創世記 30章

「ラケルは自分がヤコブに子を産んでいないのを見て、姉を嫉妬し、ヤコブに言った。『私に子どもを下さい。でなければ、私は死んでしまいます。』ヤコブはラケルに怒りを燃やして言った。『私が神に代わることができようか。」(1,2節)

ラケルは、神ではなく、ヤコブに子供を与えるように求めました。私たちも自分たちの必要を、ラケルのように、神ではなく、人に求めてしまうことがあります。よく考えますと、求められる方も大変です。なんとか期待に答えたいと奮闘するのですが、神の代わりを務めることが出来る人はいないからです。神ではありませんから、求めるものを何でも提供できるわけではないからです。教会も、クリスチャンも、神の代役をすることはできません。私たちの役割は、私たちのすべての必要に唯一答えることができる、今、生きておられる主、イエス・キリストを人々に指し示すことです。イエス・キリストに信頼しましょう。

創世記 29章

「彼女はまたみごもって、男の子を産み、「今度は主をほめたたえよう。」と言った。それゆえ、その子を彼女はユダと名づけた。」(35節)

 ヤコブは父をだまし、兄をだまし、憎まれたため、叔父の家に逃走しました。しかし今度は、ヤコブの方が叔父にだまされてしまいました。まさに、彼は蒔いた種を刈り取ります。(ガラテヤ6:7参照)彼は叔父の次女、ラケルと結婚するために叔父のもとで働きました。しかし、長女のレアと結婚させられてしまいます。ヤコブは結局、両方と結婚します。(注・聖書は一夫多妻制を肯定していません。マタイ19章・Ⅰテモテ3章参照)ここに悲劇が起こりました。レアは、ヤコブに愛されていないことを知り、努力しました。悲劇ですが、その状況の中で彼女が最終的に主をほめたたえる(ユダの意)ことを選ぶ姿に教えられます。このユダの子孫からキリストが生まれます。賛美することを選ぶことから奇跡がもたらされます。

創世記 28章

「ヤコブは眠りからさめて、「まことに主がこの所におられるのに、私はそれを知らなかった。」と言った。」(16節)

ヤコブは不安の中、石を枕に横になりました。そこで、天のはしごを見、天使が上り下りしているのを見ました。彼は、天が地に介入している光景を見たのです。彼は自分の未来を描くことができない、前が見えない状態でした。しかし、後ろを振り返ることもできませんでした。そこには、自分の命を狙う兄のエサウがいたからです。だから、先が見えなくても、前に進まなければいけませんでした。そのような不安の中、神はヤコブにご自身を現されました。彼のかたわらに立ち、彼に語られたのです。彼は思わず言いました。

「まことに主がこの所におられるのに、私はそれを知らなかった。」

見捨てられたような地、荒野にいても、天は開いていて、天使たちは上り下りしています。神はかたわらに立って、私たちを導いて下さいます。

創世記 27章

「イサクがヤコブを祝福し終わり、ヤコブが父イサクの前から出て行くか行かないうちに、兄のエサウが猟から帰って来た。」(30節)

ヤコブは母のリベカと共に父イサクをだましました。ヤコブがしたことを正当化することはできません。しかし、イサクの問題も明確です。そもそも、エサウとヤコブがリベカの腹の中にいた時に、神がこう言われました。

「二つの国があなたの胎内にあり、二つの国民があなたから分かれ出る。一つの国民は他の国民より強く、兄が弟に仕える。」(25:23)

つまり、イサクはヤコブを祝福しなければならなかったのです。ところが、イサクは神のご計画を無視して、エサウを祝福しようとしました。聖書にその理由をこう記しています。

「イサクはエサウを愛していた。それは彼が猟の獲物を好んでいたからである。」(25:28)

イサクは神のご計画を変えようとしたために悲劇が起こりました。今日は主の日。主を第一としましょう!

創世記 26章

「イサクはその地に種を蒔き、その年に百倍の収穫を見た。主が彼を祝福してくださったのである。こうして、この人は富み、ますます栄えて、非常に裕福になった。彼が羊の群れや、牛の群れ、それに多くのしもべたちを持つようになったので、ペリシテ人は彼をねたんだ。」(12-14節)

神が祝福される時、人々からねたまれるほどの祝福を受けるという世界があります。その祝福をイサクが体験できたのは、彼がその地に種を蒔いたからです。私たちはイサクのように受動的な信仰ではなく、能動的な信仰をもつことが大事です。神は私たちを祝福してくださるお方ですが、私たちも信仰をもって信仰の種を蒔いていく必要があります。成長させてくださるのは神ですが、種を蒔き、水を注ぐのは私たちです。イサクのように信仰の種、福音の種をこの地に蒔いていきましょう!

創世記 25章

「ヤコブはエサウにパンとレンズ豆の煮物を与えたので、エサウは食べたり、飲んだりして、立ち去った。こうしてエサウは長子の権利を軽蔑したのである。」(34節)

ヤコブのやり方は、決してほめられるようなものではありません。しかし、エサウの問題はもっと深刻でした。彼は目の前の幸福しか見えませんでした。今が幸せならどうでもいいという姿勢でした。さらに、エサウは長子の権利を軽蔑しました。神が立てられた秩序を軽視したのです。エサウの生き方は、神の祝福を失う生き方でした。新約聖書でこのように解説しています。

「エサウのように神様に無関心にならないように、よく注意しなさい。エサウは、ただ一度の食事のために、神様の祝福のしるしである、長子の権利を売りました。あとになって、後悔し、涙ながらにその権利を取り戻したいと願いましたが、遅すぎたのです。このことを、決して忘れないようにしなさい。」(ヘブル12:16,17LB)

一時の幸福のために、すべてを失ってはいけません。

創世記 24章

「私を、私の父の家、私の生まれ故郷から連れ出し、私に誓って、『あなたの子孫にこの地を与える。』と約束して仰せられた天の神、主は、御使いをあなたの前に遣わされる。あなたは、あそこで私の息子のために妻を迎えなさい。」(7節)

アブラハムは神の約束をしっかりと握り締めていました。神がおっしゃられるなら、神が必ず責任をもって実現してくださるという確信をもっていました。アブラハムはひとりのしもべを遣わします。しかし本当は、神が天使をその前に遣わしていると言います。聖書は言います。

「天使たちは皆、奉仕する霊であって、救いを受け継ぐことになっている人々に仕えるために、遣わされたのではなかったですか。」(ヘブル1:14共)

天使は、イエス・キリストを信じる者を守り助け、仕えるために遣わされている存在だと言います。神が私たちが行くその場所に、あらかじめ天使たちを遣わしているという事実に心を留めたいと思います。

創世記 22章

「そうしてアブラハムは、その場所を、アドナイ・イルエと名づけた。今日でも、「主の山の上には備えがある。」と言い伝えられている。」(14節)

神ご自身が、いけにえのための羊を用意されました。神は備え主、私たちの必要を備えてくださるお方です。興味深いことにこの「山」は「モリヤ」(2節)の山です。歴代誌第二にこういう記述があります。

「こうして、ソロモンは、主がその父ダビデにご自身を現わされた所、すなわちエルサレムのモリヤ山上で主の家の建設に取りかかった。彼はそのため、エブス人オルナンの打ち場にある、ダビデの指定した所に、場所を定めた。」(3:1)

もっともある学者は、アブラハムがイサクを捧げようとしたモリヤの山とは、イエスが十字架にかかられたゴルゴダのことだと言います。神はそのひとり子、イエスを十字架にかけられました。それは、イエスを信じる者が一人も滅びることなく、永遠のいのちを得るためです。