イザヤ 38章

「行って、ヒゼキヤに告げよ。あなたの父ダビデの神、主は、こう仰せられます。『わたしはあなたの祈りを聞いた。あなたの涙も見た。見よ。わたしはあなたの寿命にもう15年を加えよう。」(5節)

 神様は私たちの祈りだけでなく、私たちの涙もご覧になっておられるお方です。実際、イエス様のこの地上での祈りも、とても感情的であったことが次の聖句からも分かります。

「キリストは、人としてこの世におられたとき、自分を死から救うことのできる方に向かって、大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ、そしてその敬虔のゆえに聞き入れられました。」(ヘブル5:7)

もちろん、涙を流せばいいという意味ではありません。口先だけではなく、全人格的な祈りを神様は望んでいるということです。神様は流暢な言葉を聞いているというよりも、私たちの心をご覧になっているということです。

「主よ、心からの祈りを捧げます。」

イザヤ 37章

「あなたはだれをそしり、ののしったのか。だれに向かって声をあげ、高慢な目を上げたのか。イスラエルの聖なる方に対してだ。」(23節)

 アッシリヤ軍は、エルサレムに攻め入ることはできませんでした。彼らはヒゼキヤ王に言いました。

「ユダの王ヒゼキヤにこう伝えよ。『おまえの信頼するおまえの神にごまかされるな。おまえは、エルサレムはアッシリヤの王の手に渡されないと言っている。おまえは、アッシリヤの王たちがすべての国々にしたこと、それらを絶滅させたことを聞いている。それでも、おまえは救い出されるというのか。」(10、11節)

しかし、ヒゼキヤ王は、アッシリヤ王の言葉よりも神を信頼することを選び、神が救い出されることを体験しました。歴史的にも、アッシリヤ帝国は、この後、滅亡の一途を辿ります。

今日は、主の日です。私たちもアッシリヤ王のような言葉が聞こえてきても神を信頼し、まことの神のみことばに耳を傾け、礼拝を捧げましょう。

イザヤ 36章

「ラブ・シャケは彼らに言った。「ヒゼキヤに伝えよ。大王、アッシリヤの王がこう言っておられる。いったい、おまえは何に拠り頼んでいるのか。」(4節)

このアッシリヤ軍がエルサレムを包囲した出来事は、聖書以外にも文献が残っています。ですから、歴史上本当に起こったことであると認められています。この時、まさにヒゼキヤたちは、何に拠り頼んでいるかが試されました。ラブ・シャケはエルサレムの人々に言いました。

「ヒゼキヤが、主は必ずわれわれを救い出してくださる、この町は決してアッシリヤの王の手に渡されることはない、と言って、おまえたちに主を信頼させようとするが、そうはさせない。」(15節)

しかし、ヒゼキヤをはじめ、エルサレムの人々は、主を信頼することを選びました。そして、彼らは生ける神の救いを体験しました。

「私たちは、恐れ退いて滅びる者ではなく、信じていのちを保つ者です。」(ヘブ10:39)

イザヤ 35章

「そのとき、盲人の目は開かれ、耳しいた者の耳はあけられる。そのとき、足なえは鹿のようにとびはね、おしの舌は喜び歌う。荒野に水がわき出し、荒地に川が流れるからだ。」(5,6節)

 バプテスマのヨハネは獄中でイエス様のことを聞いて弟子たちを遣わして、

「おいでになるはずの方は、あなたですか。それとも、私たちは別の方を待つべきでしょうか。」

と尋ねさせます。すると、イエス様はこう答えられます。

「あなたがたは行って、自分たちの聞いたり見たりしていることをヨハネに報告しなさい。盲人が見、足なえが歩き、らい病人がきよめられ、つんぼの人が聞こえ、死人が生き返り、貧しい者には福音が宣べ伝えられているのです。だれでも、わたしにつまずかない者は幸いです。」(マタイ11:4-6)

つまり、今日の箇所がイエス様が来られたことによって成就したと言うのです。イエス・キリストの中に答えがあるというのが聖書のメッセージです。

イザヤ 34章

 「主の書物を調べて読め。これらのもののうちどれも失われていない。それぞれ自分の連れ合いを欠くものはいない。それは、主の口がこれを命じ、主の御霊が、これらを集めたからである。」(16節)

 LBでは、こう訳しています。

「神様の書物を調べて、これからどうなるかに目を留めなさい。神様はただの一項目でも手を抜きません。その地には、つがいでないものはいません。神様がそう命じたからです。しかも神様の御霊は、そのとおりになるように力を入れます。」

イエス様もこうおっしゃられました。

「この天地は滅び去ります。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。」(マタイ24:35)

ですから、聖書を調べることは大事なことです。聖書がそう語っているなら、そのようになります。たとえ、今、自分の目にはそう見えなくても、神のことばは滅びることはありません。

イザヤ 33章

 「そこに住む者は、だれも『私は病気だ。』とは言わず、そこに住む民の罪は赦される。」(24節)

ここで言われている「そこ」とは、「神の国」、「天の御国」のことだと思われます。私たちはこの世に生きている限り病気をします。どんなに癒されても、やはり病気をし、死に直面します。そして、病気をするたびに、自分は神ではなく、有限な人間であるということを痛いほど教えられ、謙虚にさせられます。完全な人などこの世には存在しません。しかし、神様はこうおっしゃられました。

「わたしは主、あなたをいやす者である。」(出15:26)

神様は、私たちをいやしてくださるいやし主です。神の国はすでに来ているので、病気はいやされます。しかし、まだ完全ではありません。ですから、死の後の生の後、天の御国で、私たちはみな完全にいやされた状態で永遠に生きます。

「主よ、あなたがいやし主であることを感謝します。」

イザヤ 32章

「しかし、ついには、上から霊が私たちに注がれ、荒野が果樹園となり、果樹園が森とみなされるようになる。」(15節)

今日の箇所をLBではこう訳しています。

「しかし、やがては天から御霊が注がれ、再び見渡す限りの黄金の穂波が見られるようになります。」

聖霊なる神様が臨まれることによって、変化が起こるという世界があります。日頃のコツコツとした積み重ねが大切なことは当然ですが、聖霊が臨まれるという神の領域があることを認識することも大切なことです。そして私たちは、自分の能力ではなく、神に希望を抱いて生きることができるのです。メッセージではこう訳しています。

「そうです。泣くのも悲しむのも上から私たちに聖霊が注がれるまでです。」

私たちの涙が喜びに、悲しみが踊りに変えられる神様の時があります。その日を待ち望みつつ、今を生きることができますように。

イザヤ 31章

 「ああ。助けを求めてエジプトに下る者たち。彼らは馬にたより、多数の戦車と、非常に強い騎兵隊とに拠り頼み、イスラエルの聖なる方に目を向けず、主を求めない。」(1節)

 私たちは目に見えるものに弱い傾向があります。目に見えない神を求めるよりも、目に見える何かに拠り頼む方が確実に思えてしまうのです。しかし、3節で神様はこうおっしゃられます。

「エジプト人はただの人間で、神ではありません。その馬は取るに足らぬ動物で、どんなものでも蹴散らす霊ではありません。神様がこぶしを振り上げると彼らはつまずき、助けるはずだった人たちの間で倒れ、どちらも滅んでしまいます。」(LB)

私たちは、まず、神を求める必要があります。公民権運動で有名なキング牧師がこんなことを言っています。

「日々が暗くなり、夜が寂しくなろうとも、上で支配している神がおられることを理解してほしい。」

イザヤ 29章

「ああ、あなたがたは、物をさかさに考えている。陶器師を粘土と同じにみなしてよかろうか。造られた者が、それを造った者に、「彼は私を造らなかった。」と言い、陶器が陶器師に、「彼はわからずやだ。」と言えようか。」(16節)

現代訳では今日の箇所をこのように訳してます。

「考え方が倒錯しているではないか。陶器を造る者は、陶器の材料である土と同等か。造られた者が造る者に向かって、『あなたが私を造ったのではない』とか、『あなたは何も分っていない』と言えようか。」

この箇所は、まさに私たちが創造主なる神様に対してどのように考えるべきかを明確にしてくれる箇所だと思います。私たちも倒錯して、創造主なる神様に対して、「神様は何も分っていない」などと言っていることがあるのではないでしょうか。創造主なる神様はすべてをご存じであり、しかも、私たちを愛しておられます。私たちは神の指紋がついた、神の作品であることを忘れることがありませんように。

イザヤ 28章

 「だから、神である主は、こう仰せられる。「見よ。わたしはシオンに一つの石を礎として据える。これは、試みを経た石、堅く据えられた礎の、尊いかしら石。これを信じる者は、あわてることがない。」(16節)

今日の箇所は、新約聖書で引用されています。

「聖書にこう書いてあります。『見よ。わたしは一つの石(キリスト)を(教会の)尊い土台石とするために選び、遣わした。彼に信頼する者は、決して失望しない。』キリストは、信じる者にとっては何よりも尊い方ですが、キリストを拒む者にとっては、『つまずきの石、妨げの岩』となりました。・・・彼らのつまずきの原因は、神のことばに耳を傾けず、従おうとしないことです」(Ⅰペテロ2:6‐8)

「試みを経た石」とは、何度も試みを受けた石で、信頼できるという意味です。イエス・キリストが信頼できる石であるということは、歴史を通じて、証明されてきたことでもあります。