ゼカリヤ書 7章

「この国のすべての民と祭司たちに向かってこう言え。この七十年の間、あなたがたが、第五の月と第七の月に断食して嘆いたとき、このわたしのために断食したのか。あなたがたが食べたり飲んだりするとき、食べるのも飲むのも、自分たちのためではなかったか。」(5,6節)

イスラエルの人々は、ネブカデネザル王によって滅ぼされたことを覚えるために、第五の月に毎年断食していました。神殿が建て直されたので、

「もうしなくてもいいですか」

と尋ねると、神様が、

「そもそもどうして断食しているのか」

と問い正しました。神様のためというよりも、

「自分たちのためにしてきたのではないか」

と。儀式化することの危険性は、意味を見失うということです。聖餐式も、キリストとの交わりを求めなければ、ただのパンとぶどうジュースにすぎません。神様は、

「儀式を行うことで満足していないか?あなたの心はどこにあるのか?」

と問われています。

ゼカリヤ書 6章

「あなたは金と銀を取って、冠を作り、それをエホツァダクの子、大祭司ヨシュアの頭にかぶらせ、彼にこう言え。『万軍の主はこう仰せられる。見よ。ひとりの人がいる。その名は若枝。彼のいる所から芽を出し、主の神殿を建て直す。彼は主の神殿を建て、彼は尊厳を帯び、その王座に着いて支配する。」(11‐13節)

ゼルバベルと共に指導的役割を担ったのが大祭司ヨシュアです。この箇所はメシア預言と呼ばれるもので、やがて大祭司ヨシュアのようにメシアが現れ、神殿を建て直すという預言です。ですから、当時の人はキリストが神殿を建て直すことを期待していました。神殿とは天と地が重なり合う場所であり、実は、キリストご自身が十字架の御業によって永遠の神殿となられました。キリストの教会は、メシアの民として現代の神殿です。気をつけなければいけないのは、偽キリストがキリストの真似をして、大患難時代にエルサレムに目に見える神殿を建て直す事です。

ゼカリヤ書 5章

「そこで私は、私と話していた御使いに尋ねた。「あの者たちは、エパ枡をどこへ持って行くのですか。」彼は私に言った。「シヌアルの地で、あの女のために神殿を建てる。それが整うと、そこの台の上に安置するためだ。」」(10,11節)

この箇所は、一般的に黙示録18章と関連するこの世の終わりに関する内容だと理解されています。「シヌアル」の地とはバビロンの地ということで、今のちょうど、イラクの地域を指します。ですから、多くの聖書学者たちは、今後、イラクがどう発展していくかに注目しています。また、バビロンの地とは、神に対抗してバベルの塔を建てた場所でもありますので、神に対抗する象徴と考える聖書学書もいます。特にエパ枡は、商業主義を指して、神よりも金をあがめることを意味していると理解されます。神に仕えるか、金に仕えるか、神に支配されるか、金に支配されるか、現代に生きる私たちにも問われています。

ゼカリヤ書 4章

「すると彼は、私に答えてこう言った。「これは、ゼルバベルへの主のことばだ。『権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって。』と万軍の主は仰せられる。」(6節)

バビロン捕囚からエルサレムに帰って来た時のリーダーが、ゼルバベルです。彼はエルサレムを再建しようと努力しますが、邪魔が入ります。(エズラ4,5章参照)彼は、自分の力のなさに落ち込んだと思います。しかし、神はそんな彼に、

「あなたの力ではなく、聖霊によって成し遂げる」

と語り、彼はそれで立ち上がります。

キリスト教会のはじまりも、まさに、この世的に言えば権力も能力もない、一握りの人々からはじまりました。しかし、聖霊なる神様が臨んでくださることによって、全世界へ広がっていきました。聖霊なる神様の力は、今も、求める人々に注がれます。そして、権力によらず、能力によらず、神の霊によるなりという世界を体験します。

ゼカリヤ書 3章

「ヨシュアは、よごれた服を着て、御使いの前に立っていた。御使いは、自分の前に立っている者たちに答えてこう言った。『彼のよごれた服を脱がせよ。』そして彼はヨシュアに言った。『見よ。わたしは、あなたの不義を除いた。あなたに礼服を着せよう。』」(3,4節)

私たちはみなヨシュアのように、神の御前では、よごれた服を着ている者でした。神の御前では、私たちの正しさは、汚れた服のようだと聖書は言います。

「私たちはみな、汚れた者のようになり、私たちの義はみな、不潔な着物のようです。」(イザヤ64:6)

誰一人、自分の努力によって神の基準に到達することはできません。しかし、キリストは私たちの汚れた服を脱がして義の衣を着せるために十字架にかかって死んでくださいました。イエス・キリストを信じるということはまさに、ヨシュアが体験したように、汚れた服を脱がせてもらい、キリストの血潮で聖められた義の礼服を着せていただくことです。

ゼカリヤ書 2章

「シオンの娘よ。喜び歌え。楽しめ。見よ。わたしは来て、あなたのただ中に住む。―主の御告げ。―」(10節)

教会では、賛美の歌を神に捧げる時間をとても大切にしています。私たちが喜び歌い、神を楽しむ中で、神ご自身が私たちの所に来て、私たちのただ中に住むとおっしゃられるからです。もちろん、神が私たちのただ中に住まわれるから、神に喜び歌い、楽しむことができるという両面があります。いずれにせよ、神に喜び歌い、神を楽しむ時、私たちは神が私たちのただ中におられるという神の臨在を感じます。イスラエルの人々が荒野を旅するとき、その真ん中に神の臨在を現す幕屋があったように、約束の地の真ん中に神の臨在を現す神殿があったように、イエス・キリストを信じる者たちが集まる教会のただ中に、神の臨在が現されます。私たちが共に賛美の声を上げるその中に、神の臨在は現されます。

ゼカリヤ書 1章

「あなたは、彼らに言え。万軍の主はこう仰せられる。わたしに帰れ。―万軍の主の御告げ。―そうすれば、わたしもあなたがたに帰る、と万軍の主は仰せられる。」(3節)

ゼカリヤは、ハガイと一緒にバビロン捕囚から戻ってきたイスラエルの人々に励ましのメッセージを送った預言者の一人です。「ゼカリヤ」という名前は、「神は覚えておられる」という意味です。神は私たちを決して忘れないということです。

私たちを見捨てない神のメッセージは、

「わたしに帰れ。そうすれば、わたしもあなたに帰る」

です。

神に背を向けてしまった人々に対する神の心はいつも、ご自分のもとに帰ってきて欲しいということです。放蕩息子の帰りを待っていたお父さんのように、帰ってきて欲しいのです。そうすれば、神との個人的な、人格的な関係に戻ることができます。神様は両手を広げて一人一人の帰りを待っています。

2ペテロ 3章

「主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。しかし、主の日は、盗人のようにやって来ます。」(9,10節)

「主の日は盗人のように」とは、その日は、思いがけない時にやってくるということです。つまり、私たちはサッカーで言うロスタイムに生きています。いつ、終了の笛が吹かれてもおかしくない時代に生きているのです。神だけがいつ終了の笛を吹くか、決めることができます。イエス様が誕生されてから、2000年を経た今も、まだ、笛が吹かれていない理由は、神のあわれみです。ひとりでも滅びることを望まない神は、すべての人が悔い改めることができるように、忍耐されているのです。しかし、その日は必ず来ます。

2ペテロ 2章

「また、無節操な者たちの好色なふるまいによって悩まされていた義人ロトを救い出されました。というのは、この義人は、彼らの間に住んでいましたが、不法な行ないを見聞きして、日々その正しい心を痛めていたからです。」(7,8節)

私たちは、この世に生きていますが、この世に染まる必要はありません。道徳的な堕落が叫ばれるこの世の中で敬虔に生きることを選ぶことは、時には悩まされ、心を痛めるものです。しかし聖書はこの世界に終わりがあることを明確に伝えています。そして、この世界が終わる前に、大患難時代と呼ばれる時が来ることを伝えています。キリストを信じる者は、ロトが救い出されたように、その大患難時代から救い出されます。その日は遠くありません。環境問題が年々深刻化している現状を考えますと、確実に、その日に向かっていることを私たちは感じます。だからこそ、堅く節操を保ちキリストを待ち続ける姿勢が大切です。

2ペテロ 1章

「それには何よりも次のことを知っていなければいけません。すなわち、聖書の預言はみな、人の私的解釈を施してはならない、ということです。」(20節)

聖書を自己流で解釈することは、聖書が禁じることです。聖書の一箇所だけをとって、自己流の教えを作り出してはいけません。また、文脈を無視して何でも象徴的(霊的?)に解釈することも、聖書は禁じています。まず、聖霊に導かれてその箇所を記した聖書記者の意図をくみ取る作業が必要です。たとえば、今日の箇所で「ペテロがどうしてこのようなことを書いたのか?」と問う必要があります。理由は明らかに、聖書のことばを利用して、様々なことを言う人たちがいて混乱が生じていたからです。聖書は聖書に解釈させることが大原則です。聖書は、聖書全体から解釈するものです。ですから、私たちは創世記から黙示録まで聖書全体を読み、学ぶ必要があります。