ピレモン

「私たちの間でキリストのためになされているすべての良い行ないをよく知ることによって、あなたの信仰の交わりが生きて働くものとなりますように。」(6節)

今日の箇所は、今年の栄シャローム福音教会の聖句です。ある時、イエス・キリストはこう言いました。

「もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」(マタイ18:19,20)

「信仰の交わり」というのは、二人でも三人でも、共に祈る時、共に礼拝を捧げる時、生きて働くものです。前半部分を直訳するならばこうなります。

「私たちのうちでなされているすべての善を認識することによって、キリストに向かっていくように。」

私たちの「信仰の交わり」が、キリストを指し示すものとなっているかどうか、それが、私たちが問う必要があることです。

ヨナ 4章

「ところが、このことはヨナを非常に不愉快にさせた。ヨナは怒って、主に祈って言った。「ああ、主よ。私がまだ国にいたときに、このことを申し上げたではありませんか。それで、私は初めタルシシュへのがれようとしたのです。私は、あなたが情け深くあわれみ深い神であり、怒るのにおそく、恵み豊かであり、わざわいを思い直されることを知っていたからです。」(1,2節)

ヨナは、神様が情け深く、あわれみ深い神様であることに対して、「怒った」とあります。神様がどうしてそんな人を預言者として用いられたのだろうと思ってしまいますが、私たちも似たような所があるのではないでしょうか。自分に対して、神様があわれみ深くても当たり前のように受け入れます。しかし、他人が、特に、自分がふさわしくないと思う人の上に神様のあわれみが注がれると、私たちは素直に受け入れられなかったりするのです。神様の恵みの深さは測り知ることはできません。

ヨナ 3章

「人も、家畜も、荒布を身にまとい、ひたすら神にお願いし、おのおの悪の道と、暴虐な行ないとを悔い改めよ。もしかすると、神が思い直してあわれみ、その燃える怒りをおさめ、私たちは滅びないですむかもしれない。」(8,9節)

ヨナのメッセージは単純に

「ニネベは滅ぼされる。」(4節)

というものでした。

「悔い改めたらまだチャンスがある」

とは言いませんでした。

ニネベの人々は、赦される保証も約束もありませんでしたが、それでも悔い改め、神のあわれみを体験しました。

今、私たちには約束が与えられています。

「もし、わたしたちが自分の罪を告白するならば、神は真実で正しいかたであるから、その罪をゆるし、すべての不義からわたしたちをきよめて下さる。」(Ⅰヨハネ1:9口語訳)

ニネベの人たちは約束がなくても悔い改めました。

私たちは、キリストにある赦しの約束が与えられています。

ヨナ 2章

「私のたましいが私のうちに衰え果てたとき、私は主を思い出しました。私の祈りはあなたに、あなたの聖なる宮に届きました。」(7節)

人は、魚の腹の中にいるような状況に追い込まれなければ、なかなか神を叫び求めることができないという所があると思います。しかし、たとえそこまで追い込まれても、主を思い出すことも、叫ぶこともなければ、これほど無意味なことはありません。主を思い出して、主に叫び求めることが出来れば、主は必ず助け出してくださいます。ある牧師はこう言います。「私たちが自分の力ではどうしようもない問題に追い込まれることを神が許される理由は、私たちが神を求め、神との関係に戻って欲しいからだ。」神が災いをもたらすわけではありません。私たちが災いを選んでしまうのです。でも、神があえて私たちが災いを選んでしまうことを許されるのは、私たちが神のもとに帰るためです。

ヨナ 1章

「主は大きな魚を備えて、ヨナをのみこませた。ヨナは三日三晩、魚の腹の中にいた。」(3節)

イスラエル人のヨナは、アッシリヤ帝国の首都、ニネベに預言しに行くように神から命じられます。ヨナはもしかしたら、北イスラエル王国がアッシリヤ帝国によって滅ぼされる危険を感じて、神の命令を拒絶したのかもしれません。彼は、アッシリヤ(今のイラクのあたり)を避けて、地中海から船でヨーロッパ方面に逃げようとします。その時、神様が嵐を起こさせ、結果的にヨナは、海の中に投げ入れられます。しかし、話はそれで終わりません。神様は大きな魚を備えて、ヨナに三日三晩という時間を与えられました。神が造られた人間が潜水艦を作れるのですから、人間を造られた神が潜水艦のような魚を用意されても何の不思議もありません。大切なメッセージは、神はヨナにもう一度チャンスを与えられたということです。神はセカンド・チャンスの神です。

オバデヤ

「主の日はすべての国々の上に近づいている。あなたがしたように、あなたにもされる。あなたの報いは、あなたの頭上に返る。」(15節)

オバデヤ書は、ヤコブの兄のエサウの子孫であるエドムに対する預言です。エドムはイスラエルの国と親戚のような関係があったのにも関わらず、イスラエルの危機の時に、助けることもしませんでした。ここに記されているのは、重要な霊的法則です。神様は言われます。

「あなたがしたように、あなたにもされる。」

使徒パウロもガラテヤ書でこの霊的法則を記しています。

「人は、自分の蒔いたものを、また刈り取ることになるのです。」(6:7共)

ですから、イエス様はこう教えられました。

「あわれみ深い者は幸いです。その人はあわれみを受けるからです。」(マタイ5:7)

ヤコブ書にはこう記されています。

「人に憐れみをかけない者には、憐れみのない裁きが下されます。憐れみは裁きに打ち勝つのです。」(2:13共)

「あわれみ深い者になれますように。」

テトス 3章

「これは信頼できることばですから、私は、あなたがこれらのことについて、確信をもって話すように願っています。それは、神を信じている人々が、良いわざに励むことを心がけるようになるためです。これらのことは良いことであって、人々に有益なことです。」(8節)

「信頼できる言葉」とは、真実な言葉、信仰の言葉です。5から7節の内容です。

「神は、私たちの罪のよごれを洗い落とし、心に聖霊を遣わして、新しい喜びで満たし、以前の悲惨な生活から救い出してくださいました。それは、私たちに救われる資格があったからではなく、ただ、神のあわれみによるのです。神は、私たちの心にこの聖霊を豊かに注いでくださいました。これは、救い主イエス・キリストが成し遂げてくださった救いがあるからこそ実現したのです。こうして神は、私たちを、ご自分の目にかなった正しい者と宣言してくださったのです。これは神の恵み以外の何ものでもありません。私たちは今、永遠のいのちを受け継ぐことを認められ、実際にそれをいただく日を、心から待ち望んでいるのです。」(LB)

テトス 2章

「祝福された望み、すなわち、大いなる神であり私たちの救い主であるキリスト・イエスの栄光ある現われを待ち望むようにと教えさとしたからです。」(13節)

イエス・キリストを信じる者には「祝福された」望みがあります。それは、イエス・キリストの再臨です。イエス・キリストは再び来られます。私たちはいつイエス様が来られても大丈夫なように生きるように命じられています。

それは、

「神を認めない生き方と罪にまみれた快楽とを捨て去って、日々神を敬う正しい生活を送ること」(12節LB)

だと言います。

それは、世捨て人になることではなく、神の国の民、メシヤの民、聖霊の民として今を生きることです。

いかがでしょうか?

明日、イエス様が来られても準備ができている生き方を心がけているでしょうか?

それとも、イエス様が来られても気づかないような生き方をしているでしょうか?

今日は主の日です。主の日が近いことを心に留め、礼拝を捧げましょう。

 ※ 本日の第三礼拝(午後6時から)は英語礼拝です。WIND(ノリさんとバービーさん)が、総勢九人のチームで来られます。

テトス 1章

「彼らは、神を知っていると口では言いますが、行ないでは否定しています。」(16節)

これは、パウロがテトスにあてて書いた手紙です。テトスは、エーゲ海に浮かぶクレテ島で教会の指導者として働き、また後継者を任命するという責任を担っていました。パウロがこの地域の人々について厳しい言葉で非難している様子からも、テトスの置かれていた大変な状況を垣間見ることができます。「神を知っている」と、口で言うことは、そんなに難しいことではありません。問題は、「神を知っている」者らしく生きているかどうかです。私たちは開き直らずに、日々、自分自身が神のことばを信仰と生活の規範として生きているかどうか吟味する必要があります。使徒パウロもこのように言っています。

「もし私たちが自分をさばくなら、さばかれることはありません。」(Ⅰコリント11:31)

アモス 9章

「その日、わたしはダビデの倒れている仮庵を起こし、その破れを繕い、その廃墟を復興し、昔の日のようにこれを建て直す。」(11節)

「ダビデの倒れている仮庵」は、「賛美」のことと言う聖書学者がいます。つまり、終わりの時代に賛美が回復する預言だと言うのです。確かに、今までは教会の賛美と呼ばれるものは、オルガンの伴奏以外認められない風潮がありました。しかし、今、ダビデの時代のように、いろいろな楽器を用いて神様を賛美できるようになりました。詩篇にこういう箇所があります。

「角笛を吹き鳴らして、神をほめたたえよ。十弦の琴と立琴をかなでて、神をほめたたえよ。タンバリンと踊りをもって、神をほめたたえよ。緒琴と笛とで、神をほめたたえよ。音の高いシンバルで、神をほめたたえよ。鳴り響くシンバルで、神をほめたたえよ。」(詩篇150:3-5)

まさに、このような賛美が今、回復しています。