黙示録 1章

「私は、主の日に御霊に感じ、私のうしろにラッパの音のような大きな声を聞いた。」(10節)

「主の日」とは、イエス・キリストが復活された日曜日のことです。教会ではこの日を特別な日、礼拝の日として定めて、必死で守ってきました。この主の日にヨハネは御霊に感じ、イエス・キリストの声を聞きました。もちろん、毎日、聖霊を感じることができます。毎日、主の声を聞くことができます。しかし、主の日は特別です。また、イエス・キリストは、教会を象徴する金の燭台(12節)の真中から語られたとあります。まさに、地域教会のただ中に、イエス・キリストはおられ、語られるということだと思います。地域教会は世界の希望だと言われます。なぜなら、教会の真中にイエス・キリストはおられ、今も、聖書のみことばを通して語られているからです。

ユダの手紙

「あなたがたを、つまずかないように守ることができ、傷のない者として、大きな喜びをもって栄光の御前に立たせることのできる方に、すなわち、私たちの救い主である唯一の神に、栄光、尊厳、支配、権威が、私たちの主イエス・キリストを通して、永遠の先にも、今も、また世々限りなくありますように。アーメン。」(24,25節)

神様は、私たちがつまずいたり、倒れたりしないように守ってくださる方です。そのために、私たちの側がすべきことは、その前の20,21節に書いてあります。

「あなたがたは、今のきよい信仰を土台として、自分の生活をしっかり打ち立てなければなりません。そして、聖霊の力と励ましを受けて祈り、いつも神の愛のうちにいなさい。そうすれば神から祝福がいただけます。永遠のいのちに至らせる、主イエス・キリストの恵みを待ち望みなさい。」(LB)

今日は主の日。主イエス・キリストを待ち望みましょう!

マラキ書 4章

「彼は、父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせる。それは、わたしが来て、のろいでこの地を打ち滅ぼさないためだ。」(6節)

これが、旧約聖書の一番最後の言葉です。旧約聖書の目的は、神の基準を提示して、私たち人間が自分たちの力でその基準に到達することができないことを示すためにあるからです。ですから、旧約聖書で終わってしまうと、のろいで終わります。しかし、新約聖書の終わりはこう記されています。

「主イエスの恵みがすべての者とともにあるように。アーメン。」(黙示録22:21)

恵みで閉じられています。聖書は言います。

「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。」(Ⅱコリント5:21)

「イエス様、あなたが私の罪のために十字架で死に、葬られ、三日目によみがえられ、すべての呪いを打ち砕いてくださったことを感謝します。」

マラキ書 3章

「十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。こうしてわたしをためしてみよ。―万軍の主は仰せられる。―わたしがあなたがたのために、天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうかをためしてみよ。」(10節)

私たちは神の愛に応答して、何かを捧げたいと思います。しかし、どのぐらい神に捧げるのが適当なのでしょうか?神は私たちに、収入の十分の一をもって試すことを勧めます。(聖書の中で神は、献金のみ試すように言います。)神はつまり金額を見てないということです。私たちが「いくら捧げたか」ではなく、「どのような心で捧げたか」をご覧になられています。一万円もらった人が千円捧げるのと、千円のお小遣いをもらった人が、その中から百円捧げるのでは、その千円も百円も、神の目の前には同じ価値だと言うのです。なぜなら、神の目は、金額ではなく心に向けられているからです。

マラキ書 2章

「もし、あなたがたが聞き入れず、もし、わたしの名に栄光を帰することを心に留めないなら、――万軍の主は仰せられる。――わたしは、あなたがたの中にのろいを送り、あなたがたへの祝福をのろいに変える。もう、それをのろいに変えている。あなたがたが、これを心に留めないからだ。」(2節)

新共同訳では、今日の箇所の前半部分をこう訳しています。

「もし、あなたたちがこれを聞かず、心に留めず、わたしの名に栄光を帰さないなら」

神様が私たちに求めている三つの段階をここで見ることができます。まず第一に、聞くこと。信仰は神のみことばを聞くことからはじまります。しかし、それを頭の知識として満たすだけでは意味がありません。第二に、心に留めること。聖書はイエス様に近づくためにあります。聖書のみことばに応答して、イエス様に近づくことが大切です。そして、第三番目に、神様に栄光を帰すこと。すべての栄光は主のものです。

 

マラキ書 1章

「「子は父を敬い、しもべはその主人を敬う。もし、わたしが父であるなら、どこに、わたしへの尊敬があるのか。もし、わたしが主人であるなら、どこに、わたしへの恐れがあるのか。―万軍の主は、あなたがたに仰せられる。―わたしの名をさげすむ祭司たち。あなたがたは言う。『どのようにして、私たちがあなたの名をさげすみましたか。』と。」(6節)

イスラエルの人々は、神を敬う気持ちを失っていました。LBで、7節の後半をこう訳しています。

「いつも、おまえたちは言っている。『わざわざ高価なものを神様にささげる必要はない。』」

神に対して、私たちもそんな態度を取っていないでしょうか?自分が必要のないもの、また自分の残り物を、神に捧げようとしていないでしょうか?神は言います。

「おまえたちは、『神様は私たちをあわれんでくださる。神様は恵み深い』と口ぐせのように言う。だが、そんな贈り物を持って来るおまえたちに、どうして好意を示せよう。」(1:9LB)

3ヨハネ

「愛する者よ。悪を見ならわないで、善を見ならいなさい。善を行なう者は神から出た者であり、悪を行なう者は神を見たことのない者です。」(11節)

このヨハネの言葉は、デオテレペス、悪を行なう者と、デメテリオ、善を行なう者という二人の人の間に出てきます。デオテレペスの問題をヨハネはこう説明します。
「自分を指導者として売り込もうとねらっているデオテレペスが、私の権威を認めず、私の忠告を聞き入れようとしないのです。(中略)彼がどんなにひどいことばで私たちを中傷しているかわかるでしょう。彼は、自分が旅行中の伝道者を歓迎しないばかりか、ほかの人にもそうさせないのです。」(9-10節LB)
伝道者をその立場に立てるのは神です。ですから、その伝道者の権威を認めないことは神の権威を認めないことでもあります。伝道者に対する尊敬心がある教会は祝福されています。そのような善を見習う必要があります。

2ヨハネ

「だれでも行き過ぎをして、キリストの教えのうちにとどまらない者は、神を持っていません。その教えのうちにとどまっている者は、御父をも御子をも持っています。」(9節)

私たちの信仰の土台はいつも、聖書である必要があります。行きすぎをして、聖書的でないことを読み込むということはとても危険なことです。聖書に書いてあることよりも大事な教えがあるというならば、それは、「神様をないがしろにしている」(LB)ことだと聖書は言います。「聖書は、誤りなき神の言葉である」と信じ、この教えのうちにとどまる人にこそ、「御父も御子もおられます。」(新共同訳)いつの時代も、聖書の教えでないものを聖書を利用して教える人たちがいます。ですから、私たちはいつも、バック・トゥー・ザ・バイブル、聖書に戻ることが大切です。
「主よ、いつも、聖書の教えのうちにとどまることができますように。」

1ヨハネ 5章

「何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。」(14節)

祈りというのは、自分の思いをこの地上に実現させるための道具ではありません。祈りは、神の思いを共有し、この地上に神のみこころを実現させるための道具です。イエス様でさえ、この地上でこのように祈ってくださいました。

「しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」(マタイ26:39)

祈りは、神が私たちに願いを起こさせ、神のみこころをこの地上にもたらせるものです。使徒パウロも言います。

「あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起させ、かつ実現に至らせるのは神であって、それは神のよしとされるところだからである。」(ピリピ2:13口語訳)

神が私たちの祈りを用いて、神の御国をこの地にもたらされると確信しています。

1ヨハネ 4章

「私たちは、私たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。」(16節)

ある人々は、自分に対する神の愛を信じることを拒絶します。「自分の願いに答えてくれなかった」という理由で、神の愛を否定します。自分の思い通りに動くことが、自分に対する神の愛の証明だと言うのです。しかし、それは愚かなことです。親が、子供の自分勝手な願いどおりに動かないからと言って、子供を愛していないわけではありません。そもそも「祈り」は、私たちの思い通りに神を動かす手段ではなく、神のみこころが成し遂げられる手段です。神の愛の証明は、イエス・キリストです。

「キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。」(3:16)

イエス・キリストを信じる者は、ヨハネと共に告白します。

「私たちは、私たちに対する神の愛を知り、また信じています。」