ナホム書 3章

「あなたの傷は、いやされない。あなたの打ち傷は、いやしがたい。あなたのうわさを聞く者はみな、あなたに向かって手をたたく。だれもかれも、あなたに絶えずいじめられていたからだ。」(19節)

聖書の時代にもいじめの問題がありました。いじめる側の論理は、聖書的には通じません。神様は、いじめられている社会的弱者の叫びを聞かずにおれない方だからです。神様はこうおっしゃられます。

「在留異国人を苦しめてはならない。しいたげてはならない。あなたがたも、かつてはエジプトの国で、在留異国人であったからである。すべてのやもめ、またはみなしごを悩ませてはならない。もしあなたが彼らをひどく悩ませ、彼らがわたしに向かって切に叫ぶなら、わたしは必ず彼らの叫びを聞き入れる。」(出エジプト22:21-23)

ナホム書 2章

「見よ。わたしはあなたに立ち向かう。」(13節)

ローマ8:31にこういう箇所があります。

「神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。」

イエス・キリストを信じて、神の味方となるか、それとも敵となるかは、私たち一人一人の選択です。もちろん、神はすべての人に神の側に立って欲しいと願っています。そもそも、地獄も、人のために造られたわけではありません。イエス様も、こうおっしゃられています。

「わたしから離れて、悪魔とその使いたちのために用意された永遠の火にはいれ。」(マタイ25:41)

つまり、地獄は悪魔とその使いたちのために用意されたものです。もちろん、神に並ぶものはいません。神は絶対者です。悪魔はあくまでも堕落した天使の長であり、神と対等ではありません。

神の側に立とうではありませんか。

「主よ、あなたの側に立ちます。」

ナホム書 1章

「主はいつくしみ深く、苦難の日のとりでである。主に身を避ける者たちを主は知っておられる。」(7節)

ナホム書は、アッシリヤ帝国の首都、ニネベに対する裁きの宣告の書です。ですから、全体的に裁きのことばが続くのですが、その中で、突然今日の箇所が登場してきます。それほど、私たちが心に留めておくべきことだからだと思います。神様の裁きの中にあってさえも、私たちが覚えるべきことが三つあります。それは、まず第一番目に、

神様は「いつくしみ深い」(良い・GOOD)お方。

第二番目に、

私たちの苦難の日のとりでとなってくださるお方。

そして、第三番目に、

主に身を避ける者たちを知っておられるお方、気にかけてくださるお方です。

私たちが理解できないことはたくさんあります。しかし、分からないことのゆえに、分かっていることを手放す必要はありません。

ミカ書 7章

「あなたの石垣を立て直す日、その日、国境が広げられる。」(11節)

ミカ書を書いた預言者ミカは、イザヤ書を書いた預言者イザヤと同時代の預言者です。預言者ミカも預言者イザヤも、神に背を向けたイスラエルの民に裁きを宣言し、その後、神が奇跡を行なわれることを預言しました。この箇所では、やがて神がもたらせようとしているイスラエルの繁栄の約束が記されています。しかし、その日は、どういう日かと言いますと、

「石垣を建て直す日」

であると言います。「石垣」というのは、ご存知のように、重い石を一個一個、コツコツと積み上げていかなければできません。つまり、神様の祝福というのは、コツコツと、誠実に、神と共に歩む中で与えられるものだということです。石垣の石は、石であれば何でもいいわけではありません。文脈にある「信仰の石」、「赦しの石」、「望みの石」を積み上げていきましょう!

ミカ 6章

「主はあなたに告げられた。人よ。何が良いことなのか。主は何をあなたに求めておられるのか。それは、ただ公義を行ない、誠実を愛し、へりくだってあなたの神とともに歩むことではないか。」(8節)

何が良いことで、何を神が私たちに求めておられるかが記されています。

まず第一番目は、公義を行うこと。

神は義なる神ですから、私たちが不正をすることを望まれません。

第二番目に、誠実を愛するということ。

「誠実」と訳された英語の単語は、「信仰が満たされる」(faith-ful)と書きます。「信仰に生きること」と、「誠実に生きる」ことは、コインの裏表です。

第三番目は、へりくだって神と共に歩むこと。

もっとも、神の方がへりくだり、人となり、私たちと共に歩んでくださいました。神の御子、キリストの十字架のゆえに、キリストを信じる者は、生ける神と共に人生を歩むことができます。自分の力で何でもできると傲慢にならず、へりくだって神と共に歩むことができますように。

ミカ 5章

「ベツレヘム・エフラテよ。あなたはユダの氏族の中で最も小さいものだが、あなたのうちから、わたしのために、イスラエルの支配者になる者が出る。その出ることは、昔から、永遠の昔からの定めである。」(2節)

預言者ミカは、紀元前八世紀ごろの預言者です。つまり、キリストが生まれる800年以上も前から、キリストはベツレヘムで生まれると約束されていたのです。さらに、キリストがベツレヘムで生まれることは、永遠の昔からの定めだと言います。ベツレヘムで生まれるキリストというお方は、永遠の存在であると言うのです。ヨハネは言いました。

「初めに、ことばがあった。」(ヨハネ1:1)

つまり、キリストは、誰かが創造した被造物ではなく、最初から存在される三位一体の子なる神、創造主です。

「天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。」(コロ1:16)

ミカ 4章

終わりの日に、主の家の山は、山々の頂に堅く立ち、丘々よりもそびえ立ち、国々の民はそこに流れて来る。」(一節)

LBではこう訳しています。

終わりの日に、シオンは世界で最も有名な山となり、全世界の人にたたえられ、世界各地から巡礼が訪れる。

今でも、多くの巡礼者たちがエルサレムを訪れていますが、この世の終わりには、その比ではないと言います。なぜなら、

その時には、神様がエルサレムから全世界を支配なさるのだ。」(2節LB)

と言います。

聖書が教えていることは、この世の終わりに、クリスチャンはある日突然天に引き上げられ、この地に大患難時代が訪れます。その後、キリストが再臨し、千年王国と呼ばれる時代が来ます。

彼らは神とキリストの祭司となって、千年の間キリストと共に統治する。」(黙示録20:6新共同訳)

千年王国の時代にこの箇所はその成就を見ます。その日を待ち望みつつ、日々の生活においても、キリストの統治を祈ります。なぜなら、神の支配はキリストが十字架でかかられた時から、すでに始まっているからです。

ミカ 3章

「しかし、私は、力と、主の霊と、公義と、勇気とに満ち、」(8節)

ミカは、当時のイスラエルの指導者や預言者の堕落を指摘した後に、こう言いました。

「しかしわたしは主のみたまによって力に満ち、公義と勇気とに満たされ、」(口語訳)

イエス様は、弟子たちに言いました。

「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。」(使徒1:8)

この力こそ、預言者ミカが体験した力です。この力こそ、私たちが今必要としている力です。私たちはどんなにこの力を体験することが必要でしょうか。この力を求めることよりも、他の何かで誤魔化そうとしていないでしょうか。聖書は言います。

「泣くのも悲しむのも、聖霊が上から私たちに注がれるまでです。そして、悪い荒地に作物は育ち、肥沃な地は森となる。」(イザヤ32:15)

私たちは聖霊に満たされる必要があります。聖霊を求めましょう。

ミカ 2章

「ヤコブの家がそんなことを言われてよいものか。主がこれをがまんされるだろうか。これは主のみわざだろうか。私のことばは、正しく歩む者に益とならないだろうか。」(7節)

「主がこれをがまんされるだろうか。」

と訳された文は、原文を直訳しますとこう訳せます。

「主の霊は制約されるだろうか」。

当時のイスラエルの人々(ヤコブの家の意味)は、ミカの語る神様からの預言を、たわごとと言い、語るなと言いました。彼らは、聖霊なる神様の言葉を聞きたくないと言ったのです。ミカの時代の人々は、聖霊なる神様の働きをコントロールし、制約しようとしました。今の時代も、聖霊なる神様の働きを、自分たちが理解できる範囲内にコントロールし、制約しようとする人々がいます。聖書に出てくるような聖霊の働きは、聖書の時代にはあったけど、今は、もうないと言うのです。しかし、聖霊なる神様を私たちの理解できる範囲内に制約する事は、誰にも出来ません。

ミカ 1章

「見よ。主は御住まいを出、降りて来て、地の高い所を踏まれる。」(3節)

旧約聖書は、ヤハウェなる神が、天の御住まいを出て、この地に降りて来られることを預言してきました。神ご自身が正義をもたらせ、この地を治められることを預言してきました。聖書は言います。

「キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。」(ピリピ2:6,7)

神の御子、イエス・キリストは預言の通り、天の御住まいを出、降りて来られました。そして、あらゆる病気を癒し、悪霊を追い出すことを通して、神の正義をこの地にもたらされました。しかし、その究極は、十字架にありました。十字架で、私たちの罪のために死なれることを通して、神の正義をこの地にもたらされました。預言の通り、神の支配はキリストによってもたらされています。