エレミヤ 43章

※ 本年も大変お世話になりました。来年もよろしくお願いします。

本日23時より年末祈祷会。元日は13時半より新年礼拝です。

「すると、ホシャヤの子アザルヤと、カレアハの子ヨハナンと、高ぶった人たちはみな、エレミヤに告げて言った。「あなたは偽りを語っている。私たちの神、主は『エジプトに行って寄留してはならない。』と言わせるために、あなたを遣わされたのではない。」(2節)
 
 人々は神の導きではなく、自分たちがすることを肯定してもらいたいだけでした。つまり、人々がエレミヤの言葉を聞けなかった理由は「高ぶり」でした。彼らは思い上がっていたのです。神のみことばを聞くためには、謙そんになる必要があります。自分の考えが、聖書よりも上位にあれば、確かに主の御声を聞くことはできません。聖書は、謙そんを身に着けるように言います。

「みな互いに謙遜を身に着けなさい。神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられるからです。ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです。」(Ⅰペテロ5:5,6)

エレミヤ 42章

 「あなたがたは迷い出てしまっている。あなたがたは私をあなたがたの神、主のもとに遣わして、『私たちのために、私たちの神、主に祈り、すべて私たちの神、主の仰せられるとおりに、私たちに告げてください。私たちはそれを行ないます。』と言ったのだ。」(20節)

エルサレムに残った民は、エレミヤに

「私たちは良くても悪くても、あなたを遣わされた私たちの神、主の御声に聞き従います。私たちが私たちの神、主の御声に聞き従ってしあわせを得るためです。」(6節)

と言いました。しかし実際は、自分たちが立てた計画を承認してくれるような神の御声ではなかったので、完全に無視しました。私たちも似たようなことをしているのではないでしょうか。自分が立てた計画を認めてもらおうと神の御声を求めるのですが、自分の計画と違うと、神の御声を無視してしまう。本当に神の御声を求めているのでしょうか?

エレミヤ 41章

「ネタヌヤの子イシュマエルは、彼らを迎えにミツパを出て、泣きながら歩いて行き、彼らに出会ったとき、言った。『アヒカムの子ゲダルヤのところにおいでなさい。』」(6節)
 
イシュマエルはゲダルヤを殺しただけでなく、エルサレムの陥落を悲しみに来た人たちを騙して殺害しました。イシュマエルは悲しんでいるふりをして、彼らを油断させて殺してしまったのです。これがサタンのやり方です。使徒パウロも言っています。

「サタンでさえ光の天使を装うのです。」(Ⅱコリント11:14新共同訳)

天使と思ったら、天使に変装した悪魔だったというのです。ですから私たちは、外見だけで判断すべきではありません。悪魔の目的は私たちを滅ぼすためだとイエス様は言われました。私たちは騙されないためにも、イエス・キリストから目を離さないように気をつける必要があります。そして、聖書のみことばにしっかりと立つ必要があります。

今日は主の日です。主のみを礼拝しましょう。

エレミヤ 40章

「しかし、アヒカムの子ゲダルヤは、カレアハの子ヨハナンに言った。『そんなことをしてはならない。あなたこそ、イシュマエルについて偽りを語っているからだ。』」(16節)

私たちはすべての人が自分に対して好意を持っていると考えたいと思います。ゲダルヤもそうでした。彼はヨハナンがせっかくイシュマエルが彼の命を狙っていることを告げたのに、ヨハナンの忠告を受け入れようとしませんでした。聖書はとても現実的です。私たちが生きているこの世界は天国ではありません。使徒パウロもこのような言い方をしています。

「できる限りあらゆる人と仲良くしなさい。」(ローマ12:18LB)

私たちはすべての人が自分に好意を当然もってくれると考えるべきではありません。自分に好意をもつことができない人もいることをも受け入れて、できる限り、仲良くする姿勢が大切です。

エレミヤ 39章

「わたしは必ずあなたを助け出す。あなたは剣に倒れず、あなたのいのちはあなたの分捕り物としてあなたのものになる。それは、あなたがわたしに信頼したからだ。―主の御告げ。―」(18節)

 聖書の中で、「信頼」というのはキーワードの一つです。エレミヤを助けたエベデ・メレクは、神に信頼したから、エルサレムが陥落した時に、助け出されました。聖書ははっきりと言います。

「彼に信頼する者は、失望させられることがない。」(ローマ10:11)

イエス・キリストに信頼するか、それとも、信頼しないかが私たちの永遠を左右すると言うのです。私たちは生きていく中で、信頼を裏切られる経験をする中で、誰かを信頼すること自体が難しく感じるようになります。しかし、イエス・キリストは私たちを決して裏切りません。私たちを見放したり、見捨てたりすることはありません。私たちのために十字架で死んでくださった信頼できるお方です。

エレミヤ 38章

「エレミヤは、エルサレムが攻め取られる日まで、監視の庭にとどまっていた。彼はエルサレムが攻め取られたときも、そこにいた。」(28節)

 エレミヤは「涙の預言者」と呼ばれます。彼は再三再四、神の預言を語り、忠告し続けました。しかし、彼は何もすることができず、結局、エルサレムが滅ぼされた時、牢に閉じ込められたままだったと言います。どんなに忠告しても、なすすべもなく忠告した相手が悲劇へと向かってしまう時、私たちは自分の無力さに涙します。エレミヤは失敗者だったのでしょうか?いや、彼の役割は、神のことばを語り続けることだったことを考えますと、彼はまさに、自分の使命をまっとうしたのだと言えると思います。伝道もそうです。私たちは福音を提示する責任はありますが、その人を導けるかどうかは、その人の自由意志です。イエス・キリストを指し示し続けることが、私たちに求められていることです。

エレミヤ 37章

「あなたがたに『バビロンの王は、あなたがたと、この国とを攻めに来ない。』と言って預言した、あなたがたの預言者たちは、どこにいますか。」(19節)
 
「預言」という言葉を軽々しく扱うべきではありません。エレミヤの時代に偽りを預言した自称預言者たちがいました。初代教会の時代も同じです。使徒ヨハネもこのように警告します。

「だれかが『これこそ神様の教えです』とふれ回っても、それをうのみにして、何もかも信じてはなりません。まず、それが確かに神様から出たものかどうかを、試しなさい。」(Ⅰヨハネ4:1LB)

使徒パウロは教会の教職者の役割は一人一人が偽りの教えに振り回されない成長したキリスト者となるよう援助することと言います。

「もはや、だれかから間違ったことを教えられたり、うそを真実のように、たくみに見せかけられたりしても、そのたびに、子供みたいにふらふらと、信じるものを変えてはいけません。」(エペソ4:14LB)

確かなのは聖書です。

エレミヤ 36章

「エフディが三、四段を読むごとに、王は書記の小刀でそれを裂いては、暖炉の火に投げ入れ、ついに、暖炉の火で巻き物全部を焼き尽くした。」(23節)
 
エホヤキム王は、神のみことばを畏れることもなく、自分の力で神の働きを消し去ることができるかのように、エレミヤに与えられた神のことばを書いた巻物を焼き捨てました。彼は聞くことよりも、滅ぼすことを選びました。神のみことばである聖書を、いつの時代にも滅ぼそうとする人たちがいます。実際、多くの人たちが聖書を消滅させようと試みましたが、誰一人、消し去ることは出来ませんでした。エホヤキム王がどんなに聞かず、恐れず、悔い改めることがなくても、神のみことばを止めることはできませんでした。聖書のみことばをどんなに否定し、滅ぼそうとしても、神様の御業を止めることは誰にもできません。今日はクリスマス・イブ。聖書の通り、神の御子イエス・キリストは生まれました。

※ クリスマスおめでとうございます!本日は、19時よりキャンドルサービスです。聖歌隊と弦楽合奏と共に主のご降誕をお祝いしませんか?

エレミヤ 35章

「レカブの子ヨナダブが、酒を飲むなと子らに命じた命令は守られた。彼らは先祖の命令に聞き従ったので、今日まで飲まなかった。ところが、わたしがあなたがたにたびたび語っても、あなたがたはわたしに聞かなかった。」(14節)

 神様はこの箇所で、普通の人であるレカブ人でさえ、250年間先祖の教えに忠実に生きることができたのに、どうしてイスラエルの人々は、たびたび預言者を通して神の教えが語られたのに、その教えに生きるという品性を保つことができなかったのかと問いかけています。つまり、レカブ人には出来たのだから、「人間だから」という言い訳は許されないというのです。品性を保つために、私たちがどのように生きるか日々問われています。ユージーン・ピータソンという神学者は、「規則的な礼拝、誠実な祈り、什一献金」などに対する私たちの決断もこれに含まれると言います。神様が語られていることを無視せずに、聞き従うことができますように。

※ 本日、午後5時より、JR港南台駅高島屋前にてキャロリングを行います!

エレミヤ 34章

 「イスラエルの神、主は、こう仰せられる。『わたしが、あなたがたの先祖をエジプトの国、奴隷の家から連れ出した日に、わたしは彼らと契約を結んで言った。七年の終わりには、各自、自分のところに売られて来た同胞のヘブル人を去らせなければならない。六年の間、あなたに仕えさせ、その後、あなたは彼を自由の身にせよと。しかし、あなたがたの先祖は、わたしに聞かず、耳を傾けなかった。」(13、14節)

奴隷制度は神のみこころではありません。神が造られた尊い人を、物のように扱うこと自体、造り主には耐え難いことであることが今日の箇所から分かります。イスラエルの人は特に、エジプトの奴隷生活から神の恵みの御業によって解放されました。ですから自分達も恵みを与える理由がありました。私たちも神の恵みによって今生かされているのですから、他者に対して恵み深くあるべきです。今日はクリスマス礼拝の日、神の恵みを特に覚えたいと思います。

※ 本日はクリスマス特別礼拝。第二礼拝後は祝会を予定しています。第三礼拝はお休みです。