伝道者 1章

「私は、日の下で行なわれたすべてのわざを見たが、なんと、すべてがむなしいことよ。風を追うようなものだ。」(14節)

伝道者の書を読む上で大事なキーワードは「日の下」です。それは、「神様の現実をぬきに考えると」と言うことです。もし、神様を抜きに考えるならば、確かに、すべてのことが意味を見失い、むなしいことばかりになっていってしまいます。ですから、神様は私たちに「日(sun)の下」ではなく、「御子(Son)の中」で生きるように語ります。イエス・キリストの中に答えがあるからです。この世の知恵には限界があります。伝道者は言います。

「実に、知恵が多くなれば悩みも多くなり、知識を増す者は悲しみを増す。」(18節)

人類は知識を増やせばあらゆるものが解決できると考えました。しかし、聖書が伝えていることは、神を認めることがまず大事だと言うことです。

箴言 31章

「「麗しさはいつわり。美しさはむなしい。しかし、主を恐れる女はほめたたえられる。」(30節)

LBでは、このように意訳しています。

「人は見せかけの美しさにすぐだまされますが、そんな美しさは長続きしません。しかし神様を恐れる女は、ほめたたえられます。」

 もちろん、お洒落をすることを否定しているわけではありません。そうではなく、外見よりも内面が大切であるということです。外見は一時的であり、内側にあるものが、結局は外側に現われてきます。ですから、大切なことは、結局は、神様を神様として畏れ、敬う姿勢だと言うのです。もちろん、これは女性に対してだけではなく、男性にも言えることであることは明らかです。神様はこんなことも言っています。

「人はうわべを見るが、主は心を見る。」(Ⅰサムエル16:7)

「主よ、あなたを認め、畏れ敬うことができますように。」

箴言 30篇

「神のことばは、すべて純粋。神は拠り頼む者の盾。神のことばにつけ足しをしてはならない。神が、あなたを責めないように、あなたがまやかし者とされないように。」(5,6節)

 LBではこのように意訳しています。

「神様はほんとうのことしか言わず、頼って来る者をみな守ってくださいます。だから、神様の言うことに余計なつけ足しをして、うそをついたと言われないようにしなさい。」 

私たちは聖書のみことばを越えないように気をつけることも大切なことです。神様が言ってもいないことを、神様の名前で語るほど、恐ろしいことはありません。ですから、神のみことばである、聖書六十六巻をいつも心に蓄えることは大事なことです。

「主よ、あなたのみことばである、聖書のみことばを、いつも心に蓄えることができますように。そして、聖書に余計な付け足しをしませんように。」

箴言 29章

「幻がなければ、民はほしいままにふるまう。しかし律法を守る者は幸いである。」(18節)

新共同訳では前半部分をこう訳しています。

「幻がなければ民は堕落する。」

「幻」は、いわゆる「ビジョン」だと考えることができますが、英語の訳で「啓示」と訳しているものもあるように、これは「天からのビジョン」という意味です。神様からのビジョンがなければ人は堕落してしまう、人はわがままになってしまうということです。ですから、私たちは常に、神様のみこころは何か、神様のビジョン、天からのビジョンを求めて生きていく必要があります。興味深いことに後半部分を新共同訳ではこう訳しています。

「教えを守る者は幸いである。」

神様からビジョンは、聖書の教えの中にあります。ですから、日々、聖書を読む中で、神様のビジョンを受け止めて、そのみことばに生きることが大切です。

箴言 28章

「耳をそむけて教えを聞かない人は、その者の祈りさえ忌みきらわれる。」(9節)

 この箇所を、現代訳ではこのように訳しています。

『御言葉に耳を貸さない者は、祈っても答えられることはない。』 

神様は私たちを愛し、その祈りに喜んで耳を傾けてくださいます。そしてすべてを働かせて最善をなしてくださるお方です。ところがそんな神様から遠く離れ、無視し、機会があっても聖書を開いて神の御言葉に耳を傾けようとしないならば、神様を批判することはできません。逆説に言うならば、祈りに答えてもらいたいならば、聖書の御言葉に耳を傾けるべきです。使徒パウロは言いました。

「信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。」(ローマ10:17)

悪魔の火矢をも消し去る信仰の盾を私たちから奪おうと、悪魔は私たちを聖書から離そうとします。

「聖書は誤りなき神の言葉であるという確信を手放すことがありませんように。」

箴言 25章

「忍耐強く説けば、首領も納得する。柔らかな舌は骨を砕く。」(15節)

LBではこう意訳しています。

「小さな水のしずくでも、長い間には堅い岩をけずります。同じように、じっとしんぼうしていれば、最後には必ず勝つのです。」

聖書はコツコツと地道に頑張ることの大切さを伝えています。新約聖書にも似たようなことが記されています。

「神様の約束されたものを、そっくりいただきたいと願うなら、神様の御心を、忍耐強く実行しなければなりません。」(ヘブル10:36)

私たちは聖書を祈りつつコツコツと読むことよりも、手っ取り早く何らかの助けを誰かに求めやすいところがあると思います。しかし、聖書は地道に神様との関係を築いていくことが大切だと言います。神様はある日突然、素晴らしい奇跡を行うお方ではありますが、私たちは忍耐強く、地道に生きる姿勢が大切です。あるゴルフ選手は言いました。練習をすればするほどラッキーになる。

箴言 24章

「もしあなたが苦難の日に気落ちしたら、あなたの力は弱い。」(10節)

 苦難の日は誰にもやってきます。その日に、落ち込んでしまうのが当たり前ではないでしょうか。どんなに強がっても、所詮人間の力は、そんなものではないでしょうか。しかし、クリスチャンは弱いときに強い(Ⅱコリント12:10)という世界があります。なぜなら、苦難の日にどうしたらいいか知っているからです。神様は言います。

「苦難の日にはわたしを呼び求めよ。わたしはあなたを助け出そう。あなたはわたしをあがめよう。」(詩篇50:15)

私たちが膝をかがめる時、それは、弱弱しく見えるかもしれませんが、もっとも力強い時でもあるのです。自分の弱さを認め、膝をかがめましょう。主を呼び求めましょう。主が、私たちを引き上げてくださいます。

 「主よ、あなたを呼び求めます。私は自分の弱さを認め、あなたの御名を呼び求めます。」

箴言 23篇

「わざわいのある者はだれか。嘆く者はだれか。争いを好む者はだれか。不平を言う者はだれか。ゆえなく傷を受ける者はだれか。血走った目をしている者はだれか。」(29節)

「ゆえなく傷を受けるもの」を、現代訳では「不必要に傷つき」と訳しています。カウンセリングブームの影響がいまだ強いのでしょうか、現代のすべての世代に言えることだと思いますが、私たちは「傷つく」ことに過敏になっているように感じます。私たちが「傷を受けている出来事や言葉」の多くは、本来傷を受ける必要のないようなことが多く含まれているのではないでしょうか。あまりにも繊細な心の持ちようは、結果的に当たり障りのない会話しか生み出さないものだと思います。健康な心へと神様が日々創り変えてくださるように祈りの中で聖霊様に触れていただこうではありませんか。

「主よ、不必要に傷つくことがないように、私たちの心を強めてください。」

箴言 22章

「なまけ者は言う。「獅子が外にいる。私はちまたで殺される。」と。」(13節)

LBではこう訳しています。

「怠け者は『仕事なんかとても行けないよ。外に出たら、通りでライオンに食い殺されるかもしれないじゃないか』と言いわけします。」

つまり、起こる確率が低いようなことをもっともらしい言い訳にして、逃げていてはいけないという意味です。当時のイスラエルにライオンがいたことは確かだと思われますが、ライオンに食い殺される確立はほとんどなかったはずです。もっともらしい言いわけをして、逃げる人生を送ることは、神様のみこころではありません。ジグ・ジグラーというクリスチャンの講演家は、こんなことを言っています。

「しなければならないときにしなければならないことをすれば、したいときにしたいことをできる日が、きっと訪れるだろう。」

今日は、主の日。まず、主を礼拝しましょう!

「逃げずに向かう力を与えてください。」

8月の日曜日 August Sundays

 4日(日)  エペソ6:10-:17 「どうやって誘惑に対抗するか?」

小山英児牧師 

9時(HC)、10時半(HC)、18時(HC)              (HC)=聖餐式

11日(日)  エペソ6:18 -:24 「祈りの力」 

小山英児牧師

9時、10時半、18時

18日(日)  箴言18:10 「力の塔-strong tower」 

小山英児牧師

9時、10時半、18時

12:45-14:30 アルファ・セレブレーション

25日(日)  伝道者の書11:4 「それでも種を蒔く」 

小山英児牧師

9時、10時半、18時