詩篇 29篇

「主は、ご自身の民に力をお与えになる。主は、平安をもって、ご自身の民を祝福される。」(11節)

神様は、私たちに力を与え、平安をもって祝福してくださるお方だと言います。「平安」と訳されたことばは、「シャローム」です。平和、平安という意味もありますが、「健全」とか「繁栄」という意味もあります。この29篇に出てくる様々な表現はもともと、約束の地の先住民だったカナン人の神、バアル神に用いられていたものだと言われています。それを、まことの神である主に代えて、本当に力あるのはバアルではなく、主だとしたと言われます。

救世軍の創始者、ウィリアム・ブースは、「どうして悪魔が全部いい音楽をもっているんだ」と言って、当時のポピュラー音楽を、神様を礼拝する音楽に変えたのは有名な話です。聖歌の旋律の多くは、当時のポピュラー音楽を取り入れたものでした。この世しか見えない人々に、その上に座す、主を指し示すことができますように。

詩篇 28篇

「私の願いの声を聞いてください。私があなたに助けを叫び求めるとき。私の手をあなたの聖所の奥に向けて上げるとき。」(2節)

「手を上げる」というのは、そもそも祈りの方法でした。Ⅰテモテ2:8に、こうあります。

「男は、怒ったり言い争ったりすることなく、どこででもきよい手を上げて祈るようにしなさい。」

初期の教会の絵を見ても、祈りの絵は手を上げています。私たちが今、「手を上げる」ことと連想することは、「手を上げろ!」という「降参」のポーズだと思います。まさに、神様の前に降参して、「私はあなたが必要です!」ということが、この手を上げる意味でもあると思います。「祈りのないリバイバルはない」と言われます。「神様、あなたが必要です」と叫び求めて、手を上げる人々の上に、神様は臨まれるからです。神様は、私たちの祈りを聞かれるお方です。神様に祈るならば、希望があります。

詩篇 27篇

「「待ち望め。主を。雄々しくあれ。心を強くせよ。待ち望め。主を。」(14節)

13節にこうあります。

「生ける者の地で、主が良きにしてくださることを見るということを信じられなかったら、私は心を失っていただろう(落ち込んでいただろう)。」(NKJV)

「生ける者の地で」は、この世での人生においてということです。天国に行けるだけでも、十分な話ですが、神様は、今、この時、私たちが生きているこの地上においても、私たちに関わり、最善をなそうとされているという現実を信じることは、日々の生活に大きな影響を与えます。神様は私たちに、信じるか信じないかは、私たちの選択だと言います。そして、信じることを選ばなければ、私たちは落ち込んでしまうと警告します。ダビデは私たちに信じることを訴えます。

「いらだってはいけません。主を待ち望みなさい。主は必ずおいでになって、あなたを救ってくださいます。勇気を出しなさい。神様を待ち望みなさい。主はきっと救ってくださいます。」(14節LB)

詩篇 26篇

「私を弁護してください。主よ。私が誠実に歩み、よろめくことなく、主に信頼したことを。」(1節)

「私を弁護してください」と訳された言葉は、本来は「裁き」を意味する言葉が使われています。ですから、口語訳ではこう訳しています。「主よ、わたしをさばいてください。」この姿勢は大事だと思います。私たちは「他の人をさばいてください」と祈ることがあるかもしれませんが「わたしをさばいてください」と祈ることはないと思います。聖書は他者を裁くことを厳しく戒めています。

「あなたがたの天の父があわれみ深いように、あなたがたも、あわれみ深くしなさい。さばいてはいけません。そうすれば、自分もさばかれません。人を罪に定めてはいけません。そうすれば、自分も罪に定められません。赦しなさい。そうすれば、自分も赦されます。」(ルカ6:36,37)

指を差すと三本の指は自分に向いていることを心に留めたいと思います。自分を裁いていただく時、ただ神の恵みによって、今があることを認めざるを得ません。

詩篇 25篇

「主は貧しい者を公義に導き、貧しい者にご自身の道を教えられる。」(9節)

 「貧しい者」というのは、文字通り、経済的なものとしてだけとらえてしまいますと、神様が本当の意味で語ろうとしている意味を失ってしまうと思います。聖書が言いたいのは、神様に望みを置く以外、どうしようもない状況にある人と言う意味です。「神様がどうしても必要」という人に、神様がご自身の道を教え、導いてくださるということです。アルゼンチンで起きたリバイバルはいい例だと思います。インフレでお金の価値がなくなり、人々は銀行に信頼することもできなくなりました。仕事もなくなり、企業にも、信頼することはできなくなりました。汚職ばかりで政治にも信頼することができなくなりました。ただ、神様に求める以外どうしようもないという状況の中で、アルゼンチンにリバイバルが起きたのです。神様は、「神様に求める以外どうしようもない」という飢え乾きがあるところに臨んでくださいます。

詩篇 24篇

「門よ。おまえたちのかしらを上げよ。永遠の戸よ。上がれ。栄光の王がはいって来られる。」(9節)

  ダビデは、神の臨在を象徴する契約の箱が、エルサレム神殿に入ってくることを意識して、この詩を書いたと思われます。しかし、これはまた預言的な意味を含んでいると思われます。イエス・キリストがロバの子に乗ってエルサレムに入城されたことを、預言していたのだと思われます。さらに、聖書の一番最後のところで、イエス・キリストはこう言われました。

「しかり。わたしはすぐに来る。」(黙示録22:20)

イエス・キリストは再び、この地に来られると約束されました。メッセージという訳では今日の箇所をこう訳しています。

「目を覚ませ、寝ぼけている町よ。目を覚ませ、寝ぼけている人々よ。栄光の王が入ってくる準備は整った。」

その日は遠くはありません。

「主よ、いつ、あなたが戻って来られてもいいように、いい緊張感をもって過ごせますように。」

詩篇 23篇

「主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。」(1節)

 誰が自分の人生の羊飼いであるかはとても重要なことです。キリストは言いました。

「わたしの羊はわたしの声を聞き分けます。またわたしは彼らを知っています。そして彼らはわたしについて来ます。」(ヨハネ10:27)

私たちが、日々の生活の中で優先的に耳を傾け、その後についていっている存在が私たちの人生の羊飼いです。それは、人とは限りません。ある種の哲学や思想、また、富や名誉などの可能性もあると思います。しかし、キリストは言いました。

「わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。」(ヨハネ10:14新共同訳)

イエス・キリストが自分の羊飼いであるならば、乏しいことはありません。なぜなら、キリストは私たちのことをすべてご存知な上で導いてくださっているからです。

「主よ、いつもあなたに耳を傾け、ついていけますように。」

詩篇 22篇

「わが神、わが神。どうして、私をお見捨てになったのですか。遠く離れて私をお救いにならないのですか。私のうめきのことばにも。」(1節)

 詩人の体験からも神の不在を感じることは、一般的なことであることを私たちは学びます。信じていても見捨てられたように感じることがあります。賛美を捧げていても疑いをもってしまうことがあります。聖書を読んでいても、暗闇を感じてしまうことがあります。実際、イエス・キリストが十字架における救いの御業を成し遂げる時に、この詩人と同じ祈りを捧げました。そして、キリストがこの箇所を口にされたことを通して、私たちは今、不在と感じるその所に、神は確かに存在され、神の御業が確かに成し遂げられていることを知ることができます。逆境は、神が私たちを見捨てられたということではなく、このことを通して神の栄光が現わされるということです。

「主よ、あなたの栄光が現わされますように。」

詩篇 21篇

「主よ。御力のゆえに、あなたがあがめられますように。私たちは歌い、あなたの威力をほめ歌います。」(13節)

 私たちの信じている神様は、力ある神様です。死の力を打ち破るほどの力あるお方です。LBでは、こう訳しています。

「私たちは、向かうところ敵なしの主を記念して、歌を書きとどめます。」

このお方に頼りきっている人は、どんなに幸いなことでしょうか。7節にこうあります。

「王は主により頼んでいるので、つまずいたり倒れたりすることは絶対にありません。あらゆる神々にまさる神様の不変の愛に、頼りきっているからです。」(LB)

永遠に変わることがない、神様の愛を信頼し、力ある主により頼んでいきましょう。

 「力ある主よ、あなたの勝利が私の人生にますます見ることができますように。あなたの永遠に変わることのない愛に、私は身を委ねます。」

詩篇 19篇

「主のみおしえは完全で、たましいを生き返らせ、主のあかしは確かで、わきまえのない者を賢くする。主の戒めは正しくて、人の心を喜ばせ、主の仰せはきよくて、人の目を明るくする。」(7,8節)

「みことば」の同義語がここで並べられています。聖書のみことばは、「完全」であり、「たましいを生き返らせ」、「確か」で、私たちを「賢く」します。みことばは「正しく」、「人の心を喜ばせ」、「きよく」、「人の目を明るく」します。ただ、神のみことばだけを聴いて、みことばにどっぷり浸かることによって文字通りたましいを生き返らされたという人がいます。この方は今、牧師をしています。聖書のみことばには、私たちが想像する以上に生きていて力があります。なぜならば、今生きておられる神のみことばだからです。

「主よ、あなたのみことばを与えてください。私たちの心を回復してください。」