レビ記 5章

「「人が罪を犯す場合、すなわち、証言しなければのろわれるという声を聞きながら―彼がそれを見ているとか、知っている証人であるのに―、そのことについて証言しないなら、その人は罪の咎を負わなければならない。」(1節)

LBではこの箇所をこう訳しています。

「ある犯罪について何かの事実を知っていながら、証言を拒否すれば、有罪となる。」

この原則をクリスチャンに適用するならば次のようになると思われます。

「キリストを信じるならば救われる」という事実を私たちは知っています。しかしこのことを証言することを拒否するならば、有罪となる。

もっとも私たちは、義務感から証言するわけではなく、キリストとの関係のゆえに証言します。しかし、キリストの愛を証言する機会が与えられた時に、語らないことは有罪と同じと言われていることに心を留める必要があると思います。

「主よ、あなたの救いを証言することができますように。」

レビ記 3章

「脂肪は全部、主のものである。」(16節)

当時、脂肪は一番よいものと考えられていました。ですから一番よいものは神様に捧げることの大切さをここに見ることができます。榎本師はこう言っています。

「私たちもあらゆる面で、最善のものは主に帰すべきものであることを覚え、神に最善をささげていきたい。そのときにはじめて神との交わりに生きることができるのである。」

このメッセージは重要ですが、神のみこころはさらに深いことを感じます。現代の研究で、脂肪を多量に摂取することが私たち人間の体に良くないことがわかってきました。実は脂肪を捧げることを通して、イスラエルの民は様々な病気から守られていたのです。このことと同じように、その時はわからなくても、時がたてば、神様が語っていたことの深い意味を理解できるようになっていきます。

「神様、あなたに信頼し捧げる人生を歩めますように。」

レビ記 2章

「あなたの穀物のささげ物にはすべて、塩で味をつけなければならない。あなたの穀物のささげ物にあなたの神の契約の塩を欠かしてはならない。あなたのささげ物には、いつでも塩を添えてささげなければならない。」(13節)

聖書の中で塩は、いろいろな象徴として用いられています。腐敗を防止し、食べ物を保存する役割があることから、永久性を象徴しました。ささげ物に塩を加えることによって、礼拝者は神と永遠なる契約関係にあることを思い起こしました。また塩は、「大切なもの」「欠かせないもの」として用いられています。私たちは、イエス・キリストを欠かすことはできません。私たちが神にささげる祈りも賛美も、イエス・キリストによってなされなければなりません。イエス・キリストの御名を欠かしてはなりません。イエス・キリストにある祈り、賛美が、神に受け入れられるささげ物だからです。今日は主の日。イエス・キリストの御名によって礼拝を捧げましょう。

レビ記 1章

「主はモーセを呼び寄せ、会見の天幕から彼に告げて仰せられた。」(1節)

レビ記は、原文の冒頭にあたる

「(主は)呼び寄せ」

という一語が書名になっています。主は、私たちを呼び寄せられるお方です。会見の幕屋は、荒野を旅するイスラエルの民の真ん中にありました。出エジプトの最終章に、このような記述があります。

「すると、雲が会見の幕屋を覆い、ヤハウェの栄光が宿り場に満ちた。モーセは、会見の天幕に入ることができなかった。その上に雲が宿っており、ヤハウェの栄光が宿り場に満ちていたからである。」(40:34,35岩波訳)

シナイ山からモーセに呼びかけた主は、会見の幕屋に神が臨在され、モーセを呼ばれました。数千年後、ヨハネは記しました。

「ことばは肉なる人となって、われわれの間に幕屋を張った。‐われわれは彼の栄光を、父から遣わされたひとり子の持つものとしての栄光を観た」(ヨハネ1:14岩波訳)

聖書は言います。

「この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました。」(へブル1:2)

ルカ 24章

「それから、イエスは、モーセおよびすべての預言者から始めて、聖書全体の中で、ご自分について書いてある事がらを彼らに説き明かされた。」(27節)

旧約聖書にはイエス様に関する預言が数多く記されています。ユダヤ人を対象として書かれたマタイの福音書では特に預言の引用箇所が多く記されていることは興味深いことです。聖書全体を通して神様の救いのご計画が明らかにされていますから、逆に一部分だけを強調し、用いてしまうことは偏ったメッセージを送ってしまう危険性があります。わたしたちは聖書の土台をしっかりと持ち、創世記から黙示録までをバランスよく学ぶことを大切にしていきましょう。一月が半分過ぎましたが、聖書を毎日開くことを習慣にできていますか?今年はまだ始まったばかりです。今日から、続けていきましょう!

ルカ 23章

「そのとき、イエスはこう言われた。『父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分で分からないのです。』彼らは、くじをひいてイエスの着物を分けた。」(34節)

罪のないイエス様は不当な裁判にかけられ、愚弄、嘲笑され、鞭打たれ、いばらの冠をかぶせられ、瀕死の状態でゴルゴダの丘まで十字架を背負って歩かされ、両手両足に釘を打ちつけられ十字架にかけられました。弟子たちはほとんどみんな逃げてしまい、そばにいるのはローマ兵たち。そして祭司長、律法学者は十字架上で苦しむイエス様にさらなる悪口雑言を言いたてました。そんな状況の中でのこの祈りは、衝撃的です。「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。」まさに、この御言葉の通りです。イエス様がそうされたのですから、わたしたちもそうするものでありたいと心から願います。

ルカ 22章

「主が振り向いてペテロを見つめられた。ペテロは、『きょう、鶏が鳴くまでに、あなたは、三度わたしを知らないと言う。』と言われた主のおことばを思い出した。彼は、外に出て、激しく泣いた。」(61‐62節)

「あなたのためなら死ねます。」
数時間前に、ペテロはイエス様にそう宣言しました。わたしはこのペテロの姿がいつも自分自身と重なります。主のために、なんでも!と思っていても、ちょっとした出来事であっという間にその気持ちが消えてしまう、、、イエス様を何度がっかりさせてきただろうと思うと、泣けてきます。でも、イエス様はすべてをご存じでした。知った上で、すでにペテロのために、その信仰がなくならないようにと祈ってくださったのです。裏切ると知った上で、愛をそそぎ、祈ってくださったイエス様は、わたしたちのためにも愛をそそぎ、今日も支えてくださるお方です。ハレルヤ!

ルカ 21章

「宮が素晴らしい石や奉納物で飾ってあると話していた人々があった。するとイエスはこう言われた。『あなたがたが見ているこれらの物について言えば、石がくずされずに積まれたまま残ることのない日がやってきます。』」(5-6節)

ヘロデ大王が大改修し、豪華絢爛に造ったエルサレム神殿は目を見張るような素晴らしさであったと言われています。外壁だけをみても現存する切り石としては世界最大、長さ12メートル、推定400トンの巨大な建造物は、きっと当時の人々に神殿の永遠性を印象付けたことでしょう。しかし、イエス様はこの神殿の終わりを預言しました。事実、紀元七十年にローマ軍によって完全に破壊されてしまいます。ただ、この預言とともに、イエス様はそこから救われる方法も合わせて伝えています(20‐21節)。わたしたちも注意深く聖書の御言葉を聞き、神様のメッセージ受け取りたいものです。

ルカ 20章

「イエスは、彼らを見つめて言われた。「では、『家を建てる者たちの見捨てた石、それが礎の石となった。』と書いてあるのは、何のことでしょう。」(17節)

9節以下の悪しき農夫のたとえは、歴史的に反ユダヤ主義として曲解されてきました。ぶどう園をイスラエルだと曲解し、イスラエルにとって代わって教会の時代となったという置換神学と呼ばれる神学を生み出しました。しかし、イスラエルからイスラエルを取り上げるというのは飛躍しすぎであり注意すべきです。神はイスラエルを拒絶したわけではありません。ここでイエス様が問題しているのは当時の特権階級の宗教指導者たちです。彼らが神の働きに反していることを伝えたのです。彼らは基本とすべきイエス様のことを見捨てたと批判したのです。そして、この神の国を建てあげる特権は、当時の宗教指導者たちから取り上げられ、キリストを土台として建てあげる教会に与えられました。

ルカ 19章

「宮に入られたイエスは、商売人たちを追い出し始め、こう言われた。『わたしの家は、祈りの家でなければならない』と書いてある。それなのに、あなたがたはそれを強盗の巣にした。」(45‐46節)

この箇所は「宮きよめ」として良く知られていますが、同じ内容がすべての福音書にしるされています。それだけこの出来事を重要なこととして認識していたからでしょう。これはエルサレム神殿の異邦人の庭と呼ばれる場所が舞台です。もともと異邦人の庭は、神殿に入ることのできない外国人が礼拝を捧げるための場として設けられていましたが、当時この場所では神殿に捧げるものが簡単に用意できるようにと、祭司主導で商売が行われ、とても礼拝ができるような状況ではありませんでした。イエス様はすべての人が神様に礼拝を捧げることができるように、妨げとなるものを取り除いて下さいました。そしてこの数日後、十字架にかかられたのです。