箴言 21章

「正義と誠実を追い求める者は、いのちと正義と誉れとを得る。」(21節)

「誉れ」と訳された言葉は、「栄光」という意味があります。ですから、「正義と誠実を追い求める」ことこそ、「栄誉ある生き方」と言えると思います。「誠実」と訳された言葉は、「ヘセド」という旧約聖書のキーワードで、新改訳では一般的には「恵み」と訳されます。「あわれみ」「親切」「真実」「変わらない愛」「尽きることのない愛」という意味があります。LBではこう訳しています。

「正しく思いやりのある者になろうとする人は、充実した生活を送り、人からもほめられます。」

ただ正しい生き方ではなく、思いやりも必要です。神様は義なるお方であると同時に、恵み深く、やさしいお方です。私たちも正しいだけでなく、思いやりのある者になろうと追求することが求められています。そうするならば、「いのちと正義」、「栄誉ある生き方」を得ることが出来ると言います。

箴言 20章

「なまけ者は冬には耕さない。それゆえ、刈り入れ時に求めても、何もない。」(4節)

誰の人生にも、「冬」のような時期があります。何をしてもうまくいかないように思える時・・・。しかし、聖書は、そのような時こそ大事な時だと言います。誰にも認めてもらえないような時に、どれだけ学び、下積みできるかで、私たちの人生は変わっていきます。宗教改革の指導者、マルチン・ルターは、命を狙われる人生の冬のような時期に、コツコツと聖書をドイツ語に翻訳し、ドイツ語の聖書を完成させました。アルファのニッキー・ガンベル師は、こんなことを言っています。「あなたが苦闘しているからといって失敗しているわけではない。すべての偉大な成功は、そこに到達するまでに何らかの苦闘が必須である。」

「冬のうちに耕しておかないと、刈り入れ時になっても収穫はありません。」(LB)

箴言 19章

「激しく憤る者は罰を受ける。たとい彼を救い出しても、ただ、これをくり返さなければならない。」(19節)

 LBでは今日の箇所をこのように意訳しています。

「短気な者が失敗したら、自分で後始末させなさい。一度でも助けてやるとくせになります。」

冷たい表現のように聞こえるかもしれませんが、ガラテヤ書にもこのように記されています。

「人にはおのおの、負うべき自分自身の重荷があるのです。」(6:5)

もちろん、互いに助け合うことも大切なことですが、その人が自分自身で向かっていくようにあえて手を差し伸べないことも大切なことだと聖書は言います。いずれにせよ、私たちは他者から操作(マニピュレート)されないように気をつける必要があります。

「主よ、知恵のことばである、聖書のみことばをしっかりと心に蓄えることができますように。」

箴言 16篇

「正義によって得たわずかなものは、不正によって得た多くの収穫にまさる。」(8節)

  天国で一番貧乏な人になるほうが、地獄で一番裕福な人になるよりもはるかに勝っています。モーセは、エジプトの王子として裕福な生活をしていました。しかしモーセは、

「はかない罪の楽しみを受けるよりは、むしろ神の民とともに苦しむことを選び取りました。彼は、キリストのゆえに受けるそしりを、エジプトの宝にまさる大きな富と思いました。彼は報いとして与えられるものから目を離さなかったのです。」(ヘブル11:25,26)

神様が私たちに与えてくださるものは、この世が私たちに与えてくれるものよりもはるかに勝っているのです。ですから聖書は言います。

「人をだましてぼろもうけするより、わずかずつでも正直にかせぐほうがましです。」(LB)

「主よ、あなたが与えてくださる栄光の富に、目を向けることができますように。」

箴言 14章

「牛がいなければ飼葉おけはきれいだ。しかし牛の力によって収穫は多くなる。」(4節)

確かに、牛がいなければ飼葉おけは汚れることはありません。しかし、それでは飼い葉おけの意味がありません。たとえ飼葉おけが汚れたとしても、牛が存在していることに意味があります。同じように、教会も人がいなければ問題は起きないかもしれませんが、人がいなければ教会の意味がありません。たとえトラブルが起こったとしても、様々な人が教会に存在していることに意味があります。私たちが生きている限り、問題がなくなることはありません。しかし、それでも生きていくことに意味があります。LBでは、次のように訳しています。

「働かなければ、手も汚れない代わりに収入もありません。」

すべてのマイナスはプラスになります。

「主よ、私の視点を変えてください!」

箴言 13章

「高ぶりは、ただ争いを生じ、知恵は勧告を聞く者とともにある。」(10節)

 高ぶり、傲慢は、争いへと導きます。高ぶっている人にはいつも、競争心が満ちています。自分が一番だということを証明するチャンスを探しているのです。争いや口論に巻き込まれているときほど、自分が高ぶっていないか、謙遜に「神様、示してください」と祈り求めることが大事です。高ぶりに勝つことができれば平安が結果としてついてきます。「知恵は勧告を聞く者とともにある」と言います。聖書の知恵はこれです。

「人がもし、何かを知っていると思ったら、その人はまだ知らなければならないほどのことも知ってはいないのです。」(Ⅰコリント8:2)

「神様、もし、私の心に高ぶりがあるのならば、それを示してください。あなたの御前にへりくだることができますように。」

箴言 12章

「人は悪をもって身を堅く立てることはできず、正しい人の根はゆるがない。」(3節)

 この世を見ると、悪いことをして成功しているように見える人がいます。しかし、悪をもって身を堅く立てることはできません。悪いことをしていて、人生が安定することはありません。たとえ、しばらくのあいだ大丈夫に見えても、正義は必ず追いついてきます。それは、砂の上に人生を築き上げるようなもので、必ず、崩れ去るときが来ます。正しいことを行うことだけが、しっかりとした土台に築き上げることができる方法です。正しい人の根はゆるぎません。しかし、この世で生きていく中で正しく生きることがばからしく見えるときがありますから聖書は言います。

「正しい人はその信仰によって生きる。」(ハバクク2:4)

と。

「主よ、いつも正しく生きれるように助けてください。あなたは今、生きておられますから。」