9月の日曜日 September Sundays

 1日(日)  コロサイ1:1 -:8 「そのような愛は」 小山英児牧師 

9時(HC)、10時半(HC)、18時(HC)              (HC)=聖餐式

8日(日)  コロサイ1:9 -:14 「あらゆる力をもって強くされ」 小山英児牧師

9時、10時半、18時

15日(日)  コロサイ1:15 -:20 「イエス・キリスト賛歌」 小山英児牧師

9時、10時半、18時

22日(日)  コロサイ1:21 -:23 「踏みとどまり」 小山英児牧師

9時、10時半、18時

29日(日)  コロサイ1:24 -:29 「栄光の望み」 小山英児牧師

9時、10時半、18時

伝道者 11章

「人は長年生きて、ずっと楽しむがよい。だが、やみの日も数多くあることを忘れてはならない。すべて起こることはみな、むなしい。」(8節)

 LBはこう訳しています。

「長生きしている人は、一日一日をぞんぶんに楽しみなさい。ただし、永遠と比べたら、地上のことはみな空しいことを覚えておきなさい。」

この地上での歩みは、風を追うようなもので、一時的であるということを心にとどめる必要があります。それで、次節で伝道者はさらにこう言います。

「若い人よ。若いことは実にすばらしい。四六時中、青春を謳歌しなさい。したいことは何でもしなさい。欲しいものは何でも手に入れなさい。しかし、自分のしたことはみな、神様の前で申し開きをしなければならないことを覚えておきなさい。」

結局のところ、この地上においても、永遠の神の国と神の義をまず第一に生きること、それが伝道者が伝えたいメッセージです。

伝道者 10章

「もし斧が鈍くなったとき、その刃をとがないと、もっと力がいる。しかし知恵は人を成功させるのに益になる。」(10節)

 新共同訳はこう訳しています。

「なまった斧を研いでおけば力が要らない。知恵を備えておけば利益がある。」

学ぶことは大切なことであり、継続的なものです。LBはこう訳しています。

「斧の切れ味が悪くなると、力ばかりいるようになります。そんな時には、頭を働かせて刃をとぐことです。」

斧の刃をとぐ時間は、無駄に見えるかもしれませんが、大きな益をもたらします。同じように、学ぶ時間は、無駄に見えるかもしれませんが、大きな益をもたらします。学べば学ぶほど、知らないことに気づき、私たちの生き方にも変化をもたらします。12節には、こう記されています。

「知者の口の言葉は恵みがある、しかし愚者のくちびるはその身を滅ぼす。」(口語訳)

伝道者 9章

「同じ結末がすべての人に来るということ、これは日の下で行なわれるすべての事のうちで最も悪い。だから、人の子らの心は悪に満ち、生きている間、その心には狂気が満ち、それから後、死人のところに行く。」(3節)

LBではこう訳しています。

「すべての人に同じ結末がくるとは、なんと不公平でしょう。だからこそ、人は正しく生きようとはせず、むしろ、非常識な道を選ぶのです。待ちかまえているのは死だけですから、希望などありません。」

伝道者の書のキーワードは「日の下」ですから、「この世をすべてと考えると」という前提があります。人は死亡率一〇〇%ですから、どんなに正しく生きた人にも、どんなに悪く生きた人にも、等しく死は訪れます。しかし、死から復活されたキリストは、同じ結末ではない、永遠の世界があることを証明されました。そして、永遠の神の国に生きるように人々を招かれました。私たちは日の下に生きながらも、神の国に生きることができます。

伝道者 8章

「王のことばには権威がある。だれが彼に、『あなたは何をするのですか』と言えようか。」(4節)

「ことば」に重みをもたらすのは、「権威」です。裁判官の判決文に重みがあるのは、「権威」を伴うからです。同じように聖書の「ことば」に重みがあるのは、「権威」を伴うからです。聖書のことばはすべて神によっていのちの息が吹き込まれています。(Ⅱテモテ三・十六参照)神が語られるのであれば、神はそれを成し遂げられます。神に文句を言うことができる人はいません。神は神です。私たち人間がどんなに理解できなくても、最終的な言葉は神がもっていることを私たちは受けとめる必要があります。ただ、おどろくことは、神は私たちを愛しておられ、私たちを気にかけておられるということです。私たちを見放すことも、見捨てることもできないお方であるということです。

伝道者 6章

「人の労苦はみな、自分の口のためである。しかし、その食欲は決して満たされない。」(7節)

 人はかすみを食べて生きてはいけないので、日々の糧を得るためにも働く必要があります。しかし、どんなに食欲を満たしても、しばらくすればお腹は空き、そのサイクルに終わりはありません。サマリヤの女にイエス様はこんなことを言われました。

「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。」(ヨハネ4:13)

伝道者の書のキーワードは「日の下」であり、この世のことに焦点が置かれています。この世のものは、食欲だけでなく、どんな欲も、永遠に満たされるものはないということです。私たちは、そのことを常に意識する必要があります。どんなものを買っても、どんなゴールを達成しても、永遠に満たされるようなものは存在しません。イエス・キリストとの関係だけが永遠に私たちを満たします。

伝道者 5章

「見よ。私がよいと見たこと、好ましいことは、神がその人に許されるいのちの日数の間、日の下で骨折るすべての労苦のうちに、しあわせを見つけて、食べたり飲んだりすることだ。これが人の受ける分なのだ。」(18節)

LBではこう訳しています。

「生きている限りは、おいしい物を食べ、上等のワインを飲み、置かれた立場に甘んじ、与えられた仕事がどのようなものであれ、それを楽しむことです。」

禁欲主義というのは、ストア派というギリシア哲学の影響であり、聖書的ではありません。与えられえた人生を楽しむことは、聖書的には大切なことです。もちろん、人生は楽しいことばかりではありませんし、時には、神様のために自分の楽しみを捨てることも大事なことです。しかし、聖書は言います。

「わたしたちにすべてのものを豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置くように。」(Ⅰテモテ6:17新共同訳)

今日は主の日。主を楽しみ、喜びましょう!

伝道者 4章

「貧しくても知恵のある若者は、もう忠言を受けつけない年とった愚かな王にまさる。」(13節)

 この箇所のポイントは年齢ではなく「知恵」です。

どんなに年を重ねても、人の忠告に耳を傾けられなくなってしまうなら、どんなに経験がないような若者でも聞く耳がある分、まさっていると言うのです。私たち人間は気をつけないと、経験を積んだ分、さまざまなことを知った分、何でも分かってしまったかのように、王のようになって、聞く耳がなくなってしまう傾向があります。いつも謙遜に聞く姿勢を持たなければいけないというのが、この箇所が教えていることです。これは信仰生活にも起こりうることです。信仰生活が長くなると、何でも分かっているかのように錯覚し、メッセージを謙虚に聞けなくなってしまったりする危険があります。

「主よ、謙虚に聖書のメッセージを聞けますように。」 

伝道者 3章

「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠への思いを与えられた。しかし、人は、神が行われるみわざを、初めから終わりまで見きわめることができない。」(11節)

身近な人の死を経験すると、多くのことを考えさせられます。私自身何人もの親しい方々の天への旅立ちを経験し、地上での歩みが決してすべてではないことを思わされてきました。それは、神様ご自身が人間の心に『永遠への思い』を与えられたからであると思います。もちろん、地上に生きるわたしたちは死後の世界のすべてを知ることはできません。聖書に書かれていない事柄に対して、一部の人々の語るリアル(であるように感じる)な死後の世界話に影響されないように気をつけるべきです。聖書のみことばにしっかりと土台を置き、今日も誠実に歩んでいきたいと思います。

伝道者 2章

「人には、食べたり飲んだりし、自分の労苦に満足を見いだすよりほかに、何も良いことがない。これもまた、神の御手によることがわかった。」(24節)

もちろんこの箇所も、「日の下」という「神様の現実をぬきに考えると」と言う部分があります。しかし、同時にこの世における人生のバランスの大切さを指摘していることも心に留める必要があります。食べたり飲んだり、仕事を楽しむことも、神の御手の中にあると聖書が言います。この箇所をLBではこう訳しています。

「そこで私は、食べたり飲んだりすることと、仕事を楽しむこと以外に生きがいはない、と判断しました。しかも、このような楽しみさえ神様の御手から来るとわかったのです。というのも、神様のお世話にならなければ、だれも食べたり楽しんだりはできないからです。」

禁欲主義ではなく、神の御手を認めて生きることを聖書は勧めています。

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Yes, everything else is worthless when compared with the priceless gain
of knowing Christ Jesus my Lord. (Phil.3:8NLT)