詩篇 110篇

「主は、私の主に仰せられる。『わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまでは、わたしの右の座に着いていよ。』」(1節)

 今日の箇所は「メシヤ詩篇」として有名です。この詩篇は新約聖書に最も多く引用されています。マルコの福音書の12章ではイエス様がこの箇所を引用して、メシヤ(キリスト)は、「神の子」であるというキリストの神性に言及します。イエス・キリストは自分が「神の子」などと言ってはいないだとか、聖書はイエスの神性を教えていないとか言う人がいますが、この箇所は明らかに、イエス・キリストの神性が語られています。イエス・キリストは真の神であり、真の人でした。ですから、私たちすべての人の罪の身代わりに十字架で死ぬことができました。そして、復活され、天に昇られた今、神の栄光の御座に着座されました。イエスは旧約聖書で預言された通り全地の王となられました。キリストを信じる者は救われます。キリストは再び来られます。

詩篇 109篇

「彼らはのろいましょう。しかし、あなたは祝福してくださいます。」(28節)

 どんなに呪われても、神の民は心配する必要はありません。神はそれを上回る祝福をなされるからです。LBでは、

「彼らにいくらのろわれても平気です。神様の祝福さえあれば、何も気になりません。」

と訳しています。私たちが必要としているのは神様の祝福です。詩篇133篇では、神様の祝福が兄弟姉妹たちが一つとなって共に集まるその所に命じられると約束されています。ペンテコステの日も、信徒たちが一つとなって集っている所に聖霊が臨まれました。まさに、週のはじめの日(日曜日)に、イエス・キリストの御名によって一つとなって神を礼拝することは、私たちが考える以上に意味があることが分かります。生きていく中で、のろわれているのではと思うほどのことがあります。しかし、共に神に礼拝を捧げる中で、神ご自身が祝福してくださいます。

詩篇 108篇

「神よ。私の心はゆるぎません。私は歌い、私のたましいもまた、ほめ歌を歌いましょう。」(1節)

詩人は、「私の心はゆるぎません。」と言いました。私たちは、この「揺るがない心」を必要としていると思います。NLT訳では、

「わたしの心はあなたの中で確信している」

と訳しています。「ゆるがない心」は、神様に対する確信から来ると言ってもいいのかもしれません。メッセージ訳では、

「準備ができている」

と訳しています。神に対して「ゆるがない心」があるならば、神に賛美の歌を歌う準備はできていると言えると思います。

明日は主の日です。この主にある「ゆるがない心」をもって、神を礼拝しようではないでしょうか。目の前の状況に左右されるのではなく、「私の心はゆるぎません。」と、神を礼拝しようではないでしょうか。

詩篇 107篇

「彼らは、主の恵みと、人の子らへの奇しいわざを主に感謝せよ。まことに主は渇いたたましいを満ち足らせ、飢えたたましいを良いもので満たされた。」(8,9節)

驚くことに私たちの身体は、どんなに食べても、しばらくすると食物を欲するようになります。ですから、肉の欲求を満足させることだけを考えるならば、いつまでたっても満足することはありません。一時的に満たされたと感じても、しばらくすると、もっと、もっととなります。人は肉体的な飢え渇きだけでなく、霊的な飢え渇きがあります。霊的な必要を、肉体的な体験で満足させようとするときに、問題が起こります。うまくいかないからです。イエス様は言われました。

「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。」(ヨハネ6:35)

イエス・キリストが、私たちが欲しているすべての答えです。

詩篇 106篇

「それでも彼らの叫びを聞かれたとき、主は彼らの苦しみに目を留められた。」(44節)

 神様はあわれみ深い神です。イスラエルの人々がどんなに迷い出て、自ら滅びを招いていても、それでもなお、彼らの叫びを聞いてくださったと言います。神の愛は、私たちの理解を超えています。「イエス様!」と叫ぶ、その祈りをないがしろにされることはありません。

「主は、彼らのために、ご自分の契約を思い起こし、豊かな恵みゆえに、彼らをあわれまれた。」(45節)

とあります。イエス・キリストの十字架は、キリストを信じる者は救われるという神との契約(約束)でした。神は私たちの祈りを、イエス・キリストの十字架の御業のゆえに聞いてくださると約束しています。ですから、イエス・キリストを見上げて、祈ろうではないでしょうか!神様は私たちの叫びを聞いてくださいます。

詩篇 105篇

「主とその御力を尋ね求めよ。絶えず御顔を慕い求めよ。」(4節)

  この個所で聖書は私たちに三つのことを求めるように言っています。

まず第一番目に、神様ご自身です。

私たちが本当に必要なのは、何かではなく、主イエス・キリストです。私たちの本当の必要に唯一答えることができるのは、イエス・キリストだけです。

第二番目は、その御力です。

神様は力ある神です。神に不可能なことは一つもありません。人にはできないことも、神にできないことはありません。私たちは、この全能の神を求める必要があります。

第三番目は、御顔です。

御顔と訳された言葉は、「臨在」とも訳される言葉です。私たちは神様の臨在を求める必要があります。「御国が来ますように」という祈りは、終末待望の祈りというだけではなく、今、この時、神の臨在がこの場所にあることを求める祈りでもあります。

詩篇 104篇

 「主よ。あなたのみわざはなんと多いことでしょう。あなたは、それらをみな、知恵をもって造っておられます。地はあなたの造られたもので満ちています。」(24節)

 この詩のテーマは、神様はこの大自然を私たちが楽しむために造られたということです。クリスチャンは、時々、「楽しむ」ことを罪に感じてしまうことがあります。しかし、食物を楽しんだり、花を楽しんだりすることは、神様が私たちに与えてくださったことです。Ⅰテモテにも、こういう箇所があります。

「私たちにすべての物を豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置くように。」(6:17)

私たちの神は、楽しませてくださる神です。問題は、この大自然を楽しむために造られた造り主を礼拝することよりも、大自然自体を拝む時に起こります。与えられた大自然を楽しむことよりも、大自然自体を頼り始めるときに起きてくるのです。現象ではなく、造り主である神を礼拝することができますように。

詩篇 103篇

「わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。」(2節)

 今日までどんなことがあったでしょうか。ある人は小さなころの記憶が鮮明かもしれません。ある人は、かなり最近のことしかはっきり覚えていないかもしれません。私たちはつらかったことや傷つけられたこと、腹立たしい出来事を思い出しやすい傾向があると思います。そして自己憐憫に陥ったり、憎しみに縛られていってしまうことがあります。けれどもここで詩人は、神様がしてくださった「良い」ことを『何一つ忘れるな』と勧めます。詩人は

「今までにいただいた祝福を、決して忘れません。」(LB)

と言います。私たちは何よりも、イエス・キリストの十字架の御業のゆえに、私たちの過去、現在、未来の罪を赦していただいたことを忘れてはいけないと思います。11節にはこう書いてあります。

「神様を恐れ、あがめる人には、無尽蔵のあわれみをかけてくださいます。」(LB)。

詩篇 102篇

「窮した者の祈りを顧み、彼らの祈りをないがしろにされなかったからです。」(17節)

神様は忙しすぎて、私たちの祈りを顧みることができないお方ではありません。今日の箇所をLBではこう訳しています。

「神様は、苦闘している人の祈りを聞かれます。主は、彼らの願いが耳に入らないほど、忙しくしてはおられません。」

 理解できない状況の中にいるときほど、この真理をしっかりと握り締めて宣言する必要があるときはないと思います。分からないことのゆえに、分かっていることを犠牲にすべきではありません。神様は、私たちの叫びを聞いてくださるお方です。今日も、主の御名を呼び求めましょう。主は聞いてくださっています。そして、主は、最高のタイミングで、私たちの祈りに応えてくださいます。

「主よ、私たちに上からの信仰を与えてください。あなたを信頼して、祈り続けられるように助けてください。」

詩篇 101篇

「私は、恵みとさばきを歌いましょう。主よ。あなたに、ほめ歌を歌いましょう。」(1節)

英語の聖書では、最初の部分をこのように訳しています。

「わたしのテーマソングは、神の愛と正義です。」

神の国の国民として、この世界で生きていくときに、まさに、「神の愛と正義」が私たちの日々の歩みのテーマソングになるのだと思います。具体的には2節にこのように詩人は歌っています。

「非の打ちどころのない生活を送りたい、と心がけている私ですが、神様のお助けなしには何もできません。ことに、おこころにそった歩みをしたいとせつに願う家庭の中でこそ、お助けいただきたいのです。」(LB)

日々の生活の中で、神の助けをいただきながら、自分ができる最善を行なっていくことが、「神の愛と正義」をテーマソングにして生きていくということだと言います。

「あなたの御国が来ますように。みこころが天で行なわれるように、地でも行なわれますように。」