エレミヤ47章

「パロがまだガザを打たないうちに、ペリシテ人について、預言者エレミヤにあった主のことば。」(1節)

 ユダの残された民は、どこの国へ行こう、どの国に頼ろうかと探していました。かつては敵であったペリシテ人のもとに助けを求めていこうとしたときに、神様はエレミヤを通して、ペリシテも滅びる運命にあることを告げます。神様は私たちが神様以外の何かに頼ろうとするとき、その寄りかかろうとしたものを取られることがよくあります。神様だけを頼るように仕向けることが多々あります。私たちは寄りかかれるような誰かを求めていないでしょうか。頼れるような何かを求めていないでしょうか。そのような人生はもろく、崩れやすいものです。ただ、神を求め、私たちのために命さえも捨ててくださったキリストを信頼し、聖霊の導きと助けに頼って生きていきましょう。

エレミヤ 46章

「わたしのしもべヤコブよ。恐れるな。――主の御告げ。――わたしがあなたとともにいるからだ。わたしは、あなたを追いやった先のすべての国々を滅ぼし尽くすからだ。わたしはあなたを滅ぼし尽くさない。公義によって、あなたを懲らしめ、あなたを罰せずにおくことは決してないが。」(28節)

 LBでは、こう訳しています。

「わたしのしもべヤコブよ、恐れるな。わたしがついている。わたしは、おまえの寄留していたすべての国々を滅ぼすが、おまえには手をかけない。懲らしめはするが、それもお前の曲がった性根をまっすぐにするためだ。」

興味深いことに、ヘブル12章にこういう箇所があります。

「わたしの子よ。主に懲らしめられて、腹を立ててはなりません。主にあやまちを指摘されて、気落ちしてはなりません。主が懲らしめるのは、あなたが憎いからではなく、あなたを愛しているからです。」(5,6節LB)

「主よ、あなたの訓練を謙遜に受けとめられますように。」

エレミヤ 45章

「ネリヤの子バルクが、ヨシヤの子、ユダの王エホヤキムの第四年に、エレミヤの口述によってこれらのことばを書物に書いたときに、預言者エレミヤが彼に語ったことばは、こうである。」(1節)

45章はとても短い箇所ですが、そのすべてが書記バルクに関するものです。3節にはこのようなバルクの嘆きが記されています。

『ああ、哀れなこの私。主は私の痛みに悲しみを加えられた。私は嘆きで疲れ果て、いこいもない。』

彼はエレミヤと共に同胞の痛み、苦しみ、そして不誠実を体験してきました。鬱状態に彼は苦しんでいたようにも見えます。しかし、神の器の側に立ち続けた彼に、神様はこう語ります。

「わたしはこの国民に大きな災いを下すが、おまえには報いとして、どこへ行っても守ってやることにする。」(5節LB)
彼の名前の入った文書が近年考古学者によって発掘され、その存在が確かであったことが確認されています。神の立てられた器の側に立ち続けた彼の名は今も覚えられています。

エレミヤ 44章

※ 本日の第三礼拝(18時)は、お休みです。

「彼らは今日まで心砕かれず、恐れず、わたしがあなたがたとあなたがたの先祖の前に与えたわたしの律法と定めに歩まなかった。」(10節)

バビロニアによって南ユダ王国が滅ぼされた後、エジプトに逃れたユダの人々に神様は語られました。彼らの本当の問題は、神に立ち返ろうとしなかったことだと。心砕かれ、神のみことばに生きようとしなかったことだと。しかし、彼らは問題をすり替えました。偶像崇拝をしていた時の方が自分たちは満ち足り、幸せであった、と言います。悪魔が私たちの人生を破壊するとき、神様から離れた状態で一時的に良いものを見せます。それはまるでギャンブルを始めたばかりのころに勝って味をしめ、やめられなくなってぬかるみにはまっていく様子と似ています。そうして、人生を台無しにしてしまうのです。主は言われます。

「人よ。何が良いことなのか。主は何をあなたに求めておられるのか。それは、ただ公義を行ない、誠実を愛し、へりくだってあなたの神とともに歩むことではないか。」(ミカ6:8)

 

ピレモン書

「私はあなたの愛から多くの喜びと慰めとを受けました。それは、聖徒たちの心が、兄弟よ、あなたによって力づけられたからです。」(7節)

ピレモンのパウロに対する愛というのは、具体的な支援のことだったと考えられます。パウロは、ピレモンの支援によって励まされました。「聖徒たちの心」と訳された言葉は、「内臓」を意味する言葉で、「感情の深奥の座」を意味することばです。支援を受けるとき、働き人は本当に元気づけられます。必要が満たされることも大きなことですが、それ以上に、自分の働き、存在が認められていると感じることができるからだと思います。「あなたによって」というのは、「あなたを通して」という意味です。神様は私たちを通して、私たちを用いて、聖徒たちを力づけようとします。

「神は、あなたがたを、常にすべてのことに満ちたりて、すべての良いわざにあふれる者とするために、あらゆる恵みをあふれるばかり与えることのできる方です。」(Ⅱコリント9:8)

ピレモン書

「それは、主イエスに対してあなたが抱いている信仰と、すべての聖徒に対するあなたの愛とについて聞いているからです。」(5節)

今日の箇所は、キアズム(abba)という技法が使われていて、

「愛・信仰・主イエスに・聖徒たちに」

という語順になっています。パウロがピレモンを覚えるために、神様に感謝せずにいられない理由は、まず、彼の主イエスに対する信仰、忠実さのゆえでした。そして、ピレモンの聖徒たち、すなわち、クリスチャンたちに対する愛のゆえでした。十字架が縦の線と横の線があるように、私たちは神との縦の関係と、他のクリスチャンたちとの横の関係の両方が必要です。聖書は言います。

「神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。神を愛する者は、兄弟をも愛すべきです。私たちはこの命令をキリストから受けています。」(Ⅰヨハネ4:20,21)

ピレモン書

天の御座に着いておられる方は笑う。(詩篇2:4)
Heaven-throned God breaks out laughing.. (MSG)

「私は、祈りのうちにあなたのことを覚え、いつも私の神に感謝しています。」(4節)

 新しい年、ぜひ、名前のリストを挙げて祈ることをお勧めしたいと思います。パウロは祈りのリストをもっていて、ピレモンの名前が出てくる度に、神に感謝せずにいられなかったということです。名前を挙げることによって私たちはその人のことを覚えることができますし、そのようにして神の国はこの地に現されていきます。

「いつも私の神に感謝しています。」

とパウロは言います。ジョン・クゥアンという牧師がこんなことを言っています。

「感謝は、結局のところ選択である。感謝は神を喜ばせるが、不平はサタンを喜ばせる。感謝は神様のみこころであり、不平はサタンの願いである。」

この年、祈りの中で、神様が出会わせてくださった一人一人を感謝することを選んでいこうではないでしょうか。すべて、天からの恵みのしずくですから。

ピレモン書

※ 本日の新年礼拝は13時半からです。

「姉妹アピヤ、私たちの戦友アルキポ、ならびにあなたの家にある教会へ。」(2節)

新年あけましておめでとうございます。

今年もよろしくお願いします。

新しい年、少しの間、エレミヤ書をお休みし、ピレモン書から耳を傾けたいと思います。

文字通り囚人だったパウロが、コロサイの教会の牧師ピレモンに手紙を書きました。アピヤは、ピレモンの妻、牧師婦人だったと言われます。アルキポは、ピレモンたちの子供で、家族で、コロサイの教会で奉仕していたのではと言われます。パウロはアルキポを「戦友」、「共闘者」と呼びました。これは、同じ衝突を体験していること。同じ危険に直面していること。同じゴールのために戦っていることを意味する言葉です。パウロはアルキポに、コロサイ書でこう言っています。

「主にあって受けた務をよく果すように」(4:17)

新しい年、福音の「共闘者」として、主にあって受けた務めを果たしていくことができますように。