「あなたがたは、私に悪を計りましたが、神はそれを、良いことのための計らいとなさいました。それはきょうのようにして、多くの人々を生かしておくためでした。ですから、もう恐れることはありません。私は、あなたがたや、あなたがたの子どもたちを養いましょう。』こうして彼は彼らを慰め、優しく語りかけた。」(19‐21節)
ヨセフの兄弟たちは父の死後、彼らがヨセフにした悪のゆえに仕返しされるのではと恐れていました。しかし、ヨセフは兄弟たちを恨むどころか、神が悪を、良いことのための計らいとされた、神がマイナスをプラスにしてくださったと言いました。否定的になって恨みを持ち続けることもできますが、ヨセフのように神がマイナスをプラスに変えてくださる世界を体験することもできます。私たちの神は、マイナスをプラスにしてくださる神です。
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創世記 49章
「彼は彼らを祝福したとき、おのおのにふさわしい祝福を与えたのであった。」(28節)
ヤコブは、一二人の息子たちを祝福しました。しかしその祝福は、おのおのにふさわしいものであったと言います。口語訳では、
「祝福すべきところに従って、彼らおのおのを祝福した。」
と訳しています。それぞれに合う祝福がありました。私たちはこの多様性ということを心に留める必要があると思います。神の働き、神の祝福は多様性に富んでいます。ですから、私たちは他者と比べるべきではありません。ジョン・マクスウェル先生はこのように言います。
「自分より幸せな人というのは常に見つかるから、とんでもない欲求不満と不平に行きつくのがオチだ。」
神は私たち一人一人に合う祝福を与えてくださることを覚えて、聖書の命令に心を留めたいと思います。
「喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい。」(ローマ12:15)
創世記 48章
「それから、ヨセフを祝福して言った。「私の先祖アブラハムとイサクが、その御前に歩んだ神。きょうのこの日まで、ずっと私の羊飼いであられた神。」(15節)
ヤコブは、ヨセフの子供たちを祝福する祈りの中で、
「きょうのこの日まで、ずっと私の羊飼いであられた神」
と神を呼び、祝福しました。詩篇23篇に、
「主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。」
と記されています。ヤコブは体験からも、神が羊飼いであるならば、乏しいことはないということを知っていたので、そのように祈ったのだと思われます。イエス・キリストは言われました。
「わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。」(ヨハネ10:11)
イエス様は、おっしゃられたように、私たちの罪のために十字架にかかり死んでくださいました。しかし、それだけではなく、イエス様は死を打ち破り、よみがえられました。今も生きておられます。私たちが願うならば、今も、イエス様は私たちの良い羊飼いとなって導いてくださいます。
創世記 47章
「ヨセフは、パロの命じたとおりに、彼の父と兄弟たちを住ませ、彼らにエジプトの地で最も良い地、ラメセスの地を所有として与えた。」(11節)
パロがヤコブに「あなたの年は、幾つになりますか。」(8節)と尋ねられた時、彼はこう返答しました。
「わたしの旅路の年月は百三十年です。わたしの生涯の年月は短く、苦しみ多く、わたしの先祖たちの生涯や旅路の年月には及びません。」(9節・新共同訳)
ある聖書学者はこれは慣用句的な表現で、彼の本心と言うよりも謙遜にそう返答したのではと言います。しかし、確かに彼の人生はまさに波乱万丈でした。そんなヤコブの老後を待ち受けていたのは、「最も良い地」でした。神は、最終的に「最も良い地」に彼を導いたのです。神は最終的に私たちを必ず最も良い地に導いてくださいます。苦しみ多い人生に思えても、神の導きに従って生きていくならば、最終的には最も良い地に導かれます。
創世記 46章
「イスラエルは、彼に属するすべてのものといっしょに出発し、ベエル・シェバに来たとき、父イサクの神にいけにえをささげた。」(1節)
イスラエル(ヤコブ)はエジプトに行く前に、父イサクがかつて祭壇を築いた場所(26章参照)で、いけにえ(礼拝)を捧げました。「父イサクの神」という表現は、同じ創造主なる神であることを明確にしています。大きな決断をする前には、まず、神を礼拝し、神の前に静まって、神の導きを求めることが聖書的です。ヤコブは、礼拝を捧げた後に、神のみことばをいただきました。もし、神が「エジプトに下るな」と言われたら、彼は行くのを辞めたと思います。しかし、神が「わたし自身があなたといっしょにエジプトに下り」(4節)とおっしゃってくださったので、彼は勇気を受けることが出来たのだと思います。私たちもまず、神に礼拝を捧げることから始めることが大事だと思います。
創世記 45章
「だから、今、私をここに遣わしたのは、あなたがたではなく、実に、神なのです。神は私をパロには父とし、その全家の主とし、またエジプト全土の統治者とされたのです。」(8節)
ヨセフの兄たちは、彼をねたんで彼を奴隷としてエジプトに売りました。しかし、神はマイナスをプラスにしてくださいました。聖書は言います。
「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」(ローマ8:28)
神を愛することを選択する人々には、ヨセフがそうであったように、どんなにマイナスに見えるような出来事が起こっても、神が必ずプラスにしてくださるという世界があります。私たちはすべてを理解することはできません。しかし、神を愛することを選ぶならば、神のご計画を認め、神がすべてのことを働かせてプラスにしてくださるという世界を生きていくことができます。
創世記 44章
「ですから、どうか今、このしもべを、あの子の代わりに、あなたさまの奴隷としてとどめ、あの子を兄弟たちと帰らせてください。」(33節)
聖書学者の服部師は、この箇所をこう解説しています。
「ヨセフが最終的に確認したかったこと、知りたかったことは、かつて自分を遠くへ売りとばした兄弟たちが、老いた父を中心に仲良く生きているかどうかということであった。すなわち、兄弟愛であった。」「ユダは、弟ベニヤミンを案じ、懇願するようにヨセフに迫って訴え、論じ、結論的には弟ベニヤミンの身代わりになってもよいからベニヤミンを年老いた父ヤコブのもとに帰らせてやってくれるようにとヨセフに求めるのである。」
聖書は言います。
「あなたがたは、あらゆる努力をして、信仰には徳を、徳には知識を、知識には自制を、自制には忍耐を、忍耐には敬虔を、敬虔には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい。」(Ⅱペテロ1:5-7)
教会には兄弟愛が必要です。
創世記 43章
「全能の神がその方に、あなたがたをあわれませてくださるように。そしてもうひとりの兄弟とベニヤミンとをあなたがたに返してくださるように。私も、失うときには、失うのだ。」(14節)
ヤコブは末の息子のベニヤミンが兄弟たちと一緒にエジプトに行くことに最後まで抵抗しました。しかし最終的に、彼は開き直ったというよりも、全能の神にすべてを委ねて手放しました。神様はより大きな祝福を私たちに与えるために、あえて私たちが握り締めているものを手放すように追い込まれることがあります。ヨブもそうでした。ヨブは家族を失い、財産を失った時、神を礼拝して言いました。
「主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」(ヨブ1:21)
「主よ、順調な時も、そうでない時も、あなたを礼拝し、あなたを賛美し続けることができるように助けてください。」
創世記 42章
「彼らは互いに言った。『ああ、われわれは弟のことで罰を受けているのだなあ。あれがわれわれにあわれみを請うたとき、彼の心の苦しみを見ながら、われわれは聞き入れなかった。それでわれわれはこんな苦しみに会っているのだ。』」(21,22節)
罪責感は私たちの人生を狂わせます。心理学者によりますと、罪責感は罰を求めて自傷行為など私たちの身体に影響を与えると言います。聖書は罪責感が神との関係を壊して、神の御声を聞けなくさせ、神の臨在を感じなくさせると言います。ヨセフの兄弟たちは20年間、罪責感に悩まされ続けました。罪責感は、キリストの血潮によって取り除かれる必要があります。
「もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」(Ⅰヨハネ1:9)
「御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。」(Ⅰヨハネ1:7)
創世記 41章
「ヨセフはパロに答えて言った。『私ではありません。神がパロの繁栄を知らせてくださるのです。』」(16節)
神に用いられる人は神に栄光を帰す人です。
神は確かに夢を解き明かす賜物をヨセフに与えました。しかし彼はそれは神の御業であることを理解していたので、自分の栄光にすることはしませんでした。ヨセフは自分ではなく神に栄光を帰したのです。バプテスマのヨハネは、人々が彼の所から離れてイエス様の所にいくのを心配した弟子たちにこう言いました。
「人は、天から与えられるのでなければ、何も受けることはできません。」
「あの方は盛んになり私は衰えなければなりません。」(ヨハネ3:27,30)
彼もまた、「私ではありません。」と、自分にではなく神に栄光を帰しました。
「わたしの名で呼ばれるすべての者は、わたしの栄光のために、わたしがこれを創造し、これを形造り、これを造った。」(イザヤ43:7)
Soli Deo Gloria