ピリピ 1章

「イエス・キリストによって与えられる義の実に満たされている者となり、神の御栄えと誉れが現わされますように。」(11節)

  イエス・キリストとの関係を通して「義の実」が与えられると言います。ここでの「義の実」とは、キリストとの関係を通して築かれていく「正しい生き方」のことです。カルヴァンはこのように言っています。

「このような実は、キリストの恵みから生じているがゆえに、イエス・キリストによるものであるとパウロは言う。というのは、われわれはキリストの霊によって潔められるまでは、決して善行を始めないからである。」

私たちが失望せず、あきらめずに善を行い続けることができるとするならば、それは、聖霊なる神様の働きだと言うのです。リビングバイブルでは、このように訳しています。

「どうか、神の子どもにふさわしく、親切な良い行いができますように。」

イエス・キリストとの関係によって、私たちは正しい生き方に満ち溢れます。

ヨブ記 42章

「私はあなたのうわさを耳で聞いていました。しかし、今、この目であなたを見ました。それで私は自分をさげすみ、ちりと灰の中で悔い改めます。」(5,6節)

ヨブは、単なる耳学問ではなく、神を現実として体験しました。ヨブの苦難に対する神からの答えはありませんでしたが、ヨブは満足しました。知性偏重主義の社会に聖書は挑戦します。人は知性以上の存在であり、神を体験することが大切であると。ここで「悔い改め」と訳された言語は、一般的に「悔い改め」と訳す言葉とは違う言葉が使われています。罪を悔い改めるという意味ではないので、岩波訳では、「考え直します」と訳しています。ヨブは罪人だったという意味ではありません。「義人が苦しむことがある」ということがヨブ記のテーマだからです。しかし、その苦難は祝福のはじまりでもありました。聖書は言います。

「主はヨブの前の半生よりあとの半生をもっと祝福された。」(12節)

マイナスは必ずプラスになります。

ヨブ記 41章

「あなたは釣り針でレビヤタンを釣り上げることができるか。輪繩でその舌を押えつけることができるか。」(1節)

レビヤタンが何であるか、今もよく分かっていません。学者によっては竜(ドラゴン)だと主張します。恐竜と考える学者もいます。分かっていることは、神様以外にはコントロールできない海の怪物であるということです。二一世紀に入り、どんなに衛星写真が発達しても、人類は地球上の生命体のすべてを把握しているわけではありません。未知なる世界は今も存在していることを忘れてはいけないと思います。人類は神ではありませんし、永遠に神になることはできません。知らないことを知り、謙遜になることが大切です。ここでのレビヤタンは、破壊的力の象徴でもあると考えられますが、それさえも神の管理下にあると言う事実を、心にとめることも大事だと思います。

「王の王、主の主なる偉大なる神様、あなたの力と主権を認めます。あなたをあがめ、たたえます。」

ヨブ記 40章

「非難する者が全能者と争おうとするのか。神を責める者は、それを言いたててみよ。」(2節)

ヨブの苦難の問題は、いつのまにかに神ご自身が問題と変化していました。ヨブは神がなされていることに、口を挟んでしまったのです。神の質問に対し、ヨブは、自分の知識がいかに限定的であったかに気づかされ、しゃべりすぎたことを恥じ、沈黙します。そんなヨブの姿に私たちは自分を重ね合わせることができると思います。全能者の神に、あたかも自分の方が賢いかのごとく、指図していることがあるのではないでしょうか?神様よりも自分のほうがよく分かっているかのごとく、神様を教えようとしていることがあるのではないでしょうか?ヨブの反応が、神への私たちの反応となりますように。

「ああ、私はつまらない者です。あなたに何と口答えできましょう。私はただ手を口に当てるばかりです。一度、私は語りましたが、もう口答えしません。二度と、私はくり返しません。」(4、5節)

ヨブ記 39章

「あなたは岩間の野やぎが子を産む時を知っているか。雌鹿が子を産むのを見守ったことがあるか。」(1節)

この地上において、知恵は教えます。

「正しい者は健康で繁栄する。だから、正しく生きよう。」

その「知恵」自体が間違っているとは、言いません。問題は、例外があるということです。どんなに正しく生きていても、健康を損なうこともあれば、繁栄しないこともあります。それは、「人間の知恵」を超えた「神の摂理」の中にあります。神様はそのことをヨブに教えるために、自然現象における創造の不思議、動物の世界における不思議を、この章で取り上げます。これらの質問は、ヨブの質問に直接は答えません。「義人がどうして苦しむのか?」という疑問は答えられません。因果応報を否定しているわけでもありません。訓練としての試練、適格者となるための試練を否定しているわけでもありません。神様はただ、神の摂理の大きさに目を向けるように言います。

ヨブ記 37章

「これに耳を傾けよ。ヨブ。神の奇しいみわざを、じっと考えよ。」(14節)

ヨブは三人の友人との対話の中で、自分のことでいっぱいになっていたのだと思います。「因果応報」を絶対視する友人たちは、ヨブに非を認めさせようとしました。しかし、ヨブはそのことに疑問を呈し、「自分の何が悪かったのか?」と神様に訴えます。しかし、そんなヨブの視点を変えるようにエリフは訴えます。

「神様が嵐を起こすのは懲らしめのため、また、いつしみで人々を元気づけるためだ。」(13節LB)

神の知恵を人は理解することはできません。エリフはヨブに、人間のはかない知恵で悟りを開こうとすることをやめて、神様の素晴らしい御業を考えるように勧めたのです。私たちは自分を主体として世界を考えることをやめて、神様を主体として、神様の御業を考える必要があります。「わたしが」ではなく、「神が」何をしてくださったか、十字架の御業を、じっと考えることが大切です。

ヨブ記 36章

「見よ。神はいと高く、私たちには知ることができない。その年の数も測り知ることができない。」(26節)

 「義人がどうして苦しむのか」というテーマに関して、エリフは新しい観点を提供します。

「神様は悩んでいる者を救い出す!人は苦しむと、神様のことばを聞くようになる!」(15節LB)

残念ながら、人は、問題にぶつからないと神様に耳を傾けない傾向があります。もっとも、

「心で神を敬わない者は、怒りをたくわえ、神が彼らを縛るとき、彼らは助けを求めて叫ばない。」(13節)とも言います。

苦難というのは、私たちが何か悪いことをしたからではなく、神様に叫ぶためにあるというのがエリフの主張です。神は私たちの苦難を用いて、私たちを訓練すると。そしてエリフは言います。

「神様はあまりにも大きいので、神様を知る手がかりさえつかめない。」(LB)

そもそも、神様を人間の知識の箱の中に収めることなどできません。キリストにあって、神を神として認めることが大切です。

ヨブ記 35章

「人々は、多くのしいたげのために泣き叫び、力ある者の腕のために助けを叫び求める。しかし、だれも問わない。「私の造り主である神はどこにおられるか。夜には、ほめ歌を与え、地の獣よりも、むしろ、私たちに教え、空の鳥よりも、むしろ、私たちに知恵を授けてくださる方は。」と。」(9‐11節)

   「困った時の神頼み」と言うように、私たち人間は、困った時に神様に助けを叫び求めます。しかし、創造主なる神様ご自身を求めるということは、なかなかしません。神様に対していろいろと不平や不満を言っても、神様を神様として求めることをなかなかしない傾向があります。疑問をぶつける前に、助けを求める前に、エリフは言います。

「あなたは神を待て」(14節)

「神」とは、天地万物を造られ、すべてを治めておられるお方です。夜には歌を与え、私たちに知恵を与えてくださるお方です。このお方を知りたいという思いがまず大事ということだと思います。

ヨブ記 34章

「神は決して悪を行なわない。全能者は公義を曲げない。」(12節)

 エリフも三人の友人たちと似たようなことを言っているように感じますが、少し違うところがあります。エリフが問題にしているのは、「因果応報」という法則のことではなくて、ヨブが神よりも自分を義としているという問題です。問題の中にあっても、私たちが見失ってはいけないことは、それでもなお神は悪を行なわないお方であるということです。私たちが理解できない状態でも、神は公義を曲げない方であり、最善をなされるお方であるということを捨ててはいけないのです。知らないこと、理解できないことのゆえに、知っていることを捨てるべきではありません。分からないときほど、分かることに焦点を置くべきです。

「神様は絶対に悪を行わず、正義を曲げないということほど確かなことが、あるだろうか。」(LB)

「神が光の中であなたに語られたことを闇の中で疑ってはならない」(ニッキー・ガンベル)

ヨブ記 33章

「神はある方法で語られ、また、ほかの方法で語られるが、人はそれに気づかない。」(14節)

  簡単に言うと、神の方法は私たち人間には分からないということです。イザヤ書でも、神様がはっきりとおっしゃっています。

「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ。――主の御告げ。――天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。」(55:8,9)

 ヨブは、「因果応報」という発想から解放される必要がありました。エリフは、前の三人とは違って、痛みにも意味があるかもしれないことをヨブに伝えます。苦しみがもたらすものとして、26節で彼はこう言います。

「彼が神に祈ると、彼は受け入れられる。彼は喜びをもって御顔を見、神はその人に彼の義を報いてくださる。」

「なぜ?」と答えが得られない質問を繰り返すのではなく、「神に祈るべきだ」と彼は言うのです。