箴言 1章

「知恵は、ちまたで大声で叫び、広場でその声をあげ、」(20節)

LBでは今日の箇所をこのように訳しています。

「知恵は町の中で叫んでいます。」

ユージーン・ピーターソンという神学者はこんなことを言っています。

「箴言は、人生のあらゆる詳細が永遠の重要性があるという聖書の声明です。」

聖書の神様は、私たちの宗教的側面しか関心がないというお方ではありません。私たちの日々の生活も、重要なものとして関心をいだいておられるのです。家族生活は、信仰生活と同じ真剣さで聖書は扱います。ですから、聖書は信仰面だけではなく、生活面においても私たちの規範となります。聖書は「町の中で」叫ぶ声とあるように、生活の現場に関わるものです。

「では、どうしたら物事がよくわかるようになるでしょう。それには、まず神様を信じ、神様を大切にすることです。」(7節LB)

詩篇 150篇

「息のあるものはみな、主をほめたたえよ。ハレルヤ。」(6節)

 賛美の歌を歌うことは、単なる音楽以上の意味があります。聖書は、主を賛美することを命じています。つまり、主を賛美することは、単に歌を歌うこと以上に意味があるのです。ですから、最高の賛美を神様に捧げる姿勢が大事になってきます。いつも、どうしたら最高の賛美を神様に捧げられるか考えることは素晴らしいことです。教会として、賛美を充実させるためにいろいろな設備を充実させることも大事なことです。個人として、賛美を神様にいつもささげることができるようにいろいろな賛美のCDを聴いたりして覚えることも大事なことです。賛美をささげるためには、受け身の姿勢にならず、積極的に捧げていく姿勢が大切です。 

「主よ、いつまでもあなたをほめたたえ続けることができますように。」

詩篇 149篇

「主は、ご自分の民を愛し、」(4節)

新共同訳では「主は御自分の民を喜び」、口語訳では「主はおのが民を喜び」と訳しています。主は、ご自身の民を愛されているだけでなく、喜んでおられるというのです。主が喜ばれる主の民に求めていることは、二節にこう出てきます。

「イスラエルは、おのれの造り主にあって喜べ。シオンの子らは、おのれの王にあって楽しめ。」

つまり、主を喜び楽しむ人々を、主は喜ばれるというのです。賛美は主を喜ぶことでもあります。賛美は主を楽しむことでもあります。私たちが一生懸命主を賛美している姿を、主は見ておられ、喜ばれているというのです。ですから、朝に夕に、主を賛美しましょう。主を楽しみ、主を喜びましょう。

「主よ、あなたの御名を賛美します。あなたが私たちの賛美を喜ばれていることをいつも心に留めていられますように。」

詩篇 148篇

「彼らに主の名をほめたたえさせよ。主の御名だけがあがめられ、その威光は地と天の上にあるからだ。」(13節)

 主をほめたたえることは、実は、私たちに命じられていることでもあります。私たちは主を賛美するために存在しています。ですから、主を賛美することを通して、私たちは満たされます。主の御名だけがあがめられることが大切です。主だけがすべての賛美を受けるにふさわしいお方です。教会は、主の御名を何よりも高くするために存在しています。教会の主人公は主であるイエス・キリストです。栄光は主のものです。教会ではいつも、イエス様の素晴らしさが語られるべきです。イエス様以外の誰かがほめたたえられていたら、教会は反省する必要があります。礼拝の時間が終わったとき、「主は素晴らしい!イエス様感謝します。」と思わず口から出てしまうのが教会のあるべき姿です。

「イエス様、いつもあなただけがほめたたえられますように。」

詩篇 147篇

「主は心の打ち砕かれたものをいやし、彼らの傷を包む。」(3節)

心が壊れてしまうかと思うくらい、つらい出来事や悲しい思いを経験することがあると思います。そのようなときを私たちはどのように過ごしているでしょうか。嵐が過ぎ去るのをじっと待つように、心が落ち着きを取り戻すまで時間をかけることができればよいのかもしれませんが、それは根本的な解決にはなりませんし、現実には容赦なくやってくる日々の出来事の中で心の処理をする間もないままに過ごしているのではないでしょうか。そんなときにほんの一言でも『神様!』と叫ぶ時間があれば、と思います。私たちの痛みをすべてご存じの主は、私たちがその痛みに気付き、癒しを求めて御前に出ることをずっと待っておられるのです。

『神様。どうぞ私の心の中のこの傷を、あなたの御手で包んでください。イエス様のみ名によって祈ります。アーメン』

詩篇 146篇

「幸いなことよ。ヤコブの神を助けとし、その神、主に望みを置く者は。」(5節)

 この箇所の前の節には、神様以外の者に頼ることのむなしさが記されています。

『その息が絶えると、その者はおのれの土に帰り、その日のうちに彼のもろもろの計画は滅びうせる。』

わたしたちは「誰か」や「何か」に安心や安定を求めようとします。しかし、しばらくするとそれらが万能ではないことに気づき、幻滅してしまうこともあると思います。神様は私たちが神様以外の何かに信頼している時、その「なにか」を取り去ってしまうことがよくあります。詩篇の中で、繰り返し神様に信頼することを語っている背景には、イスラエルの民がなかなかそのような生き方をすることができなかった、といえると思います。失敗しながら、神様に正されながら、私たちはきょうも神様にのみ信頼することを学ぶのです。

詩篇 145篇

「主は情け深く、あわれみ深く、怒るのにおそく、恵みに富んでおられます。」(8節)

私たちの神様に対するイメージはどのようなものでしょうか。特に旧約聖書においての印象は、どちらかと言うと厳しい、怖いというものかもしれません。この詩篇は、旧約時代にダビデが歌ったものですが、神様と親しく語り合っていた、ダビデの神様に対する理解は『情け深く、あわれみ深く、怒るのにおそく、恵みに富んでおられる』というものでした。そのあとには『すべてのものにいつくしみ深く、そのあわれみは造られたすべてのものの上にあります。』と記されています。

わたしたちはダビデのように日々このような神様を体験しているでしょうか。自分の作り上げてきた神様に対する印象ではなく、聖書が語る神様の姿を今日も思い起こしつつ、一日を過ごすことができますように。

詩篇 144篇

「ほむべきかな。わが岩である主。主は、戦いのために私の手を、いくさのために私の指を、鍛えられる。」(1節)

 神様は、私たちを鍛えます。試練や逆境を通し、悲しみや憤りを通し、それを乗り越えていくことを通して私たちの信仰を鍛え上げていきます。スポーツや音楽、勉強もそうですが力をつけるためには、一度ではなく何度も何度も、訓練をしなければなりません。その訓練は容易ではなく、本当に忍耐の必要な作業であることは私たちは皆経験から理解することができると思います。では、それらは何のためなのでしょうか?ダビデは『戦いのため』と告白します。私たちにとっての『戦い』とはなんでしょうか。エペソ人への手紙の六章には、『わたしたちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗闇の世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。』と記されています。私たちは神の国、愛と赦しに生きることによって戦います。

詩篇 143篇

「あなたのみこころを行なうことを教えてください。あなたこそ私の神であられますから。あなたのいつくしみ深い霊が、平らな地に私を導いてくださるように。」(10節)

後半部分をLBでは、次のように訳しています。

「恵み深い御霊によって、私を祝福の道へと導いてください。」

イエス・キリストを信じる時、私たちの内に聖霊なる神様が内住され、私たちを導いてくださいます。私たちを導いてくださる聖霊なる神様が、いつくしみ深く、恵み深い存在であるということを心に留める時、私たちの心は平安に満たされます。神様のいつくしみ深さを大袈裟に言うことは不可能です。また、聖霊なる神様が導いてくださる道は、祝福の道です。そもそも、神様の私たちに対する計画は「祝福を与える計画」(エレミヤ29:11LB)だと聖書は言います。聖霊なる神様は、その著書である聖書をもって導かれることも心に留めたいと思います。

詩篇 142篇

「私の霊が私のうちで衰え果てたとき、あなたこそ、私の道を知っておられる方です。」(3節)

「神様は知っておられる」という事実は、私たちの日々の歩みに平安を与えてくれます。今も多くの人に愛されている賛美の中に「明日を守られるイエス様」というのがあります。こんな歌詞です。

「明日はどんな日か、私は知らない。晴れか、嵐か、曇りになるか。私は明日を心配しない。イエスが私を守られるから。明日は、私には分からないけど、明日を守られる、イエスがおられる」

私たちは見えない明日に、様々な不安を抱えて生きています。めまぐるしく変わる社会情勢を伝える新聞やニュースは、私たちの不安を煽るものの、平安を与えてはくれません。「あなたこそ、私の道を知っておられる方」という確信が、私たちの心に平安を与えてくれます。

「イエス様、あなたがすべてご存知です。」