創世記 1章

「そして神は、「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう。」と仰せられた。神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。」(26,27節)

神がご自身を「われわれ」と呼ぶ理由は、まず第一に、原文のヘブル語の言語学的な理由があります。権威者としての言語という意味があります。多神教という意味はありません。(三位一体は表しています。)人は神のかたちに造られたという意味は、神も人間のような容姿があるという意味ではありません。「イマゴ・デイ」と言いますが、神のイメージ、神の像(エイコン)という、神の栄光を反映する、神を象徴する存在という意味です。人が神になることはありません。しかし、神の栄光を現わす存在として造られました。

黙示録 22章

「御霊も花嫁も言う。「来てください。」これを聞く者は、「来てください。」と言いなさい。渇く者は来なさい。いのちの水がほしい者は、それをただで受けなさい。」(17節)

神のことばは、「来なさい」という招きの言葉で閉じられます。神の愛のメッセージを聞き、赦しを受け、キリストと共に生きる喜びを体験した者は、他の人も招きたいと思うようになります。イエス様は仮庵の祭りの終わりの大いなる日に、立って、大声で言われました。

「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。」(ヨハネ7:37)

この渇きは単なる身体的な渇きではありません。ダビデはこのように表現しました。

「鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、神よ。私のたましいはあなたを慕いあえぎます。」(詩篇42:1)

神への渇きです。問題は、人はこの渇きを一時的な快楽や物質などで埋めようとすることです。この渇きを潤すことができるのは神だけです。神は招いています。

黙示録 21章

「そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」(3,4節)

「神の幕屋」が意味することは、神の臨在です。幕屋はまさに、天と地が交わる場所でした。天は現実の神の領域です。天の現実を今は見えないかもしれませんが、イエス様が再臨されるとき、目に見える現実として現わされ、永遠に続きます。天と地が交わる「幕屋」、それは、イエス・キリストがこの地上に誕生されたことによって成就しました。

「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。」(ヨハネ1:14)

今、私たちは幕屋を作りません。なぜなら、イエス・キリストの中で天の現実を体験するからです。

黙示録 20章

「また私は、大きな白い御座と、そこに着座しておられる方を見た。地も天もその御前から逃げ去って、あとかたもなくなった。」(11節)

すべての人は一度死ぬことと、死後に裁きを受けることが定まっています。この世の終わりに、すべての人は、神の大きな白い御座の前に立ち、裁かれます。神はすべてをご存知です。

「神は、善であれ悪であれ、すべての隠れたことについて、すべてのわざをさばかれるからだ。」(伝道者12:14)

「いのちの書」に名前が記されていない者はみな、火の池(地獄)に投げ込まれます。しかし、イエス・キリストを主として信じる者は、イエス・キリストの十字架の御業のゆえに「いのちの書」に名前が記されています。ですから、白い御座の前に立つその時、恐れる必要はありません。イエス・キリストが私たちを義と宣言してくださるからです。

「こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。」(ローマ8:1)

黙示録 19章

「私たちは喜び楽しみ、神をほめたたえよう。小羊の婚姻の時が来て、花嫁はその用意ができたのだから。」(7節)

小羊はイエス様、花嫁は教会を指しています。私たちは、聖書が教会を花嫁と呼んでいることを心に留める必要があると思います。教会は人の集まりですから、完全ではありません。しかし、聖書にはこう書いてあります。

「だれも自分の身を憎んだ者はいません。かえって、これを養い育てます。それはキリストが教会をそうされたのと同じです。」(エペソ5:29)

イエス様は、そんな欠けのあるキリスト教会を終わりの日の婚姻の日まで養い、育てると約束しています。婚姻の時が意味していることは、自分がもっている所有物、運命の共有と言うことです。キリストを信じる者たちには、教会には、栄光に満ちたキリストと共同相続人になるという未来があります。

「主よ、あなたが教会を養い育ててくださることを感謝します。」

黙示録 18章

「それから、私は、天からのもう一つの声がこう言うのを聞いた。「わが民よ。この女から離れなさい。その罪にあずからないため、また、その災害を受けないためです。」(4節)

神が「離れなさい」と言ったこの女は、終わりの時代に登場する商業都市、バビロンと言われていますが、7節を見ると三つの問題があったことが分かります。

一.自分に栄光を帰した。

二.自分を喜ばすことだけに生きた。

三.自分の力を過信した。

今すでに、「ミーイズム」と呼ばれる自分中心の価値観が強い社会に生きています。しかしこのような価値観から離れる必要があります。聖書にこんなたとえがあります。

「また、天の御国は、良い真珠を捜している商人のようなものです。すばらしい値うちの真珠を一つ見つけた者は、行って持ち物を全部売り払ってそれを買ってしまいます。」(マタイ13:45,46)

イエス・キリストの永遠の価値を知るならば、この世の価値観は色あせていきます。

黙示録 17章

「この者どもは心を一つにしており、自分たちの力と権威とをその獣に与えます。この者どもは小羊と戦いますが、小羊は彼らに打ち勝ちます。なぜならば、小羊は主の主、王の王だからです。また彼とともにいる者たちは、召された者、選ばれた者、忠実な者だからです。」(13,14節)

イエス・キリストと戦う愚かな人がいるのでしょうか?しかし、今日の箇所を見ると、大患難時代に、時の指導者が戦いを挑むと言います。しかし、世界中の力をどんなに結集しても、神の小羊に勝つことはできません。

「小羊は彼らに打ち勝ちます。」

聖書は言います。

「天の御座に着いておられる方は笑う。主はその者どもをあざけられる。」(詩篇2:4)

たとえ、今、この世が勝利しているように見えたとしても、私たちは忘れるべきではありません。最終的な勝利は神の小羊にあることを。そもそも、キリストが十字架の上で死なれたことが、勝利であったことを忘れるべきではありません。

黙示録 16章

「こうして彼らは、ヘブル語でハルマゲドンと呼ばれる所に王たちを集めた。」(16節)

「ハルマゲドン」という言葉はよく曲解されます。「ハル」は丘という意味で、「マゲドン」と表記された言葉は、イスラエルにある「メギド」という言葉です。ですから、「メギドの丘」という地名が、「ハルマゲドン」の意味です。その場所に悪魔はやがて世界の軍勢を集めて神に対抗しようとするのです。しかし、一瞬のうちに決着がつきます。神は絶対者、対立を絶つ存在、誰も神に立ち向かうことなどできません。私たち人間が謙遜に知らなければならないことがあります。それは、私たち人間は神になることは出来ないし、神に対抗できるものにもなれないということです。これはまた、私たちに解放をもたらします。私たちの苛立ちの原因は、自分の思い通りに物事が進まない事だと思います。神ではないのですから、思い通りに進まなくて当前です。神を信頼しましょう!

黙示録 15章

「彼らは、神のしもべモーセの歌と小羊の歌とを歌って言った。「あなたのみわざは偉大であり、驚くべきものです。主よ。万物の支配者である神よ。あなたの道は正しく、真実です。もろもろの民の王よ。」(3節)

モーセは旧約聖書を代表する人です。小羊であるキリストは、新約聖書を代表する人となられた神の御子です。ですからこの「モーセの歌と小羊の歌」は、いつの時代でも、私たちが歌うように与えられた歌と言えます。この歌は、神がどのようなお方か、その告白です。その一つは、「万物の支配者である神」、「全能者である神」(新共同訳)です。私たちは、全能の神が共におられ、私たちを助けてくださり、見守ってくださるという歌を聞き、歌い続けることが必要です。黙示録は、そもそも、迫害下にあった教会に送られた書簡です。どんなにマイナスに見える状況の中でも、「どんなことでも神にはできる!」と歌うように語られているのだと思います。

黙示録 14章

「また私は、もうひとりの御使いが中天を飛ぶのを見た。彼は、地上に住む人々、すなわち、あらゆる国民、部族、国語、民族に宣べ伝えるために、永遠の福音を携えていた。彼は大声で言った。「神を恐れ、神をあがめよ。神のさばきの時が来たからである。天と地と海と水の源を創造した方を拝め。」(6,7節)

聖書は、はっきりとこの世の終わりについて語っています。この時代がどこに向かっているか明確に教えています。やがて、クリスチャンたちが天に突然挙げられて、それから大患難時代がやってきます。そして、偽キリストが地上の支配権を握り、偽預言者の教え以外に語ることは許されません。もはや地上で、神のことばを語ることは許されません。その時、天から天使たちが神のことばを伝えます。神か悪魔か、最終的に人は選ばなければなりません。今日は主の日。私たちは、神を恐れ、神をあがめる方を選ぼうではありませんか!