詩篇 73篇

「まことに神は、イスラエルに、心のきよい人たちに、いつくしみ深い。」(1節)

「いつくしみ深い」と訳された言葉は、英語のグッドにあたる「良い」(トーヴ)という言葉です。詩人が語る土台的真理は、「神は良いお方」(God is good.)です。私たちの人生には、理解できないことがたくさんあります。この世界が崩れ落ちていくように見えても、混乱し、いっぱいいっぱいになってしまったとしても、この土台的真理‐「神は良いお方」‐を心に留める必要があります。しかし、苦しみの中で、私たちはまったく逆に考えてしまいます。「もし、神様が力あるお方ならば、どうして、こんなことが私に起るのか?」と。詩人も同じような悩みを体験しながら、神の臨在の中で目が開かれます。

「やがて私の体は衰え、気分も沈みがちになっていくことでしょう。しかし神様は、いつまでもお変わりになりません。心の支えとなってくださいます。」(26節LB)

神様が、万事を益としてくださることをいつも覚えることができますように。

詩篇 72篇

「こうして、すべての王が彼にひれ伏し、すべての国々が彼に仕えましょう。」(11節)

 すべての王がひれ伏し、仕えると預言された王こそ、メシヤ、キリストです。聖書は言います。

「こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。」(ピリピ2:10,11新共同訳)

ですから、この箇所に出てくる「彼」こそ、イエス様のことです。

「彼は、身寄りのない者や貧しい者を援護します。弱っている者や困っている者を見ると、いても立ってもいられず、助け上げるのです。人の命はかけがえのないものだと感じる彼は、虐待されたり痛めつけられたりしている人を、黙って見過ごしにはできないのです。」(12-14節LB)

まさに、福音書に出てくるイエス様の姿がここにあります。イエス・キリストこそ旧約が預言してきた王、メシヤ、キリストです。

詩篇 71篇

「神なる主よ。私は、あなたの大能のわざを携えて行き、あなたの義を、ただあなただけを心に留めましょう。」(16節)

 「神なる主」と訳された言葉は「主なるヤハウェ」。神の名前が用いられています。この節の全体を直訳しますと、

「主なるヤハウェの力の中に入っていき、あなたの義を覚える。あなたのだけ。」

となります。詩人は、神の偉大な御業を覚えて、ただ、神の義のゆえに、祈りの中に入って行きました。私たちが受け入れられるのはイエス・キリストの中にある神の義だけです。ですから、イエス・キリストだけを見上げなければ、祈りの中に入ることは困難です。また、神の力ある御業を覚えることが、私たちを祈りの中に導きます。神の力ある御業を語ることも大切です。

「何度、神様が、危ない目から助けてくださったか、数えきれないくらいです。会う人ごとに、神様の恵み深さと、日々とぎれることのない思いやりとを告げましょう。」(15節LB)

詩篇 70篇

「あなたを慕い求める人がみな、あなたにあって楽しみ、喜びますように。あなたの救いを愛する人たちが、『神をあがめよう。』と、いつも言いますように。」(4節)

 「神を慕い求める」という姿勢は、そもそも聖霊なる神様がその人の内におられる証拠でもあります。使徒パウロもこう言っています。

「それを自分のものにしようとして追い求めている。それは、すでに私がキリスト・イエスにしっかり捕まえられているから出来るのである」(ピリピ3:12現代訳)

パウロがここで大事にしているのは追求心で、クリスチャンというのは、常に神を慕い求めるという飢え渇きがある者ということです。神を慕い求めていく中で、主にある楽しみ、喜びを、体験して欲しいというのが、ダビデだけではなく、神様ご自身が願っていることです。

「あなたの救いを喜ぶ者には、『なんとすばらしい神様でしょう!』と叫ばせてください。」(LB)

神様に対する飢え乾きがあるならば、「なんと素晴らしい神様でしょう!」と叫ぶ日は必ず来ます。