アモス 7章

「そのいなごが地の青草を食い尽くそうとしたとき、私は言った。「神、主よ。どうぞお赦しください。ヤコブはどうして生き残れましょう。彼は小さいのです。」主はこのことについて思い直し、「そのことは起こらない。」と主は仰せられた。」(2,3節)

イザヤ書にこういう箇所があります。

「主は人のいないのを見、とりなす者のいないのに驚かれた。」(59:16)

しかし、今日の箇所では、アモスがイスラエルの人々のために必死でとりなす姿を見ることができます。そして、神がアモスのとりなしの祈りに応えてくださっていることを見ます。私たちは社会の問題に対して心を痛めるだけでなく、アモスのように祈ることが求められています。私たちが祈るときに、神がアモスの祈りに応えられたように、状況を変えてくださいます。ですから聖書は言います。

「あなたがたは、求めないから得られないのだ。」(ヤコブ4:2口語訳)

祈り求めましょう!

アモス 6章

「あなたがたは、ロ・ダバルを喜び、「私たちは自分たちの力でカルナイムを取ったではないか。」と言う。」(13節)

LBではこう訳しています。

「無に等しい者であるのに、偉い者であるかのようにうぬぼれ、有頂天になっている。ちっぽけな力を、たいそうなご自慢にしている。」

当時の北イスラエル王国の問題は、この箇所にも明確なように傲慢でした。しかし、この問題はイスラエルの国だけではないと思います。私たちも、心に留めるべき内容だと思います。私たちの心の中にも、自分たちの力で成し遂げたとうぬぼれやすい体質があると思います。イエス様は言いました。

「わたしのうちに生きるよう心がけなさい。またわたしが、あなたがたのうちに生きられるようにしなさい。枝は幹につながっていなければ、実を結べないでしょう。同じようにあなたがたも、わたしから離れたら、実を結ぶことなど、とてもできません。」(ヨハネ15:4LB)

アモス 5章

「まことに主は、イスラエルの家にこう仰せられる。『わたしを求めて生きよ。ベテルを求めるな。ギルガルに行くな。ベエル・シェバにおもむくな。ギルガルは必ず捕え移され、ベテルは無に帰するからだ。』」(4,5節)

ベテルもギルガルもベエル・シェバも、当時の偶像礼拝の中心地でした。イスラエルの人々は、まことの神を求めることよりも、目に見える偶像を参拝していました。問題は、偶像は人間が制作したものであり、制作した側の人間を制作された側の偶像は助けることができないということです。しかし人は、その代替品に満足してしまい、生けるまことの神を求めることをしませんでした。しかし、私たちのすべての必要に本当の意味で唯一答えることができるのは、生ける神イエス・キリストだけです。人にはできないことも、神にはできます。ですから、私たちは、イエス・キリストを指し示していく必要があります。イエス・キリストを求めるならば、望みがあります。

アモス 4章

「見よ。山々を造り、風を造り出し、人にその思いが何であるかを告げ、暁と暗やみを造り、地の高い所を歩まれる方、その名は万軍の神、主。」(13節)

 聖書の神は、

「山を造り、風を創造し、人にその思いのいかなるかを示」(口語訳)す

と言います。英訳では

「彼の思いを人類に現わす」(NLT)

と訳します。

「神の思い」はどのように現わされたのでしょうか?

「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」(ヨハネ1:1)

つまり、イエス・キリストを通して現わされました。

イエス・キリストは、私たちの罪のために死なれるためだけでなく、神がどういうお方か現わすために来られました。

私たち人間は、すぐ、自分なりの神々を作り上げてしまいます。

ですから、

「ことばは人となって、私たちの間に住まわれ」(ヨハネ1:14)る

必要がありました。

私たちは、イエス・キリストに現わされた神を受け入れることが大事です。

アモス 3章

「ふたりの者は、仲がよくないのに、いっしょに歩くだろうか。」(3節)

神と共に歩みたいのならば、神との関係を築き上げることが大事です。LBはこう訳しています。

「だれが悪いことをしている者と、仲良く肩を並べて歩けるだろうか。」

つまり、神に合わせてもらうのではなく、私たちの側が神に合わせる姿勢が必要ということです。神に信頼して、神に委ねる姿勢がなければ、神と共に歩むことはできません。もっとも、神の方が、私たちの方に歩み寄られました。神の子、イエス・キリストは、私たちが一緒に歩くことができるように、私たちのすべての罪を背負って十字架にかかり、死んでくださいました。そして、イエス様は言います。

「わたしはやさしく、謙そんな者ですから、それこそ負いやすいわたしのくびきを、わたしといっしょに負って、わたしの教えを受けなさい。そうすれば、あなたのたましいは安らかになります。」(マタイ11:29LB)

アモス 2章

「わたしは、あなたがたの子たちから預言者を起こし、あなたがたの若者から、ナジル人を起こした。イスラエルの子らよ。そうではなかったのか。―主の御告げ。―それなのに、あなたがたはナジル人に酒を飲ませ、預言者には、命じて、預言するなと言った。」(11, 12節)

ナジル人とは、ある期間特別の仕方で神に仕えることを約束した人です。その期間は、30日から全生涯までさまざまでしたが、髪を切らず、お酒を飲むことをしませんでした。ですから、ここで酒をナジル人に飲ませたということは、罪を犯させたということです。聖書は言います。

「確かに、キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます。」(Ⅱテモテ3:12)

この世界で敬虔に生きようとする中で、邪魔や誘惑があることを心に留める必要があります。しかしたとえ失敗しても、神はセカンドチャンスの神ですから、神の恵みに支えられながらあきらめないことも大事です。

アモス 1章

「テコアの牧者のひとりであったアモスのことば。これはユダの王ウジヤの時代、イスラエルの王、ヨアシュの子ヤロブアムの時代、地震の二年前に、イスラエルについて彼が見たものである。」(1節)

 アモスは、南ユダ王国に住む牧者でした。つまり、訓練を受けた預言者でも、地位のある指導者でもありませんでした。しかし、神はアモスを呼び、語り、用いました。聖書に、こういう箇所があります。

「神様は、この世では愚か者、無価値な者と思われている人々を、わざわざお選びになりました。それは、この世で知恵ある者、立派な人とされている人々を辱めるためです。神様は、いわゆるこの世で見下されている者、全く取るに足りない者を選び、そんな人々を役立てることによって、世間では大物と言われる人を、なきに等しい者とされたのです。ですから、どこのだれであっても、神の御前で自慢することはできません。」(Ⅰコリント一・二七‐二九LB)

どんな人でも、その心が神と一つとなっている人を、神は用いられます。

2テモテ 4章

「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。」(2節)

使徒パウロが、若い伝道者であるテモテに命じたことは、みことばを宣べ伝えることでした。ですから、キリスト教会の主日礼拝の中心は、みことばを宣べ伝えること、聖書のメッセージです。使徒パウロは、エペソの長老たちにこう言いました。

「ですから、私はきょうここで、あなたがたに宣言します。私は、すべての人たちが受けるさばきについて責任がありません。私は、神のご計画の全体を、余すところなくあなたがたに知らせておいたからです。」(使徒20:26,27)

「神のご計画の全体」ということは、聖書の全体と理解することができます。創世記から黙示録まで、教会は余すところなく聖書のみことばを語る責任があります。教会が聖書のみことばを教えなければ、教会の意味はありません。人々が願うことを言ってくれる教師ではなく、聖書を教える教師が必要です。

2テモテ 3章

「けれどもあなたは、学んで確信したところにとどまっていなさい。あなたは自分が、どの人たちからそれを学んだかを知っており、また、幼いころから聖書に親しんで来たことを知っているからです。聖書はあなたに知恵を与えてキリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができるのです。」(14、15節)

聖書を学ぶことは大切なことです。自分で学び、確信したことは揺らぐことのない土台となっていきます。しかし、

「どの人たちからそれを学んだか」

ということも問われていることにも注目する必要があります。すぐ後の16節で、

「聖書はすべて、神の霊感によるもの」

とあるように

「聖書を神の言葉と信じている人」

から学ぶ必要があります。アルファのニッキー師はこう言います。

「聖書が神の霊感によって書かれたものであるという見解は、時代を超えて全世界の教会において、ほとんど普遍的なものです。」

2テモテ 2章

「ですから、だれでも自分自身をきよめて、これらのことを離れるなら、その人は尊いことに使われる器となります。すなわち、聖められたもの、主人にとって有益なもの、あらゆる良いわざに間に合うものとなるのです。」(21節)

聖書の時代にも、様々な「器」がありました。もちろん、その「器」を何に用いるかが重要でした。使徒パウロは、こんなことも言っています。

「私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。」(Ⅱコリント4:7)

つまり、私たちは、神の臨在に用いられる器だと言うのです。神はご自身の臨在で私たちを満たし、神の恵みとあわれみが私たちを通して溢れ流れ出ることを願われています。パウロはこの箇所で、神の真理よりも自分の哲学を教えていた人たちに警告として語っています。私たちは神のみことばによって日々きよめられる必要があります。