エゼキエル 21章

※ 雪の状況は大丈夫でしょうか?教会の近辺のバスは動いているようです。まだ、足元が悪いところが多々あります。礼拝に来られる際には、お気をつけください。

 

「廃墟だ。廃墟だ。わたしはこの国を廃墟にする。このようなことは、わたしが授ける権威を持つ者が来るまでは、かつてなかったことだ。」(27節)
 
 権威は神様が授けるものです。広い意味で言えば、パウロがローマ13章で言うように、

「神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものです。」

しかし、狭い意味で言えば、真の権威をもつ方は、イエス・キリストです。そして、この箇所は、この世界の終りに神に逆らうすべての権威は絶ち滅ぼされ、すべての権威は本来あるべきところ、メシヤであるイエス・キリストに渡されるということを預言しています。現在、立てられている指導者を尊重し祈ることも聖書が教えているように大切なことです。しかし、真の権威はイエス・キリストにあることを認め、イエス・キリストが自分を、この地を治めてくださるように生きることも大切です。今日は主の日、王の王なる主に礼拝を捧げましょう!

エゼキエル 20章

「そこで、私は叫んだ。「ああ、神、主よ。彼らは私について、『彼はたとえ話をくり返している者ではないか。』と言っています。」」(49節)

エゼキエルのもとに、イスラエルの長老たちが主の御心を知ろうとしてやってきました。その彼らに対し、神様はイスラエルの人々がどれほど神様をないがしろにし、数え切れないほど裏切りを続けてきたかということを語り、その後の厳しい現実を宣告します。ところが神様の御言葉を聞きに来たはずの長老たちは、それを現実とは思わず、エゼキエルがたとえ話を繰り返し話しているとしか受け止めませんでした。御言葉をきく私たちの姿勢に対する警告であるとも受け取ることができます。真剣に語られている神様の御言葉に対して、真剣に聞く姿勢が求められるのではないでしょうか。でなければ長老たちのように、ただの「お話」で終わってしまいます。

エゼキエル 19章

「火がその枝から出て、その若枝と実を焼き尽くした。もう、それには王の杖となる強い枝がなくなった。」これは悲しみの歌、哀歌となった。」(14節)

メッセージという訳では、これは「ブルース」の歌詞だと訳しています。それほど歌詞自体には希望を見出せません。しかし、私たちが

「何に信頼しているか」

という大切な問いかけがなされています。この19章では、強いライオンと強い枝をもつぶどう園が登場します。これはダビデ王朝を象徴していると考えられます。しかし、ライオンも連行され、ぶどう園も引き抜かれてしまいます。私たちを救うことができるのは、強い経済でもなく、強い政府でもありません。イエス・キリストです。イエス・キリストに信頼する者は失望することはありません。イエス・キリストは言われます。

「あなたがたは悲しむが、しかし、あなたがたの悲しみは喜びに変わります。」(ヨハネ16:20)

エゼキエル 18章

「あなたがたは、イスラエルの地について、『父が酸いぶどうを食べたので、子どもの歯が浮く。』という、このことわざをくり返し言っているが、いったいどうしたことか。」(2節)
 
面白いことわざですが、ポイントは、自分が問題の中にいる原因は父親にあるという意味です。自分自身の問題を棚上げにして、父親の世代のせいにしていたことを、神は否定されました。

「わたしは誓って言う。―神である主の御告げ。―あなたがたはこのことわざを、イスラエルで、もう決して用いないようになる。見よ、すべてのいのちはわたしのもの。父のいのちも、子のいのちもわたしのもの。罪を犯した者は、その者が死ぬ。」(3,4節)

神のポイントは、誰かのせいにしてはいけないということです。

「しかし、悪者でも、自分の犯したすべての罪から立ち返り、わたしのすべてのおきてを守り、公義と正義を行なうなら、彼は必ず生きて、死ぬことはない。」(21節)

本人の選択が問われます。

エゼキエル 17章

「このとき、野のすべての木は、主であるわたしが、高い木を低くし、低い木を高くし、緑の木を枯らし、枯れ木に芽を出させることを知るようになる。主であるわたしが語り、わたしが行なう。」(24節)

22‐24節は、「野のすべての木」が国々を象徴していて、終わりの時に、国々がメシヤ(若枝)の支配に服するという約束です。この約束を期待する理由は、最後の部分にあります。

「主であるわたしが語り、わたしが行なう。」

岩波訳ではこう訳しています。

「わたしヤハウェが〔これを〕語ったのである。わたしが〔これを〕実行する。」

神様が語ったならば、神様が責任をもって実行されます。神様がご自身の言葉に責任をもたれます。ですから、聖書のみことばを宣言して祈ることには意味があります。「枯れ木に芽を出させること」ができる神様は、私たちの人生にも新しいはじまりを与えることができます。どんなに未来が枯れ木のように見えても、主に期待しましょう。

エゼキエル 16章

「その美しさのために、あなたの名は諸国の民の間に広まった。それは、わたしがあなたにまとわせたわたしの飾り物が完全であったからだ。―神である主の御告げ。―ところが、あなたは、自分の美しさに拠り頼み、」(14、15節)

16章の前半は、イスラエルの子たちが神に見出されるまでどんなに望みのない状態だったかが記されています。神はイスラエルの人々を洗いきよめ、祝福し、美しくしました。しかし、残念ながらイスラエルの人々は、その美しさに拠り頼んで、神を忘れ、霊的な姦淫の罪に陥ってしまいました。これは今も起こりうることです。神が誰かを祝福し、その人が自分では到達できないような地位に立てることがあります。しかし、残念ながら、あたかも自分の力で達成したかのように、神の賜物を神の国のためではなくこの世のために使ってしまうことがあります。神に栄光を帰すために賜物が与えられたことを忘れることがありませんように。

エゼキエル 15章

「人の子よ。ぶどうの木は、森の木立ちの間にあって、その枝が、ほかの木よりどれだけすぐれているのか。」(2節)
 
イスラエルの国はぶどうの木としてたとえられています。ぶどうの木自体は、リンゴの木のようなしっかりとした木ではないので、実を結ぶことがなければ、薪の木としての利用ぐらいしかできない木です。つまり、他の木より勝っている存在ではないと言うことです。キリストは、ヨハネ15章で、キリストがぶどうの木で、私たちは枝だと言いました。キリストにつながってさえいれば、いつか必ず実を結ぶことができると。しかし、キリストから離れてしまうなら、実を結ぶことができない、人生の意味を見失うと。私たちは他者と比較するのではなく、キリストとの関係に、心を注ぐ必要があります。使徒パウロが、

「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。」(ピリピ4:13)

と言ったのはそういうことだと思います。

エゼキエル 14章

※ 栄シャローム福音教会の前の通りもまだ雪に覆われていて、チェーンか専用タイヤでなければ車は難しいと思います。足元も悪くなっていますので、礼拝に来られる方は、お気をつけください。

「たとい、そこに、ノアとダニエルとヨブがいても、―わたしは生きている。神である主の御告げ。―彼らは決して息子も娘も救い出すことができない。彼らは自分たちの義によって自分たちのいのちを救い出すだけだ。」(20節)

ノアは、旧約聖書で、箱舟を造って彼と彼の家族と家畜を救うのに用いられた人物です。ダニエルは、エゼキエルと同時代の預言者です。ヨブは、旧約聖書のヨブ記に出てくる義人と呼ばれた人物です。神様は、そんな旧約聖書に出てくる代表的な人物であっても、自分の家族さえ救うことはできないと言います。ですからなおさら私たちには、誰かを救うことなどできるはずがありません。自分する自分で救うことはできないのです。ですから、神の子、イエス・キリストは、私たちのためにこの地に来て、私たちの身代わりとなって十字架で死に、葬られ、よみがえる必要がありました。イエス・キリストだけが救い出すことができます。今日は主の日。主を礼拝しましょう!

エゼキエル 13章

「それゆえ、神である主はこう仰せられる。あなたがたは、むなしいことを語り、まやかしの幻を見ている。それゆえ今、わたしはあなたがたに立ち向かう。―神である主の御告げ。―」(8節)

2,3節をLBではこう訳しています。
「ちりの子よ、イスラエルの預言者どもに預言せよ。彼らは自分かってに幻を考え出し、わたしが何も語らないのに、神のお告げだと主張している。そんな連中はのろわれるべきだ!」
「主がこう言われる」と言う時には恐れと細心の注意が必要であるということです。もし、神様が語ってもいないのに、「主がこう言われる」というならば、それは呪いを招くような内容だからです。聖書は神の言葉ですから、聖書と矛盾するようなことを語られません。ですから、聖書の御言葉によって、それが神からかどうか吟味する必要があります。
「預言する者も、ふたりか三人が話し、ほかの者はそれを吟味しなさい。」(Ⅰコリ14:29)

エゼキエル 12章

「それゆえ、神である主はこう仰せられると言え。『わたしは、あのことわざをやめさせる。それで、彼らはイスラエルでは、もうくり返してそれを言わなくなる。かえって、その日は近づき、すべての幻は実現する。』と彼らに告げよ。」(23節)
 
エゼキエルはエルサレムの陥落を預言しました。しかしなかなか起こらないので、人々はその日は延期されて、無くなったと、笑いものにしました。それで神は、その預言が成就する日が来たと告げました。ペテロの時代にも似たような状況がありました。
「主が来るという約束は、いったいどうなったのだ。父たちが死んでこのかた、世の中のことは、天地創造の初めから何一つ変わらないではないか。」「ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです。」(Ⅱペテロ3:4,9新共同訳)
主の日は必ず来ます。その日を意識しつつ歩めますように。