マルコ 14章

「イエスがベタニヤで、らい病人シモンの家におられたとき、食卓についておられると、ひとりの女が、純粋で、非常に高価なナルド油のはいった石膏のつぼを持って来て、そのつぼを割り、イエスの頭に注いだ。」(3節)

「非常に高価なナルド油」というのは、当時の労働者の一年分の賃金に相当する額(5節)でした。それを惜しげもなくイエス様に注いだという意味は、それほどの価値をイエス様に見出したという意味です。東方の博士たちも、同じように黄金、乳香(香料の一種)、没薬(天然ゴムの樹脂で、古代の貴重な防腐剤)を贈り物として生まれたばかりの赤子のイエス様に捧げました。この時、「何のために、香油をこんなにむだにしたのか。」(4節)と憤慨し、捧げた女性を責めた弟子たちは、この後、イエス様を見捨てて逃げてしまいました。今日は、クリスマス礼拝の主の日です。私たちはイエス様を、何よりも価値のある方として認めているでしょうか?

※ 本日はクリスマス特別礼拝! 第二礼拝後に祝会が行われます。第三礼拝はお休みです。

マルコ 13章

「いちじくの木から、たとえを学びなさい。枝が柔らかになって、葉が出て来ると、夏の近いことがわかります。」(28節)

「いちじくの木」はイスラエルの国の象徴です。この世の終わりとイスラエルの情勢は切り離すことはできません。中東にあるこの小さな国が世界に与えている影響は計り知れません。遠く離れたこの日本で、イスラエルの情勢を知ることができる時代に今生きているということも偶然だとは思えません。イスラエルは世界の日時計と言われますが、人類の歴史の最終段階では、ユダヤ民族に次の三つのことが起こると預言されています。

第一に、ユダヤ人が世界各地からパレスチナに戻ってきて国を再建すること、

第二に、エルサレムをイスラエルの支配下に戻すこと。

ここまではこの100年の内に起こりました。

第三は、イスラエルの国が国際的に孤立し、敵視されること。

それがまさに今、起こっていることです。

クリスマスにこの世に生まれたように、イエス様は再び来られます。

マルコ 12章

「そこへひとりの貧しいやもめが来て、レプタ銅貨を二つ投げ入れた。それは一コドラントに当たる。すると、イエスは弟子たちを呼び寄せて、こう言われた。『まことに、あなたがたに告げます。この貧しいやもめは、献金箱に投げ入れていたどの人よりもたくさん投げ入れました。みなは、あり余る中から投げ入れたのに、この女は、乏しい中から、あるだけを全部、生活費の全部を投げ入れたからです。』」(42‐44節)

LBで42節をこう訳しています。

「みすぼらしいなりの未亡人がやってきて、そっと十円玉を二つ投げ入れました。」

イエス様は、この十円玉二枚のささげ物の意味をご存知でした。彼女は「生活費の全部を投げ入れた」ということは、全生活が神に支えられているという彼女の信仰告白でもあることを見ておられたのです。イエス様は金額ではなく、私たちの心を見ておられます。そしてこのクリスマスの季節に、神がまず私たちにひとり子、イエス様をお与えて下さったことを覚えたいと思います。

マルコ 11章

「葉の茂ったいちじくの木が遠くに見えたので、それに何かありはしないかと見に行かれたが、そこに来ると、葉のほかは何もないのに気づかれた。いちじくのなる季節ではなかったからである。イエスは、その木に向かって言われた。『今後、いつまでも、だれもおまえの実を食べることのないように。』弟子たちはこれを聞いていた。」(13,14節)

いちじくの木が象徴しているのはイスラエルの国です。イスラエルの問題は実を実らせていなかったことでした。聖書は御霊の実は「愛」(ガラテヤ5:22)だと言います。黙示録2章でイエス様は、愛のない教会にはとどまらないと言われます。

「どうしてそうなったのか、胸に手を当てて考え、初めの愛に立ち返って、以前のように励みなさい。」(5節LB)
「主よ、どうか私たちの教会に愛がありますように。あなたが探されている愛の実があなたの庭園であるこの教会で見いだせますように。」

マルコ 10章

「・・・あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、みなのしもべになりなさい。人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。」(43‐45節)

一般的に三大誘惑とは、権力、富、性であると言われています。多くの人は権力を乱用してしまうために、イエス様は逆さまの考え方を提示しました。それは仕えるリーダーシップです。イエス様はご自身の生き方で現してくださいました。権力争いをすることよりも、人々に仕えることを選ばれました。使徒パウロはこのように言っています。

「このように労苦して弱い者を助けなければならないこと、また、主イエスご自身が、『受けるよりも与えるほうが幸いである。』と言われたみことばを思い出すべきことを、私は、万事につけ、あなたがたに示して来たのです。」(使徒20:35)

マルコ 9章

「するとすぐに、その子の父は叫んで言った。「信じます。不信仰な私をお助けください。」」(24節)

私たちは、様々な壁にぶつかり、困難に直面し、辞めたくなる時があります。逃げ出したくなる時があります。しかし、膝をかがめ、

「信じます。不信仰な私をお助けください。」

と祈り、叫ぶ中で、不思議と不可能に思えたその山を登っている自分に気づくことがあります。信仰生活というのは、残念ながら、楽なものではありません。段々、楽になっていくというものでもありません。年々、神様からの新しい力が必要であることを感じます。使徒パウロは、晩年、弟子のテモテにこう言いました。

「私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。」(Ⅱテモテ4:7)

「信仰は守り通すものなのだ」と、次世代のテモテを、パウロは諭します。この手紙を読んだテモテは、こう祈ったかもしれません。

「主よ!「信じ続けます。不信仰な私をお助けください。」」

マルコ 8章

「それから、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、殺され、三日の後によみがえらなければならないと、弟子たちに教え始められた。」(31節)

旧約聖書のダニエル書7章に「人の子」という表現が登場します。ダニエル書に出てくる「人の子」というのは、異教の敵の手によって苦しめられている神の民の象徴です。「人の子」は苦難の後、ついに神が御国を建ててくださることによって回復されます。イエス様は、「メシヤ」とは、そのような「イスラエルの象徴」としての「人の子」として理解していました。そして、イスラエルの象徴としてのメシヤとしての使命、定めとして、苦難を通らなければならないと理解していたのです。つまり、メシヤは、すべての人のために、十字架で死に、葬られ、よみがえられなければならないと。私たちはこのように神のご計画の全体を通して今を見ることが求められています。私たちは今、イエス様の内に生きるのです。

マルコ 7章

「そして、天を見上げ、深く嘆息して、その人に「エパタ。」すなわち、「開け。」と言われた。」(34節)

指を両耳に差し入れ、つばきをし、そのつばきをつけた手で、その人の舌に触り、天を見上げて、深く息をついて、「開け」と言ったとあります。この一連の動作は、当時の人々にとって、特異ではない、医療行為だったようです。もっとも注目すべきは、イエス様が「「エパタ。」、「開け。」と言われた。」という箇所です。イエス様の日常語、アラム語です。初代教会で一般的に使用されていたのだと思われます。原文は命令形ですが受動態です。つまり、「開かれなさい!」。神的受動態と呼ばれ、主語は「神」です。「人にはできないことも神にはできる」という信仰をもって、初代教会の人たちは、「エパタ!」、「開かれなさい!」と祈っていたということです。神は今も生きて、働かれておられます。私たちの想定を超えて、素晴らしい御業をなされる方です。私たちも信仰をもって、「エパタ!」と信仰の宣言をしましょう!

マルコ 6章

「イエスは、舟から上がられると、多くの群衆をご覧になった。そして彼らが羊飼いのいない羊のようであるのを深くあわれみ、いろいろと教え始められた。」(34節)

群衆をご覧になったイエス様は、岩波訳で

「腸(はらわた)のちぎれる想いに駆られた」

と訳しています。

単に「かわいそう」に思ったというレベルではありません。

心の底からいたたまれない思いになったのです。

そのイエス様がされたことは

「教え」ることでした。

教会がまず提供すべきことは、イエス様の教え、聖書のみことばを教えることです。「神のことば」には力があります。人がもっとも必要としているものは「神のことば」です。「キリストのからだ」であるはずの教会が「神のことば」である聖書を教えなければ、どこが聖書を教えるのでしょうか?

はらわたのちぎれる想いに駆られて教えられたイエス様は、今もご自身のからだである教会を用いて、人々に聖書のみことばを教えられます。

マルコ 5章

「イエスは、その話のことばをそばで聞いて、会堂管理者に言われた。「恐れないで、ただ信じていなさい。」」(36節)

「イエスは、その話のことばをそばで聞いて」

という箇所を、口語訳では、

「その話している言葉を聞き流して」

と訳しています。

「現実」を直視することは、大切なことです。しかし、イエス様は、時として私たちに、「超現実」に生きることを求められます。

イエス様は、「ヤイロの娘が死んでしまった」という報告に対して、「聞こえないふり」をしました。そして、ただ、こう言われました。

「恐れてはいけない。ただ、信じ続けなさい!」
神の御業を体験するためには、時として「この世の常識」を聞き流して、ただ、イエス様を信頼する必要があります。不信仰なことばを聞き流し、恐れずに、信仰の言葉、神のみことばに生きていくならば、必ず、神さまの栄光を拝する時が来ます。