Ⅰテサロニケ 1章

「絶えず、私たちの父なる神の御前に、あなたがたの信仰の働き、愛の労苦、主イエス・キリストへの望みの忍耐を思い起こしています。」(3節)
 
使徒パウロは、テサロニケの教会の特徴を3つ挙げています。それは、信仰と愛と希望です。パウロはコリント人への手紙の中でも、「いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。」と言い、この3つがクリスチャンの基本的な生き方であることを示します。この3つはまた、私たちが取り組むべき課題でもあります。「信仰の働き」とあるように、パウロの言う「信仰」は、神の恵みに応答して働く、能動的なものです。「愛の労苦」とあるように、パウロの言う「愛」とは実践的なものです。「望みの忍耐」とあるように、パウロの言う「望み」とは耐え忍ぶことが求められるものです。もっとも、「主イエス・キリストへの望みの忍耐」とありますように、私たちの望みは主イエス・キリストにあります。今日は主の日。信仰と愛と希望に生きることができますように。

※ 本日の第三礼拝は、町田でもたれる合同聖会に合流するため、お休みです。

哀歌 5章

 「しかし、主よ。あなたはとこしえに御座に着き、あなたの御座は代々に続きます。」(19節)

  人の統治と神の統治の違いに心を留めることは大事なことです。人の統治というのは一時的であり、永遠ではありません。それは、歴史が私たちに教えていることでもあります。預言者は、王が追放されてしまった荒廃したユダの国を嘆きながら、永遠に御座に座し、支配し続けられる永遠の神の存在に心を留めました。この世では、良い指導者が力を発揮する時もあれば、悪い指導者が支配する時もあります。人の統治は、一時的であり、やがて過ぎ去っていくものです。しかし、神の統治は変わることなく、永遠です。この世はどうなってしまうのだろうと思うときも、すべては、神の御手の中にあるということを、私たちは心に留める必要があります。

「主よ、あなたの統治は永遠であることを感謝します。」

哀歌 4章

「助けを求めたが、むなしかった。私たちは見張り所で、見張った。救いをもたらさない国の来るのを。」(17節)
 
 イスラエルの国は、問題が起こるとエジプトの国を頼る傾向がありました。しかし、

「期待に反して、一番あてにしていた国さえ、動こうとしませんでした。」(LB)

残念ながら、そのような事態が、この地上ではよく起こります。一番助けて欲しいときに、助けてもらえないことがあります。(逆も事実で、助けることができないということもあると思います。)それは、他人だけでなく、自分自身にも言えることだと思います。私たちの肉の力も、「救いをもたらさない国」の一つでしかありません。私たちを救うことができるのは、救いの神、イエス・キリストだけです。神様は、

「わたしを呼べ。そうすればわたしはあなたに答える」(エレミヤ33:3)

とおっしゃられます。主に助けを求めましょう。

「主よ、あなたを呼び求めます。助け主よ、来てください。」

哀歌 3章

「私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる。主のあわれみは尽きないからだ。それは朝ごとに新しい。「あなたの真実は力強い。」(23節)

 エレミヤは、神の裁きと言う悲しい知らせの中で、神様のあわれみを思い浮かべ、希望をこの箇所で語ります。彼は、そもそも、神様があわれみ深くなかったら、もっと前に滅んでいたということに気づきます。そして、希望をただ主に置きます。

「神様の救いだけに望みを置いて、静かに待つのはよいことです。」(26節LB)

私たちは自分の周りを取り囲む、問題に疲れ果て、落ち込んでしまう時があります。しかし、神様の救いだけに望みを置くならば、希望があります。主のあわれみは尽きないからです。

「神様は、ご自分を待ち望む者、ご自分を求める者に、とてもよくしてくださいます。」(25節LB)

「主よ、あなたを待ち望みます。あなたの真実は偉大です。」

哀歌 2章

「夜の間、夜の見張りが立つころから、立って大声で叫び、あなたの心を水のように、主の前に注ぎ出せ。主に向かって手を差し上げ、あなたの幼子たちのために祈れ。彼らは、あらゆる街頭で、飢えのために弱り果てている。」(19節)

 私たちは今、日本で起きているいろいろな出来事に、心を痛めることが多いのではないでしょうか。多くの人々は、まさに、弱り果てています。今こそ教会は、大声で叫び、心を水のように主の前に注ぎだす時ではないでしょうか。今、日本の同胞のために祈らなければ、いつ、祈るのでしょうか。

「主よ、私たちの国をあわれんでください。連日、悲しい事件が報道されています。しかし、もし、彼らが主の名を呼ぶことさえできれば解決できたはずの問題が数多くあるのではないでしょうか。主よ、この国に介入してください。あなたの教会を、輝かさせてください。一人でも多くの同胞が、主の名を呼び求められるように。」

エレミヤ 52章

「ユダの王エホヤキンが捕え移されて三十七年目の第十二の月の二十五日に、バビロンの王エビル・メロダクは、彼が即位した年のうちに、ユダの王エホヤキンを釈放し、獄屋から出し、彼に優しいことばをかけ、彼の位をバビロンで彼とともにいた王たちの位よりも高くした。」(31、32節)

 何度にもわたる預言者エレミヤの警告に耳を傾けることがなかったユダの国は滅ぼされ、エルサレムは陥落し、人々はバビロンに捕囚されました。まさに、当然の結果が訪れました。しかし、エレミヤ書はここで終わりません。手遅れと思う状況の中で、エホヤキン王にあわれみの手が差しのべられたことを伝えます。つまり、ダビデ王朝が途切れたわけではなく、神のダビデに対する契約が終わったわけではなかったことを伺わせます。そして、ダビデの家系はイエス・キリストへとつながっていきます。ですから、私たちはどんなにがっかりしても、あきらめてはいけないのです。

エレミヤ 51章

「主は、御力をもって地を造り、知恵をもって世界を堅く建て、英知をもって天を張られた。」(15節)

厳しい預言の合間に、預言者が神様の偉大さについて語っていることは、注目に値すると思います。エレミヤは神様の偉大さを語った後に、こう付け加えます。
「神様に比べたら、人間は知性の低い獣で、一かけらの知恵もありません。」(17節LB)
人間の根本的な問題は、神様よりも自分の方がすぐれていると思い込んでしまうことです。アダムとエバの問題もまさにここにありました。彼らへの誘惑の言葉は、
「あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」(創世記3:5)
でした。

今日は主の日、へりくだって主を礼拝することによって一週間をはじめたいと思います。

「主よ、謙そんに、神を神として受け入れることができるように助けてください。」

エレミヤ50章

「彼らを贖う方は強く、その名は万軍の主。主は、確かに彼らの訴えを支持し、この国をいこわせるが、バビロンの住民を震え上がらせる。」(34節)

  バビロン帝国に捕囚されていったイスラエルの人々を贖う権利をもつお方は、強く、その名は万軍の主だと、傲慢になっていたバビロン帝国に告げます。

「彼らを救い出す者は強く、その名は天の軍勢の主だ。わたしは彼らの訴えを聞き、彼らが自由の身となり、再びイスラエルの地で静かに暮らせるように取り計らう。」(LB)

まさに、これが、この後に起こったことでした。

ですから私たちは確信をもって今、信じることができます。私たちを救い出す主は強く、その名は、天の軍勢の主です。私たちの訴えを、祈りを聞き、イスラエルの人々を導いたように、私たちを最善へと導いてくださいます。

「万軍の主、私を贖う方、救い主、イエス様、あなたは強く、私たちの祈りを聞いてくださることを感謝します。」

エレミヤ 49章

「さあ、安心して住んでいるのんきな国に攻め上れ。――主の御告げ。――そこにはとびらもなく、かんぬきもなく、その民は孤立して住んでいる。」(31節)

この箇所を現代訳では、『心に何の用心もない』と記されていますが、私たちの置かれている状況をよく現わしていると思います。それは、わたしたちが日々の歩みの中で、様々な情報にあまりにも無防備であり、御言葉を土台として取捨選択をしていないという現状とも言えるのではないでしょうか。心に締まりがない、というと言いすぎかもしれませんが、私たちがさらされている洪水のように押し寄せてくる情報は必ずしも私たちの益となるわけではありません。落ち込んでしまうような情報に時間を割くよりも、聖書を読み、祈り、神様のみこころを知る時間の方が、ずっと重要で充実していると思いませんか?この年、もっと聖書に親しむことができますように。

エレミヤ48章

「主のみわざをおろそかにする者は、のろわれよ。」(10節)

 今日の箇所は、強烈な箇所です。LBでは、こう訳しています。
「わたしが与えた仕事に手をつけない者は、のろわれよ。」
使徒パウロは言いました。
「うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。」(ピリピ3:13,14)
信仰生活と言うのは、生ける神イエス・キリストとの関係です。イエス・キリストとの関係を築き上げるという目標を目指して一心に走るということをおろそかにするというのは、実は何の益にもならないというのが今日の箇所が私たちに伝えていることではないでしょうか。キリストとの関係を自分の人生の残り物ですまそうとするのならば、聖書が約束しているその豊かな人生を体験することは難しいことです。