出エジプト 3章

「モーセは神に申し上げた。「私はいったい何者なのでしょう。パロのもとに行ってイスラエル人をエジプトから連れ出さなければならないとは。」」(11節)

若い時、正義感のゆえに大失敗を犯したモーセは、同胞のイスラエル人、そして、パロから逃げるようにひっそりとミデヤンの地で羊飼いの仕事をしていました。そんな彼のもとに主が来られて言いました。

「今、行け。わたしはあなたをパロのもとに遣わそう。わたしの民イスラエル人をエジプトから連れ出せ。」(10節)

モーセにしてみれば、

「神様、人選を間違えていませんか?私は大失敗をして、彼らから逃げて、ここにいるんですよ。」

というところでした。しかし、神様は、そんな

「私はいったい何者なのでしょう。」

と言うモーセを用いられました。

神様が用いられるのは砕かれた器です。

失敗は終わりではなく始まりです。

モーセのように今与えられていることに謙虚に仕えていきましょう。

出エジプト 2章

「神は彼らの嘆きを聞かれ、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされた。」(24節)

聖書のキーワードの一つは「契約」です。「旧約」の「約」も、「新約」の「約」も、「契約」の「約」です。神は「契約」の神です。天地万物を造られた神は、創造の冠である人間と「契約」を結ばれました。神はその「契約」に基づいて行動を起こされます。この出エジプト物語も、まさに、神とアブラハムとの「契約」に基づいているのです。同じように、神はイエス・キリストを信じる者は、一人も滅びることなく、永遠の命を持つことができるという「契約」を、イエス・キリストの十字架の死を通して与えられました。これが、新しい「契約」です。神はこの「契約」に基づき、イエス・キリストを信じるすべての人を天の御国へと導いてくださいます。

出エジプト1章

「しかし、助産婦たちは神を恐れ、エジプトの王が命じたとおりにはせず、男の子を生かしておいた。」(17節)

聖書は、

「主を恐れることは知識の初めである。」(箴言1:7)

と言います。イエス様もこう言われました。

「からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」(マタイ10:28)

助産婦たちは、からだを殺すことができるエジプトの王ではなく、たましいもからだも滅ぼすことのできる神を恐れました。その結果、

「助産婦たちは神を恐れたので、神は彼女たちの家を栄えさせた。」(21節)

とあります。

神への健康な恐れは、人に対する不健康な恐れを克服させてくださいます。神を正しく恐れることから健全な社会が生み出されていくと言っても過言ではないと思います。

マタイ 28章

「イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。『わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。」(18節)

イエス様は弟子たちに、

「みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。」(マタイ6:10)

と祈るように教えられました。そして、私たちのために十字架で死に、葬られ、よみがえられました。復活されたイエス様は、みこころが天で行われるように、地でも行われるためのいっさいの権威が与えられていることを弟子たちに言われました。そして、あらゆる国の人々にこの知らせを伝えるように命じました。つまり、イエス・キリストは今も生き続けておられます。天に昇り、全能の父なる神の右に座しておられると言う意味は、天においても、地においてもいっさいの権威をもつ、王座に着かれたということです。ですから、イエス様は言われます。

「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」(20節)

マタイ 27章

「そのとき、イエスを売ったユダは、イエスが罪に定められたのを知って後悔し、銀貨三十枚を、祭司長、長老たちに返して、『私は罪を犯した。罪のない人の血を売ったりして。』と言った。しかし、彼らは、『私たちの知ったことか。自分で始末することだ。』と言った。」(3,4節)

当時の宗教指導者たちは、ユダをそそのかし、間違った方向に彼を導きました。しかし、その責任はとってはくれませんでした。結局は、人は自分で自分の蒔いた種を刈り取るようにさせられてしまいます。日々、様々なメディヤを通して流れてくる情報も、たとえ私たちを誤った方向に導いたとしても、責任をとってはくれません。ですから、日々生ける神、イエス様の導きを求めて祈りつつ生きていく必要があります。自分で聖書のみことばを開いて、聖霊様の導きを求めて生きていく必要があります。イエス様が間違えることはありませんし、私たちを突っぱねることもありません。

マタイ 26章

「ひとりの女がたいへん高価な香油のはいった石膏のつぼを持ってみもとに来て、食卓に着いておられたイエスの頭に香油を注いだ。弟子たちはこれを見て、憤慨して言った。『何のために、こんなむだなことをするのか。この香油なら、高く売れて、貧乏な人たちに施しができたのに。』するとイエスはこれを知って、彼らに言われた。『なぜ、この女を困らせるのです。わたしに対してりっぱなことをしてくれたのです。」(7‐10節)

イエス様に高価なものを捧げることは無駄なことではありません。「こんなむだなこと」と憤慨した弟子たちも、別に、それを慈善のために捧げる気持ちがあったわけでもありませんでした。王の王、主の主なるイエス・キリストに礼拝を捧げるために、惜しみなく資源を用いることをもったいないと言う姿勢は、聖書的ではありません。今日は主の日です。イエス様に最高を捧げる姿勢をもつことができますように。

マタイ 25章

「すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』それから、王はまた、その左にいる者たちに言います。『のろわれた者ども。わたしから離れて、悪魔とその使いたちのために用意された永遠の火にはいれ。」(40,41節)

憐れみを示したか、示さなかったかという基準で裁かれるということでしょうか?

「永遠の火」は「地獄」のことだと考えられます。「悪魔とその使いたちのために用意された」とあるように、地獄は、そもそも人のためでないことが分かります。

興味深いことにこの文脈は、「やってあげた」と主張するグループと、そんなことも忘れているグループに分けられています。そして、前者が地獄に行き、後者が天国に入れられます。

自分の功績に生きるか、神の恵みに生きているかが問われるということなのかもしれません。

マタイ 24章

「ただし、その日、その時がいつであるかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられます。」(36節)

この世の終わりに関する預言の箇所です。イエス様は、はっきりとこの世の終わりがいつか、誰も知らないと言っていますから、知っているという人は偽預言者であるということははっきりしています。教会はその日がいつか言及してはいけないのです。その日がいつか分からないから、私たちは日々、いい緊張感の中で生きることができます。いつ、キリストが再び来られてもいいように一日、一日を生活することを聖書は勧めています。キリストは言います。

「ちょうど、ノアの時代のように。当時の人々は洪水が襲う直前まで、宴会だ、結婚式だと陽気に楽しんでいました。何もかも押し流されてしまうまで、洪水のことなど信じようとしなかったのです。わたしが来る時も、それと同じです。」(同37-39LB)

マタイ 23章

「ですから、彼らがあなたがたに言うことはみな、行ない、守りなさい。けれども、彼らの行ないをまねてはいけません。彼らは言うことは言うが、実行しないからです。また、彼らは重い荷をくくって、人の肩に載せ、自分はそれに指一本さわろうとはしません。」(3,4節)

当時の宗教指導者たちは自分たちは高い道徳に生きていると思っていました。しかし、実際はできていませんでした。彼らはそのことに気づきもせずに人々を裁いていました。自分でさえ達成できない基準で人を裁くことはイエス様が一番嫌われたことでした。自分が出来ないことを他者に要求して、裁いていないでしょうか。イエス様は私たちを裁く代わりに、私たちの身代わりになって十字架で裁きを受けられました。ですから、私たちが傲慢になって、自分を棚に上げて人々を裁くことを嫌われるのです。

「主よ、あなたのあわれみを感謝します。私もあわれみ深い人にして下さい。」

マタイ 22章

「そこで、王は言った。『あなたは、どうして礼服を着ないで、ここにはいって来たのですか。』しかし、彼は黙っていた。」(12節)

「礼服を着ないで」というのは、別に結婚式に単にフォーマルを着て来なかったという意味ではありません。当時、招待する側は、その時着てくる礼服も準備するという習慣がありました。つまり、「礼服を着ないで」ということは、準備されていた礼服を着て来なかったという意味があるのです。礼服を準備するには、それなりに費用も、犠牲もかかったことでしょう。それなのに、それを着てこないというのは、準備した側に対して失礼な話であることは間違いありません。神様は私たちを招待するだけでなく、私たちに義の衣という礼服をすでに用意されました。それは、キリストの十字架と言う犠牲によって作られた礼服です。神様はすべての人を神の国に招待してはいますが、この礼服を着なければ、神の国に入ることはできません。