詩篇 119篇

「あなたはいつくしみ深くあられ、いつくしみを施されます。どうか、あなたのおきてを私に教えてください。」(68節)

詩篇119篇は、いろは歌になっています。ヘブル語のアルファベットにそって、神のみことばの大切さを歌っているのです。サタンは、「神のみことば」の力を知っていますから、私たちが「神のみことば」に対する信頼を揺るがそうとします。「神のみことば」が私たちに信仰を与え、「神のみことば」が私たちにいのちを与えます。「神のみことば」が力がある理由、それは、このことばを語られる神が今生きておられ、力があるからです。時の権力者の言語録にさえ力があるのです。なおのこと、生ける神のことばには力があります。このお方は、いつくしみ深く、いつくしみを施されるとあります。口語訳では「あなたは善にして善を行われます。」新共同訳では「あなたは善なる方、すべてを善とする方。」このお方のみことばを求めようではないでしょうか!

「主よ、みことばを感謝します。」

詩篇 118篇

「これは、主が設けられた日である。この日を楽しみ喜ぼう。」(24節)

「設けられた」と訳された言葉は、「作る、行なう」という意味が原文にあります。ですから、英語の聖書では、「主が作られた日」と訳し、新共同訳聖書では、「今日こそ主の御業の日。」と訳しています。どちらも素晴らしい訳だと思います。今日と言う日を、神様が私たちが楽しみ喜ぶために作られたと意識するならば、今日と言う日をどのように過ごすでしょうか?今日という日に、神が何か素晴らしいことを用意されていると、今日と言う日を喜ぶことができるならば、今日と言う一日を最高に生きることができるのではないでしょうか。また、今日は神の御業の日というのはどうでしょうか?今日、神様が素晴らしいことを行なってくださると、信じ、期待し、始めることは聖書的です。「この日は、主がつくられた!」「この日は、主の御業の日だ!」と信仰の宣言をもって一日を始めていこうではないでしょうか!

詩篇 117篇

「すべての国々よ。主をほめたたえよ。すべての民よ。主をほめ歌え。その恵みは、私たちに大きく、そのまことはとこしえに至る。ハレルヤ。」(1‐2節)

 2節をLBでこう訳しています。

「私たちを目に入れても痛くないほど思ってくださる神様に、心変わりはありません。神様をほめたたえなさい。」

神様がどれほど私たちを思っておられるかは、ご自身の御子、イエス・キリストを与えるほどだと聖書は言います。それは、私たちの理解をすでに超えています。「恵み」と訳された言葉は「真実」(faithfulness)とも訳される言葉ですが、神は真実を尽くしてくださるお方です。使徒パウロは、このように表現しています。

「しかしたとえ、信仰をなくしたかと思えるほど私たちが弱くなっても、キリストは真実(faithfulness)を貫き、私たちを助けてくださいます。私たちは主の一部分になっているので、切り捨てられることはないのです。そして、主はいつも約束を果たしてくださいます。」(Ⅱテモテ2:13LB)

詩篇 116篇

「主が、ことごとく私に良くしてくださったことについて、私は主に何をお返ししようか。」(12節)

 この詩人は順風満帆に人生を送ってきたわけではありません。この個所の前後には彼の体験してきた試練や悩み、時には死を意識しなければならなかった出来事に言及されています。

『失意に沈んでいたころの私は、「もうだめだ。死ぬに決まっている。回りの人間は気休めを言ってくれているのだ」と思い悩んでいました。』(10、11節LB)

詩人はそんな中で、神様が注いでくださった恵みの数々を数え、何をお返しすることができるだろうかと考えます。そして、彼は人々が集まる神の宮に集い、神を礼拝することによって、主にお返しします。神が求めているのは「礼拝者」だとイエス様は言われました。(ヨハネ4章参照)

今日は主の日、主が注いでくださった恵みを思い出し、共に賛美と礼拝を神様にお返ししましょう!

単ペン大会 プレ・ユース大会

6月16日の第三礼拝の時間(18時から)は、単ペン大会、プレ・ユース大会として中山有太師が賛美とメッセージを導かれます!

中山有太師は、プレイズステーションのリーダーであり、東北中央教会の音楽主事であり、現在、若者の働きに用いられている素晴らしい神の器です。

もちろん、若者でなくても、参加可能です。ご参加ください!

第一と第二のメッセージも、中山有太師が行います。

詩篇 115篇

「私たちにではなく、主よ、私たちにではなく、あなたの恵みとまことのために、栄光を、ただあなたの御名にのみ帰してください。」(1節)

ある日、妻が通っていた神学校にドイツから大きなパイプオルガンが運ばれてきました。ドイツで一度組み立てた後、解体して二カ月かけてまたチャペルで組み立てるという気の遠くなるような作業の果てに素晴らしいパイプオルガンが完成しました。その後、パイプオルガンのはじめての演奏会がおこなわれました。次々に迫力のある演奏が披露され、最後に外国人演奏家が音を奏で始めました。決して派手な演奏ではありませんでしたが、胸を打つ、心に迫る演奏にチャペルは割れんばかりの拍手がわきおこりました。その時、彼は人差し指を口に当てました。そしてその手でチャペル前方に掲げられた十字架を指し示したのです。すべての栄光を主にという彼の姿はそこにいた人たちの心に深く刻まれました。Soli Deo Gloria!

詩篇 114篇

「海は見て逃げ去り、ヨルダン川はさかさに流れた。」(3節)

 ここだけ読むと、「?」という印象を持つかもしれません。別の訳では『紅海は神の杖によって二つに分かれ、ヨルダン川の水も二つに分かれた。』とあります。まさに、これは旧約聖書に出てくる、イスラエル民族における、二つの大きな出来事の記録であることがわかります。どちらも『あり得ない状況』から神様が超自然的方法を用いて救い出してくださった出来事です。神様に不可能なことはありません。しかし、何度も神様の奇跡を体験していたイスラエルの民は、事あるごとにそのことを思い起こし、神様がどのようなお方であり、どこから自分たちを導き救い出してくださったかを繰り返し思い起こす必要がありました。このことによって彼らは神様の視点にいつも自分の視点を修正していたのです。わたしたちにとっても、この習慣は大切だと思います。神様がなされた御業を思い起こそうではないでしょうか。

詩篇 113篇

「日の昇るところから沈むところまで、主の御名がほめたたえられるように。」(3節)

『日の昇るところから沈む所まで』という表現は詩篇の中に頻繁に登場します。この言葉は、すべての場所、世界中でという意味を持っている言葉です。別に、太陽が昇って落ちるという科学的な説明をしているわけではありません。比喩です。現代訳では『世界中どこででも、主をほめたたえよう。』と訳しています。どんな場所でも、どのような状況でも主をほめたたえよう、とこの詩人は呼びかけているのです。

わたしたちはいつの日か、世界中のキリストを信じる人々とともに神様を賛美する時が来ることを信じています。ひとりで賛美することも大切ですが、多くの兄弟姉妹と一緒にひとところに集まり、声をあわせて賛美するときに、わたしたちは天国の前味を体験することができます。共に集まり、主の御名をほめたたえることは、聖書が命じていることです。

詩篇 112篇

「その人は悪い知らせを恐れず、主に信頼して、その心はゆるがない。」(7節)

 多くの場合私たちの心は、置かれている状況によって簡単に揺らいでしまいます。9回嬉しいことがあっても、たった一度良くない出来事が起こると、9回の嬉しいことはあっという間に記憶から消滅してしまいます。残るのは不安や恐れだけ。そんな経験をしたことがあると思います。しかし、詩人は告白します。

「彼は悪い知らせを受けても恐れず、今度は何が起こるかと、びくつきもしません。神様から見放されるわけがないと、信じきっているからです。」(LB)

私たちはさらに確実な聖書のみことばの約束があります。

『神を愛する人々、すなわち、神のご計画によって召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。(ローマ8:28)』

私たちがみことばに信頼して歩んでいく時に、プラスに見えることもマイナスに見えることも神様は用いて最善に導かれます。

詩篇 111篇

「主を恐れることは、知恵の初め。これを行う人々はみな良い明察を得る。主の誉れは永遠に堅く立つ。」(10節)

 『主を恐れることは知恵の初め』。

この言葉はとても重要です。主を恐れるとは、全能の神を、聖書の神を神として認める、畏敬の念を持つ、ということです。残念なことに、信仰がなく、学問や歴史書としてしか聖書を学ぼうとせず、真理から遠ざかっていく「神学者」がたくさんいます。信仰がなければ聖書の奥深い真理を知ることは決してできません。私たちには理解できない神の領域があるということを知って初めて、真理を知るというスタートラインに立つことができるのではないでしょうか。へりくだり、神に聞く耳を持つことによって初めて、神は聖書の真理を私たちに語ってくださるのではないでしょうか。聖書は信仰をもって読むべきものです。興味深いことに初代教会の始まりがこう記されています。

「だれもが、心から神様を恐れ敬うようになり」(使徒2:43LB)