エレミヤ 33章

「わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え、あなたの知らない、理解を越えた大いなる事を、あなたに告げよう。」(3節)

『わたしを呼べ』なんと力強い言葉でしょうか。私たちは無意識のうちに、誰かを頼りたいと願っていると思います。それが伴侶であったり、政府であったり、友人であったり、恋人であったり・・・。そして相手が自分が願っていたように答えてくれないと分ると、怒りや失望に変わります。本当の意味で、私たちが呼び求めることができる、唯一のお方は神様だけです。神様だけが私たちの本当の必要に答えることができるからです。多くの人は一番確実なお方を素通りし、不確実な存在をよりどころとしようとして不安を抱え、平安を失っています。ちょうどイスラエルの民が神様を無視し、偶像に走ったように。
「イエス様、あなたを呼び求めます。このクリスマス、あなたに立ち返ることができますように。」

エレミヤ 32章

「あなたが彼らの先祖に与えると誓われたこの国、乳と蜜の流れる国を彼らに授けられました。彼らは、そこに行って、これを所有しましたが、あなたの声に聞き従わず、あなたの律法に歩まず、あなたが彼らにせよと命じた事を何一つ行なわなかったので、あなたは彼らを、このようなあらゆるわざわいに会わせなさいました。」(22‐23節)
 
神様はイスラエルの人々のために素晴らしい場所を与えられました。イスラエルの人々の問題は明確でした。それは、まことの神様を知っていながら神様を無視し、御言葉を軽んじ、自分たちの好きなようにしていたことです。事実、神様の名前である「ヤハウェ」と当時の偶像の神々の名前が一緒に刻まれた石板が発見されています。神様のみに信頼して歩むことはチャレンジです。しかし、その一歩を踏み出すことで初めて、神様の素晴らしさを知ることができます。もっともっと、神様の偉大さに目が開かれますように。

エレミヤ 31章

「主は遠くから、私に現われた。『永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに、誠実を尽くし続けた。 おとめイスラエルよ。わたしは再びあなたを建て直し、あなたは建て直される。再びあなたはタンバリンで身を飾り、喜び笑う者たちの踊りの輪に出て行こう。」(13‐14節)
 
 今日の箇所には捕囚後のイスラエルに対する、神様からの素晴らしい回復の約束が記されています。神様の愛は永遠に変わることがありません。試練も、痛みも、その愛ゆえであるということを思う時、神様ご自身が、この回復の時をどれほど待ち望み、喜んでおられるかを感じることができるのではないでしょうか。いま試練の中にある方がおられるでしょうか?神様は、あなたを決してあきらめないお方であることを忘れないでください。神様は、あなたを建て直されます。たとえ今笑顔から遠く感じても、喜び笑う踊りの輪に出て行ける時が来ます。

エレミヤ 30章

「なぜ、あなたは自分の傷のために叫ぶのか。あなたの痛みは直らないのか。あなたの咎が大きく、あなたの罪が重いため、わたしはこれらの事を、あなたにしたのだ。しかし、あなたを食う者はみな、かえって食われ、あなたの敵はみな、とりことなって行き、あなたから略奪した者は、略奪され、あなたをかすめ奪った者は、わたしがみな獲物として与える。わたしがあなたの傷を直し、あなたの打ち傷をいやすからだ。」(15‐17節)

 私たちが我にかえるために、神さまご自身が私たちに痛みを与えることがあります。それは、今日の箇所にあるとおり、私たちを苦しめるためではなく、人生を軌道修正するためです。試練や痛みを通らなければ、なかなか進歩しないところが私たちにあるからです。しかし神様は、私たちが神様に立ち返るならば、その途上で受けた傷を治し、癒してくださるお方でもあります。メスは私たちを傷つけるためでなく、癒すために存在しています。

エレミヤ 28章

「そこで預言者エレミヤは、預言者ハナヌヤに言った。「ハナヌヤ。聞きなさい。主はあなたを遣わされなかった。あなたはこの民を偽りに拠り頼ませた。 それゆえ、主はこう仰せられる。『見よ。わたしはあなたを地の面から追い出す。ことし、あなたは死ぬ。主への反逆をそそのかしたからだ。』」 預言者ハナヌヤはその年の第七の月に死んだ。」(15‐17節)
 
「預言」をどう受け止めるか難しいところがあります。『主はこう言われる』と言われてしまいますと、どう受け止めたらいいのか戸惑うこともあると思います。今日のこのエレミヤ書28章は、私たちがバランスをとるために大切な箇所だと思います。預言は、軽々しく語られるべきではありません。神の名前で語ることに対する恐れが必要です。自分が聞きたい『預言』ではなく、神様が本当に語られていることに焦点を当てることが重要です。そのためにも、いつも聖書のみことばに照らして吟味することができるように、聖書に親しむことが求められます。

エレミヤ 27章

「バビロンの王ネブカデネザルに仕えず、またバビロンの王のくびきに首を差し出さない民や王国があれば、わたしはその民を剣と、ききんと、疫病で罰し、―主の御告げ。―彼らを彼の手で皆殺しにする。 だから、あなたがたは、バビロンの王に仕えることはない、と言っているあなたがたの預言者、占い師、夢見る者、卜者、呪術者に聞くな。」(8―9節)

神様は、ユダの人々に対してご計画を持っておられました。それは、バビロンに捕囚されることを通してユダの人々が生き延び、悔い改め、もう一度やり直す、というものでした。しかし一方で偽預言者や占い師は神様の御言葉とま逆のことを言って人々を安心させ、完全に滅びてしまう道へとユダの人々を誘おうとしていたのです。これこそ、悪魔のやり方です。甘い言葉で私たちを滅びへと導くのです。けれども神様は、どうにかして私たちに命を与えようとしてくださいます。今日は主の日です。まず、主を待ち望みましょう。

エレミヤ 26章

「彼らはウリヤをエジプトから連れ出し、エホヤキム王のところに連れて来たので、王は彼を剣で打ち殺し、そのしかばねを共同墓地に捨てさせた。」(23節)

今日の箇所は何とも血なまぐさい場面です。ウリヤは預言者の一人で、神様の御言葉を曲げずに、ありのままを伝えたエレミヤと同じような人物でした。彼もまたバビロンへの捕囚を預言し、そのために殺されてしまったのです。

いつの時代も、御言葉を曲げずに伝えることは命がけです。聖書に書かれていることをそのまま語ることは、時として大きなプレッシャーを感じます。けれども私たちは地の塩としての役割を絶えず意識しなければならないと思います。柔らかい言葉は大切ですが、御言葉の本質を曲げてまで柔らかく語るべきではありません。神様に知恵をいただきながら、今日も御言葉を伝える一日でありますように。

エレミヤ 25章

「アモンの子、ユダの王ヨシヤの第十三年から今日まで、この二十三年間、私に主のことばがあり、私はあなたがたに絶えず、しきりに語りかけたのに、あなたがたは聞かなかった。また、主はあなたがたに、主のしもべである預言者たちを早くからたびたび送ったのに、あなたがたは聞かず、聞こうと耳を傾けることもなかった。」(3‐4節)

ユダの人々の問題は、神様のことばを軽んじたことにあった、とも言えると思います。彼らは御言葉に慣れてしまい、真剣に御言葉に聞くと言う姿勢を失っていました。私たちがもし、自分の言った真剣な言葉を一日でも無視され続けたらどうでしょうか。怒り、さびしさ、むなしさを感じるのではないでしょうか。この箇所でユダの人々に、二十三年間エレミヤは神様の御言葉を語り続けた、と訴えています。神様の御言葉に対する真剣さを、何があっても失ってはいけません。

エレミヤ 24章

「イスラエルの神、主は、こう仰せられる。この良いいちじくのように、わたしは、この所からカルデヤ人の地に送ったユダの捕囚の民を良いものにしようと思う。」(5節)

 ユダの人々は、バビロニアに捕囚されていきました。彼らは神様から離れ、自分たちの目に良いと見えることを優先して生きることを続けていった結果、「捕囚」されました。ところが、この「捕囚」と言う試練を通して、まことの神のみに信頼することを学ぶ機会が与えられました。旧約聖書を通して、神様の忍耐と尽きることのないあわれみを私たちは見ることができると思います。時々『神様、そこまでしなくても・・・』と思うような箇所もありますが、決して私たちをあきらめない神様から、ガツンと『捕囚』される前に、気付いて神様に立ち返ることができたらどんなに幸いかと思います。神様に立ち返りましょう。

エレミヤ 23章

「わたしは近くにいれば、神なのか。――主の御告げ。――遠くにいれば、神ではないのか。人が隠れた所に身を隠したら、わたしは彼を見ることができないのか。――主の御告げ。――天にも地にも、わたしは満ちているではないか。――主の御告げ。――」(23-24節)

 私たちは、その日の気分のよって神様を近く感じたり、遠くに感じたりすることがあると思います。けれどもこの箇所にあるように神様はいつでも、どのような場所にもおられる方です。私たちがすべての人を拒絶し、全く孤独だと感じるそのところにも、神様は満ちておられます。すべての人に見捨てられたと感じるときに、神様がそばにいてくださることを一番体験できるのかもしれません。いま、その場所で少しの間目をつむり、神様の語りかけを聞く時を持ちましょう。あなたがいるそのところに、神様は満ちておられるのです。