マタイ 11章

「わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」(30節)

イエス様の「荷」とは何でしょうか。それは、父なる神のみこころを行うことでした。そして、それは「軽い」と言われました。つまり、私たちが自分を喜ばそうと生きることよりも、神を喜ばそうと生きるほうが容易いと言ったのです。自分のために生きようとする時、私たちは様々な重荷に押しつぶされそうになります。29節をリビングバイブルではこう訳しています。

「わたしはやさしく、謙遜な者ですから、負いやすいわたしのくびきを、わたしといっしょに負って、わたしの教えを受けなさい。そうすれば、あなたがたのたましいは安らかになります。」

神のために生きる時、私たちはイエス様と共にくびきを負い、イエス様の力で、成し遂げていくことができます。ですからイエス様は言われます。

「わたしのところに来なさい。」(28節)

マタイ 10章

「わたしの弟子だというので、この小さい者たちのひとりに、水一杯でも飲ませるなら、まことに、あなたがたに告げます。その人は決して報いに漏れることはありません。」(42節)

神の国の働きのために献身した働き人に、神の国の働きのために献身しているからという理由で、敬意を払うならば、その報いを受けると言います。それだけでなく、イエス様の弟子だと言うだけで水一杯提供するならば、その報いからもれることはないと言います。その人の報いのためにも、私たちは快く善意を受け留めることを学ぶ必要もあると思います。使徒パウロも、自分を支援してくれたピリピの教会にこのように言っています。

「贈り物を感謝するのはもちろんのこと、何よりもうれしいのは、その親切な行いのゆえにあなたがたが受ける、豊かな報いのことです。」(ピリピ4:17LB)

神は必ず報いてくださいます。

マタイ 9章

「イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない。』とはどういう意味か、行って学んで来なさい。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」」(12,13節)

イエス様は当時罪人としてはじかれていた人たちと、あえて食事をされました。当時の宗教指導者たちにとって、誰と食事をするかは重要なことでした。なぜなら、穢れた人と共に食事をしたら、自分も穢れると考えていたからです。彼らはいつも自分が正しかったのです。しかしイエス様は、神の愛が必要な人ならだれにでも近づいていき、一緒に食事をしました。食事は、神の国の現れを意味していたからです。神の国は、憐れみ深くなることを通して現されます。自分の物差しで他者を裁き、自分がいつも正しい人は、その食卓に着こうともしません。

マタイ 8章

「ただ、おことばをいただかせてください。そうすれば、私のしもべは直りますから。」(8節)

権威がある人が発することばには、権威があります。「客」がレストランで、「水をください」と言う言葉を発すると、水が来ます。その言葉を発した人の権威が、実現します。ローマ軍の隊長は、イエス様のことばに、それほどの権威を認めたので、「ただ、おことばをいただかせてください。」と言いました。聖書は言います。

「雨や雪が天から降ってもとに戻らず、必ず地を潤し、それに物を生えさせ、芽を出させ、種蒔く者には種を与え、食べる者にはパンを与える。そのように、わたしの口から出るわたしのことばも、むなしく、わたしのところに帰っては来ない。必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる。」(イザヤ55:10,11)

聖書を読むとき、それほどの権威を認めて読んでいるでしょうか。

マタイ 7章

「兄弟に向かって、『あなたの目のちりを取らせてください。』などとどうして言うのですか。見なさい、自分の目には梁があるではありませんか。」(4節)

 1節をリビングバイブルではこう訳しています。

「人のあら探しをしてはいけません。自分もそうされないためです。」

自分を棚上げして相手を裁くことが、裁きの対象となることをイエス様は指摘しました。自分が出来ていないことを、他者に求めることは間違っています。他者を教えて変えようとするよりも、まず、自分を変えようと努力すべきです。ヤコブは言いました。

「私の兄弟たち。多くの者が教師になってはいけません。ご承知のように、私たち教師は、格別きびしいさばきを受けるのです。」(ヤコブ3:1)

自分自身を吟味せずに他者を教えようとすることは、危険なことです。まず、自分自身と向き合うことなくして、他者を教えるべきではありません。

マタイ 6章

「だれも、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。」(24節)

「富」と訳された言葉の原語は「マモナス」(崇拝の対象者)です。デシルバ先生によると、「マモナス」は、

まず、「富の力によって欲しいものを手に入れたり、誰かを魅了したりするように誘惑します。」

第二に、「誠実さと人間関係を破壊するために働きます。」(誠実よりもお金を優先させるから)

第三に、「官能的な生活を奨励します。」

そして、その存在を認識するために、

まず、「人生の実を調べること」。

第二に、「心の中で一番大切にしているものが何かを突き止めること」。

そして、「マモナス」に信頼していたことを悔い改め、赦しを受け取り、

「神こそあなたが最優先するお方であり、最も深く愛する方となるよう」祈るよう勧めます。

マタイ 5章

「しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。」(44節)

聖書は隣人だけでなく、敵を愛しなさいと言います。ある作家は、「多くの場合、同じ人だから」と言います。すべての人から好意を得ることができると考えるのは現実的ではありません。イエス様は敵の存在を否定しないものの、敵に対する対応を教えます。

まず、神の祝福を祈ることです。

それは簡単なことではありませんが、祝福を祈ることによって勝利を体験します。

そして、異なった生き方を心がけることです。47節をリビングバイブルではこう訳しています。

「気の合う友達とだけ親しくしたところで、ほかの人とどこが違うと言えるでしょう。神を信じなくても、そのくらいのことはだれでもします。」

怒りに怒りで返しても憎しみしか残りません。イエス様は愛で応答し、憎しみの連鎖を打ち砕きました。

今日は主の日です。主に心からの礼拝を捧げましょう。

マタイ 4章

「この時から、イエスは宣教を開始して、言われた。『悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。』」(17節)

イエス・キリストのメッセージは二つありました。

第一が「悔い改め。」

自分中心という考え方から、神中心という考え方に転換すること。

第二は、「天の御国が近づいた。」

天の御国とは、「神の統治」のことで、神が王として統治されている世界が、神の国です。メッセージという訳では、こう訳しています。

「あなたの生き方を変えなさい。神の御国はここにあるから。」

イエス様は弟子たちにこう祈るように教えられました。

「御国が来ますように。みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。」(マタイ6:10)

イエス・キリストと共に天の御国はこの地にすでに到来しました。そして、やがてイエス・キリストが再び来られる時、完全な形で到来します。その日まで、イエスの十字架の死と復活によって「神の統治」がここにあることを宣言します。

マタイ 3章

「そのころ、バプテスマのヨハネが現われ、ユダヤの荒野で教えを宣べて、言った。「悔い改めなさい。」(1,2節)

「悔い改め」とは、単に悪いと思うことではありません。考え方を変えるという意味があります。「方向転換」とも説明されますが、自分中心の思考から、神中心の思考に変えることを意味します。ですから、使徒パウロは言いました。

「それとも、神の慈愛があなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と忍耐と寛容とを軽んじているのですか。」(ローマ2:4)

リビングバイブルではこのように訳しています。

「神がどれだけ忍耐しておられるか、わからないのですか。それとも、そんなことは気にもかけていないのですか。神があなたを罰しもせず、長いあいだ待っていてくださったのは、罪から離れるのに必要な時間を与えるためでした。神の愛は、あなたを悔い改めに導くためのものです。」
「聖霊様、私の考え方を神中心に変えてください。」

マタイ 2章

「そして、ナザレという町に行って住んだ。これは預言者たちを通して「この方はナザレ人と呼ばれる。」と言われた事が成就するためであった。」(23節)

ヨセフとマリヤはそもそもローマ皇帝の勅令でベツレヘムに行かなければなりませんでした。そこで、イエスさまは生まれました。そして、それは預言の成就でした。ヨセフとマリヤはヘロデの手から逃れるためにエジプトヘ行きました。当時、アレキサンドリアには大勢のユダヤ人が住んでいたことが知られています。大事なポイントは、それも預言の成就だったということです。その後、ユダヤは危険なのでナザレという小さな町に住みました。それもまた、預言の成就でした。私たちは生きている限り理解できないことがいろいろと起こります。しかし、神は、「しまった!」と言うことのないお方です。すべては神の御手の中にあり、私たちはやがてパズルのピースがはまり、神のご計画の素晴らしさを賛美するようになります。