節)

聖霊なる神様の働きは、私たちの願うところ、思うところのすべてを越えて豊かに施すことができる働きです。神様に不可能なことはありません。ですから、大胆に恵みの御座に出てくるように、神様はおっしゃられます。神様の働きは、私たちの乏しい想像力を超えています。私たちの願いに限定されることはありません。しかし、同時に、その力は、私たちの祈りを通して解き放たれます。「どうか」という祈りのことばでこの箇所が始まっていることを私たちは忘れるべきではありません。祈りは無限の可能性を開くという聖書の主張を、この年、体験することができますように。