詩篇 57篇

「私はいと高き方、神に呼ばわります。私のために、すべてを成し遂げてくださる神に。」(2節)

 誰に呼び求めるかはとても大事なことです。私たちが呼び求めるお方は、いと高き方、神です。力ある偉大なる創造主なるお方です。「光あれ」と言われ、光を創造されたお方です。このお方はまた、キリストを信じる私たちに関わってくださり、私たちのためにすべてを成し遂げてくださるお方です。聖書は言います。

「あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています。」(ピリピ1:6新共同訳)

つまり神は、私たちに成し遂げるために必要なすべても備えてくださっているということです。ですから、この神を信頼して、呼び求めていきましょう。

 

「主よ、あなたの御名を呼び求めます。どうぞ、私のために、成し遂げてくださいますように。」

詩篇 56篇

「神にあって、私はみことばを、ほめたたえます。私は神に信頼し、何も恐れません。肉なる者が、私に何をなしえましょう。」(4節)

 「みことばを、ほめたたえます。」というのは、聖書が礼拝の対象という意味ではなく、聖書のみことば、特に神の約束のゆえに、神様をほめたたえるという意味です。私たちの信仰の土台は、聖書のみことば、神の約束です。感情ではなく、聖書のみことばが何と言っているかを優先させます。「肉なる者」という日本語は一般的ではありませんが、人のはかなさを象徴しています。預言者イザヤは、こう表現しています。

「すべての人(肉なる者)は草、その栄光は、みな野の花のようだ。主のいぶきがその上に吹くと、草は枯れ、花はしぼむ。まことに、民は草だ。」(イザヤ40:6,7)

ダビデは大変な状況、大変な問題に著面してきましたが、この視点をもっていたので、乗り越えることができたのだと思います。「どんな時も神を信頼し、神のみことばを優先できますように。」

詩篇 54篇

「まことに、神は私を助ける方、主は私のいのちをささえる方です。」(4節)

どんな時でも、どんな状況でも、神様が自分を助ける方であることを告白することは大切なことです。「まことに」と訳された言葉は、一般的に「見よ」と訳される言葉です。聖書は、問題に目を向けるのではなく、私たちを助け、支えてくださる神様を見るように訴えます。神様に目を向けることができるのならば、最後には、詩人と共に賛美することができます。

「わたしは今、神を礼拝する準備ができています。とても準備ができています。神様、ありがとう。あなたはとても良いお方です。」(6節MSG)

神様に目を向ける時、私たちの嘆きは確信に変わります。私たちは孤軍奮闘しているわけではありません。神様を見上げるならば、神様が私たちと共におられ、私たちを助け、支えてくださっていることを知ることができます。

「主よ、あなたが私を助け、支えてくださっていることを感謝します。」

詩篇 53篇

「愚か者は心の中で「神はいない。」と言っている。彼らは腐っており、忌まわしい不正を行なっている。善を行なう者はいない。」(1節)

聖書は、一部だけでなく、全体の文脈を通して読み必要があります。今日の箇所に「神はいない」という言葉が出てきますが、前後関係を見れば分かるように、それは、愚かな者が言うことです。実際、「無神論者」になるのには、相当な信仰が必要です。それこそ、ゴミの山からロボットが突然生まれてくることを信じられるほどの信仰が必要です。考える必要があることは、神を否定したからといって、問題が解決するわけではないということです。多くの場合、「神を信じない」という人の神観は、聖書の神観とはまったく異なります。「あなたが信じない「神」とは、どういう「神」ですか」と尋ねたなら、私たちも信じていない「神」であることが多々あります。聖書の神は、この天地万物を創造し、統べ治められ、私たちを愛される三位一体なる神です。

詩篇 52篇

「なぜ、おまえは悪を誇るのか。勇士よ。神の恵みは、いつも、あるのだ。」(1節)

私たちはこの世の悪に心を痛めます。悪が勝ち誇っているのを見ると、真面目に生きることが馬鹿らしく思えてしまいます。しかし、神の恵み、真実、あわれみは、いつもあるということに気づく必要があります。この詩の表題はこのようになっています。

「エドム人ドエグがサウルのもとに来て、彼に告げて「ダビデがアヒメレクの家に来た。」と言ったときに」。

ダビデは、サウル王から命を狙われていました。アヒメレクの所に逃げたことを、ドエグが密告しました。ダビデは、「安全な場所はどこにもない、誰も信頼することができない」という気持ちになっていたと思います。そんな中で、ダビデは歌います。

「私は、世々限りなく、神の恵みに拠り頼む。」

確かに、「神の恵み」があるように思える状況にはないかもしれません。しかし、それでもなお、「神の恵みは、いつも、あるのだ」と信仰の宣言をしていくことが大切なのだと思います。

詩篇 51篇

「あなたの救いの喜びを、私に返し、喜んで仕える霊が、私をささえますように。」(12節)

「喜び」はクリスチャン生活のしるしの一つです。「ハッピー」とは違います。「ハッピー」は、自分が直面する状況に左右されます。しかし「喜び」は、神との関係がもたらせるものです。状況に左右されることはありません。ダビデが罪を犯した時、彼は救いの喜びを失いました。罪は神との関係を壊すからです。ダビデは神の臨在を感じることができなくなりました。罪は喜びを奪います。しかし、希望はあります。

「もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」(Ⅰヨハネ1:9)

罪を悔い改め、神に立ち返る時、神は救いの喜びを回復してくださいます。「喜んで仕える霊」とは、自発的に神に仕える思いということです。神は私たちを喜びで満たし、神の働きに自発的に加わって欲しいと願われています。

詩篇 50篇

「感謝のいけにえを神にささげよ。」(14節)

神様は感謝のいけにえを待っています。

「わたしが欲しいのは、真心からの感謝です。」(LB)

と神は言われます。一八九〇年、アメリカのミシガン湖で、遊覧船が沈没する事故がありました。当時、大学の水泳選手だったスペンサーは、全力で十七人のいのちを救い出しました。長い年月が過ぎたある日、その出来事をトーレー博士が伝道集会でメッセージしました。すると、そこに老人になったスペンサーがいました。説教の後、トーレー博士がスペンサーに尋ねました。「当時、いのちを救われた十七人のうち、何人が感謝を表しましたか。」スペンサーは、

詩篇 49篇

「しかし神は私のたましいをよみの手から買い戻される。神が私を受け入れてくださるからだ。」(15節)

この世の人生が終わる時、イエス・キリストの十字架の贖いの御業のゆえに、神は私を受け入れてくださいます。

「たましいは余りにも高価なので、この世の富をいくら積んでも買い戻せません。」(8節LB)

しかし、キリストは私たちの身代わりとなって十字架にかかられ、「完済した!」とおっしゃられました。ですから、キリストを信じるだけで受け入れられます。その日、神が臨在の中に私たちを受け入れ、

「よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。」(マタイ25:21)

と言ってくださる希望があります。私たちは、他者から受け入れていただけるように努力して一生を終らせることができます。または、神に受け入れていただけることを知り、感謝をもって神に一生仕えていくこともできます。

詩篇 47篇

「まことに神は全地の王。巧みな歌でほめ歌を歌え。」(7節)

イスラエルの神は、全地の王であると言います。王が意味することは、次の節にあるように、「神は国々を統べ治めておられる。」ということです。イスラエルの人々は、自己中心的な統治者たちに疲れ果てていました。イスラエルの人々の願いは、神(ヤハウェ)ご自身が統べ治めること、王となられることでした。イザヤ書にこういう箇所があります。

「良い知らせを伝える者の足は山々の上にあって、なんと美しいことよ。平和を告げ知らせ、幸いな良い知らせを伝え、救いを告げ知らせ、「あなたの神が王となる。」とシオンに言う者の足は。」(イザヤ52:7)

イエス・キリストが十字架にかかられた時、この預言が成就しました。神は、神の御子を十字架にかかり死ぬことを通して王となりました。復活は、罪と死の支配が打ち破られたことを証明しました。神を王としてほめ歌を歌うことは、まさに、神の御国をこの地に現す大切な方法です。

詩篇 46篇

「やめよ。わたしこそ神であることを知れ。わたしは国々の間であがめられ、地の上であがめられる。」(10節)

「やめよ」と訳された単語を、口語訳は「静まって」、新共同訳は「力を捨てよ」と訳しました。「戦うのをやめなさい」(TEV)と訳しているものもあります。いずれにせよ、私たちは日常を離れて、神を見上げる時間が必要です。いろいろな不安をやめる時間が必要です。日常のノイズから離れて静まる時間が必要です。一生懸命がんばっていることをストップする時間が必要です。そして、神が神であることを認める時間が必要です。自分を中心にして世界が回っているのではないことを認める時間が必要です。天地万物を造られ、支配されている神が生きていることを認める時間が必要です。今日は主の日です。日々、静まって神を認めることも大切ですが、毎週、共に集まって、神を神として認め、あがめ、礼拝を捧げる時間はとても大切です。人は神を礼拝するために造られたからです。