エゼキエル 33章

「あなたが、悪者にその道から立ち返るよう警告しても、彼がその道から立ち返らないなら、彼は自分の咎のために死ななければならない。しかし、あなたは自分のいのちを救うことになる。」(9節)

「伝える責任」があると聖書は言います。伝えられたことにどう反応するかは、その人次第ですが、伝える責任は、伝える側にあると言います。私たちは自分たちの力で人を救うことはできません。しかし、伝えることはできます。もちろん、「ただ伝えればいい」という姿勢は正しくないと思います。相手に伝わるように、工夫して伝える努力はすべきだと思います。ですから教会は、あらゆる努力をして何とか福音を一人でも多くの人に伝えようと努めます。直接伝える方法もあれば、橋渡しをするような前伝道もあります。いずれにせよ、キリストの福音を伝えることは、教会の使命です。「人々にイエス・キリストを指し示すことによって、神に栄光を帰す」ことができますように。

エゼキエル 32章

「そこには、エドムとその王たち、そのすべての族長たちがいる。彼らは勇敢であったが、剣で刺し殺された者たちとともに、割礼を受けていない者たち、および穴に下る者たちとともに横たわる。」(29節)

この世の富、地位や名誉も、この世の人生を終えたらまったく関係ありません。永遠のいのちは、どんなに財産があっても、地位や名誉があっても、買うことはできません。現在、博物館に置いてあるミイラを見るときに、皮肉を感じさせられます。ミイラにしてもらいたかった人々は、その富と地位と名誉のゆえに、永遠のいのちを求めてミイラにしてもらったのに、今では、その亡骸は、後世の人々の見世物になっているのです。しかも彼らの霊魂は、彼らの地位を主張できるようなところにはありません。真の「割礼」とは、外見上の意味ではなく、神様との契約関係があるということを意味しています。つまり、キリストを信じているならば、確実に天国に行けるということです。

エゼキエル 31章

「エデンの木のうち、その栄えと偉大さで、あなたはどれに似ているだろうか。あなたもエデンの木とともに地下の国に落とされ、剣で刺し殺された者とともに、割礼を受けていない者たちの間に横たわるようになる。これは、パロと、そのすべての大軍のことである。―神である主の御告げ。―」(18節)

神様はエジプトに、アッシリヤ帝国に何が起こったか、そこから学ぶように言います。栄華を極めたアッシリヤ帝国を神様が落とされたことを思い起こさせ、アッシリヤと自分は違うとどうして言えるのかと問います。私たちも歴史から学ぶことはとても大切です。歴史を通じて、神様がどのように国々に働かれたか、私たちは学ぶ必要があります。基本的には箴言14:34にこうあります。
「だれもが神様を恐れ、正しく生きれば国はよくなり、罪がはびこると国民は恥をかきます。」(LB)

エゼキエル 29章

「神である主はこう仰せられる。エジプトの王パロよ。わたしはあなたに立ち向かう。あなたは、自分の川の中に横たわる大きなわにで、『川は私のもの。私がこれを造った。』と言っている。」(3節)

 エジプトにとっての川は、ナイル川を指しています。エジプトはナイル川を中心に発展した地ですが、別に、エジプトの国がナイル川を造ったわけではありません。創造主なる神が、ナイル川も造られたのです。このエジプトの傲慢さのゆえに、神の裁きがくだるという預言がこの29章で語られている内容です。私たちも気をつけないと同じ間違いを犯すことがあるのではないでしょうか。よくよく考えて見ますと、神様の恵みのゆえに今があるのにも関わらず、すべてを自分の功績にしてしまっていることはないでしょうか。神様の前にへりくだり、神の驚くばかりの恵みを賛美しようではありませんか。今あるは神の恵みです。

 

エゼキエル 28章

「人の子よ。ツロの君主に言え。神である主はこう仰せられる。あなたは心高ぶり、『私は神だ。海の真中で神の座に着いている。』と言った。あなたは自分の心を神のようにみなしたが、あなたは人であって、神ではない。」(2節)

神は神であり、人は人です。人は神になることはできません。アダムとエバの罪と言うのは、神になろうと思い上がったことでした。サタンと呼ばれる悪魔もまた、いわゆる天使の一人でしたが、神になろうと思い上がって落とされました。この箇所で、ツロの王に対する預言が、11節からサタンに対する預言に変わります。
「あなたの心は自分の美しさに高ぶり、その輝きのために自分の知恵を腐らせた。そこで、わたしはあなたを地に投げ出し、王たちの前に見せものとした。」(17節)
人が高ぶって自分を神のようにみなすことは、まさに、サタンに騙されている状態だと言えます。
今日は主の日。主に礼拝と賛美を捧げることは、神を神として認めることです。

エゼキエル 27章

「あなたはツロに言え。海の出入口に住み、多くの島々の民と取り引きをする者よ。神である主はこう仰せられる。ツロよ。『私は全く美しい。』とおまえは言った。」(3節)

ツロは、パレスチナ北部の地中海沿岸にあった古い商業都市国家でした。LBはこう訳しています。
「ああ、世界貿易の中心地、強大な港町よ。神様のお告げを聞きなさい。おまえは『世界でいちばん美しい町だ』と自慢している。」
ツロの問題は傲慢でした。神様は傲慢な者をしりぞけられるお方です。ですから、聖書にはっきりとこう記されています。
「みな互に謙遜を身につけなさい。神は高ぶる者をしりぞけ、へりくだる者に恵みを賜うからである。だから、あなたがたは、神の力強い御手の下に、自らを低くしなさい。時が来れば神はあなたがたを高くして下さるであろう。」(Ⅰペテロ5:5,6口語訳)

「主よ、どうかいつもあなたの御手の下で、自分を低くすることができますように。」

エゼキエル 26章

「人の子よ。ツロはエルサレムについて、『あはは。国々の民の門はこわされ、私に明け渡された。私は豊かになり、エルサレムは廃墟となった。』と言ってあざけった。それゆえ、神である主はこう仰せられる。ツロよ。わたしはおまえに立ち向かう。」(2,3節)
 
 エルサレムの崩壊を喜んだツロに対して、神が裁きを宣告しています。彼らもまた、紀元前332年、アレキサンダー大王によって滅ぼされます。ここでは、人の不幸を喜ぶ姿勢に対して、神が警鐘を鳴らしているとも言えると思います。たとえそれが自分の競争相手が自滅したということであったとしても、私たちはそれを喜ぶべきではありません。箴言にもこういう箇所があります。

「敵が苦しむのを喜んではいけません。失敗したからといって、うれしがってはいけません。そんなことをしたら神様が気を悪くし、彼らを罰するのをやめるかもしれません。」(24:17,18LB)

エゼキエル 25章

「神である主はこう仰せられる。モアブとセイルは、『見よ、ユダの家は異邦の民と変わらない。』と言った。」(8節)

モアブの国が裁かれる原因は、イスラエルの国も、ほかの国もまったく変わらないと言っているからだと言います。現代風に言いなおすならば、キリスト教も他の宗教も同じ、何も違いはないと言っているからだと言います。つまり、このような宗教多元主義の考え方は決して新しいものではなく、昔から存在していたということです。このグローバル世界において「共存」を考えることはとても大切なことです。しかし、根本的な神理解が違うのにもかかわらず、すべて同じとすることはできません。そして今日の箇所が私たちに伝えていることは、それはまた、創造主なる神に対して失礼なことでもあるということです。父なる神、子なる神キリスト、聖霊の三位一体なる神こそ、唯一の神です。

エゼキエル 24章

「あなたのみだらな汚れを見て、わたしはあなたをきよめようとしたが、あなたはきよくなろうともしなかった。」(13節)

神様は私たちの人生がきよめられることを願っています。神様は泥沼のような中から私たちを引き上げ、きよめてくださるお方です。しかし、残念ながら、ある人々はまた、その泥沼に帰って行ってしまい、再び身を汚してしまいます。神様は私たちの意志を尊重されますから、その人の間違った選択に対する報いを受けることを許されます。LBでは、
「わたしはおまえをきよめようとしたが、おまえが拒んだので」
とあります。しかし、それは神様がその人を見捨てたわけではなく、その人が本当の意味で悔い改めて、変わることを願われているからです。神様は、私たちが悔い改めて、神様の助けを求めるならば、いつでも私たちを助ける準備ができています。放蕩息子を待っていた父親のように、待っておられます。

エゼキエル 22章

「わたしがこの国を滅ぼさないように、わたしは、この国のために、わたしの前で石垣を築き、破れ口を修理する者を彼らの間に捜し求めたが、見つからなかった。」(30節)
 
 神様は、義なる神とその国の間、破れに立って、とりなしの祈りをする人を捜していると言います。当時のイスラエルの国には、残念ながら見つかりませんでした。今も、この世の悪に対して、嘆くだけでなく、アブラハムのように「滅ぼさないでください」と、とりなして祈る人が求められています。歴史を通じて、人知れず破れ口に立ち、とりなしの祈りを捧げてきた人たちがいて、今があります。自分は無力だと思います。しかし、神はこの国のために祈る人を捜し求められています。破れに立って、この国のためにとりなしの祈りを捧げましょう。
「主よ、日本の国をあわれんでください。イエス・キリストのゆえに、あわれみを注ぎ、リバイバルを与えてください。」